『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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 マニアックな前記事の続きです。前の記事で細川氏は守護にはなったものの土佐には土着せず長宗我部氏に守護代的な役割を与えて間接支配していたと書きました。
 
 事実、長宗我部氏は南北朝時代の当主信能(のぶよし)が細川顕氏につき従い長岡郡八幡山東坂本で南朝方と戦ったと武家家伝にありますから細川方の有力武将であったことは間違いないと思います。
 
 信能はその功績で土佐国内に大桶郷・吉原地頭職、朝倉領家・深淵郷・介良庄中塩田など総計総計千百三十四町を与えられたとされますから、これが長宗我部家発展の基礎になったのでしょう。
 
 その子兼能も「細川氏から夢窓疎石の創建した吸江庵の寺奉行(俗別当)に任ぜられた」とありますからかなり有力武将であったと想像されます。
 
 一方、細川氏が土佐守護に任ぜられると一族の細川頼益(細川頼元の子。ただし頼春の子の右京大夫頼元とは別人。遠州家の祖)が守護代として入部し香美郡田村荘を領したと伝えられます。
 
 遠州家は頼益−満益−持益−勝益−政益−益氏と続いたそうです。しかし細川政益が土佐守護代を務めたのは1507年までだそうですから、この年は意味を持ちそうです。というのは細川京兆家(宗家)の政元が暗殺された年でもあるからです。
 
 次の益氏は守護代になった形跡がありません。そして1573年失領とあります。この年も丁度長宗我部元親の土佐統一戦の最中にあたります。
 
 政元の死とともに土佐守護代としての実権を失った遠州家は香美郡田村荘の一領主として細々と生き残っていたのでしょう。さらには守護代家といっても細川京兆家と結び付く長宗我部氏との力関係は微妙だったのかもしれません。遠州家は系図を見る限り細川一門でもかなり傍流ですから。
 
 
 どちらにしろ細川遠州家の土佐支配は、宗家京兆家の威光あってのもの。それが失われた後は急速に没落していったのでしょう。最後は長宗我部元親に滅ぼされたのか?
 
 いやあ、土佐における細川氏の歴史が分かって良かったです(笑)。

転載元転載元: 鳳山雑記帳

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