|
幼名は「仙菊」でお母サンは伊予松山藩主松平定行サンの娘菊姫ですw 父昌勝は第2代目福井藩主松平忠昌の長男だったけど母親の身分が低くて嫡子にはなれなかったんですよ…代わりに正室の子供だった異母弟光通が嫡子とされたんです!そんで正保2年(1645年)異母弟光通が越前松平家を相続した際に5万石を分与されて松岡藩を立藩してたんです!そんで本家福井藩を継げなかった事に不満を持って生活してたんです…寛文9年(1669年)4月福井城下で大火が発生し城下と福井城が焼失します!! 寛文12年(1672年)福井城が再建されたけど…天守閣は再建されなかったんです… 延宝元年(1673年)福井藩主松平光通の長男直堅が突然家出して行方不明になります!! 延宝2年(1674年)3月24日福井藩主松平光通が享年39歳で自殺します…家庭的にも政治的にも苦難続きで精神的にまいってたんですよ…父昌勝は本家福井藩を相続出来ると不謹慎にも喜んじゃうんです♪でも… 叔父光通は「弟昌親に家督を譲るように…」って遺書を残してたんです… 福井藩は大きく「長男直堅派」と「異母弟昌親派」に分れて対立し出すんです!! 延宝2年(1674年)5月幕府は叔父昌親の相続を認め福井騒動は一旦終結します… でも…父昌勝を始め藩内にはこの結末に不満を持つ声が充満してたんですよ… 叔父昌親も新たな火種になり兼ねないと考えて苦肉の策に出ます!それは… 延宝2年(1674年)7月3日叔父昌親のたっての希望で養嗣子となるんです!! でも…藩内の不満の声は収まる事はなかったんです…そんで… 延宝4年(1676年)7月21日養父昌親が突然隠居し15歳で家督を継ぎます! さらに従四位下・左近衛権少将に叙任任官するんですw そんで4代将軍徳川家綱に謁見して家督相続の旨を報告するんですw この頃に権大納言飛鳥井雅直の娘サンと結婚してますw この時…福井藩を混乱から早く立ち直らせようと理想を掲げて熱く燃えてました!! 延宝8年(1680年)5月8日4代将軍徳川家綱が享年40歳で死去します…延宝8年(1680年)6月26日鳥羽藩主内藤忠勝が芝増上寺殺傷事件が起こします!!延宝8年(1680年)12月9日に大老酒井忠清が失脚します! 実際藩政は…養父昌親の影響力が今だにあって思い通りに何も出来ない状況でした… その不満は募る一方でお酒に溺れる事も多くなるんです…その不満がついに爆発し… 延宝9年(1681年)3月理由も無く側近を無礼討ちとして殺害しちゃうんです… 延宝9年(1681年)6月に越後騒動が起きます! 天和元年(1681年)に沼田藩真田家が改易されます! この頃から天候不順等で藩内で飢饉が発生し出すんです… でも…飢饉対策がうまく出来ずに多数の餓死者を出しちゃうんですよ… 天和3年(1683年)閏5月28日将軍世継徳川徳松が享年4歳で死去します…貞享元年(1684年)7月22日土方騒動で窪田藩土方家が【改易】になります…貞享元年(1684年)8月28日江戸城内で大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に暗殺されます! 貞享2年(1685年)「面倒臭い」を理由に江戸城登城をサボっちゃいます!! 貞享3年(1686年)閏3月6日遂に【狂気】を理由に【改易】を命じられます!! そんで江戸鳥越に蟄居となり幕府から給付金を支給され余生を過すんです… でも…結城秀康以来の名族「越前松平家」存続嘆願の声が諸方から起るんですよ! そんで幕府は養父昌親(吉品に改名)に知行半減(25万石)の上で再封し家名存続を許します! さらに附家老の府中藩本多家も連座し知行を半減されちゃうんです… 元禄3年(1690年)長男浅次郎が誕生しますw 元禄6年(1693年)松山藩水谷家が改易されます!! 元禄6年(1693年)7月27日父昌勝が享年58歳で死去します…元禄10年(1697年)正月17日従兄弟松平直堅が享年42歳で死去します…元禄11年(1698年)7月28日に中津藩小笠原家が【改易】されます!!元禄12年(1699年)2月11日に江戸鳥越にて享年39歳で死去します…法名は「清浄院殿明譽光巌照哲大居士」です…ちなみに…長男浅次郎は養父吉品の配慮で府中藩本多家に養子入りし「本多長教」と名乗り福井藩筆頭家老を務めますwその子孫も代々筆頭家老を務め明治時代には男爵に叙任していますw
★☆★ちなみに…下画像は養父松平昌親(吉品)の肖像画で綱昌じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年05月17日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



