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お母サンは柴田宗義の娘阿山方(側室)サンで幼名は「吉松丸」ですw 同じ頃に父政宗の正室愛姫も男子を出産したんですが…正室の男子が優先順位が上になるので正室愛姫の生んだ男子が5男となったんですwちなみに…この5男が宗綱と言いますw慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 慶長10年(1605年)4月13日豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官しますw 徳川家康が豊臣秀頼と京都での会見を求めるけど淀殿が拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長11年(1606年)12月24日姉五郎八姫(11歳)と松平忠輝(14歳)が結婚しますw 慶長16年(1611年)後陽成天皇が後水尾天皇に譲位します!! 慶長16年(1611年)3月加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! この頃に5兄宗綱が父政宗より陸前国岩ヶ崎3万石を拝領しますw 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)4月25日松平忠輝附家老大久保長安が享年69歳で死去します…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!でも幕府からは「御咎め無し」って裁定が下されるんです! 慶長18年(1613年)9月15日父政宗が慶長遣欧使節を派遣しますw 慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き家老片桐且元が大坂城を追放されます!! 豊臣家は孤立が強まり焦りから兵糧や浪人を集め出し幕府と対決し始めます!! 慶長19年(1614年)11月19日大坂冬の陣が勃発します!!父政宗と5兄宗綱と一緒に出陣しますが…大きな戦闘に遭遇する事もありませんでした…慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長19年(1614年)12月25日長兄秀宗が伊予国宇和島10万石を幕府より拝領w 慶長20年(1615年)5月大坂夏の陣が勃発します!!慶長20年(1615年)5月7日天王寺の戦いで父政宗が神保相茂隊を全滅させます!!神保相茂は同じ幕府方として水野勝成配下で参陣してたんですが… 戦場は一時「伊達家が豊臣方に味方!!」の噂が広まり騒然とします!! 慶長20年(1615年)5月8日豊臣家滅亡にて大坂の陣が終結します!でもその後父政宗はいろんな言い訳をして幕府は「不問」との裁定を下します!元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…元和2年(1616年)7月6日松平忠輝が【改易】となります…そんで姉五郎八姫は松平忠輝と離婚して実家に戻って来ます… 元和5年(1619年)10月福島政則が【改易】されます… 元和6年(1620年)8月24日支倉常長が日本に帰国しますw 元和7年(1621年)長兄秀宗と父政宗が大喧嘩して『和霊騒動』に発展します!! 元和7年(1621年)に10弟千勝丸(後の宗勝)が誕生します! この10弟宗勝こそ…後の仙台藩存亡の危機的大事件「伊達騒動」の首謀者なんですよ! 元和9年(1623年)7月27日徳川家光が征夷大将軍に任官しますw 寛永3年(1626年)7月3代将軍徳川家光が後水尾天皇二条行幸の為上洛します!! その際に父政宗と兄弟一緒に3代将軍徳川家光に従い上洛します!! この時に従五位下・越前守に叙任任官しますw 寛永3年(1626年)8月17日7弟宗高が京都にて享年20歳で死去します…でも…長旅の疲れで体調を崩して…帰国後に寝込む事が多くなります…寛永4年(1627年)5月26日に享年25歳で死去します…結婚してなかったんで跡継ぎもいず岩ヶ崎伊達家は無嗣断絶で【改易】になります…★☆★ちなみに…下画像は父伊達政宗の騎馬銅像で宗信じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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2010年06月17日
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土佐は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。】(ウィキペディアより)
最近戦国時代の土佐に非常に興味が湧いています(笑)。関ヶ原後山内氏が入部した時は表高20万石となっていますが、太閤検地の時は9万8千石でした。実際もそれくらいだったでしょう。
10万石足らずの土佐に、戦国時代7人(一条氏を加えると8人)の豪族がひしめき合っていたのですから驚かされます。だいたい一郡に一人の割合ですね。
もともと土佐はこれらの豪族の微妙なバランスの上に成り立っていましたが、中央政界で土佐守護も兼任していた管領細川政元が暗殺されたことでタガが外れたようです。
真っ先に動いたのは長岡郡の山間部に勢力を持っていた本山氏でした。管領細川氏の威光をかさに土佐に君臨していた長宗我部兼序(かねつぐ)を滅ぼすため、近隣の吉良、山田氏などと語らい連合して1508年長宗我部氏を攻撃します。これで一時長宗我部氏は滅亡し、兼序の遺児千雄丸(のちの国親)は一条氏を頼って亡命を余儀なくされました。
本山氏の最盛期を築いたのは本山茂宗(しげむね、1508年〜1555年)の時代でした。入道して梅慶と号したのでこちらの名前が有名ですね。
本山氏は本拠の本山城から平野部に進出し朝倉城を築き支配の拠点とします。梅慶は中村御所一条氏とも敵対し土佐で最も力を持った勢力に成長しました。
急速に台頭した本山氏への反感もあったのでしょう。一条氏の庇護下にあった千雄丸は、一条氏の肝煎りで再び長岡郡の所領を回復します。梅慶の生きている間は大丈夫でしたが、彼の死後再び力を取り戻した長宗我部国親は不倶戴天の敵として本山氏と対決しました。梅慶の生きている間雌伏し本山氏と政略結婚までしていた国親でしたが、その死後挙兵し梅慶の後を継いだ茂辰(しげとき)と戦います。
1560年の長浜の合戦で本山軍を破った国親は長浜、浦戸城を本山氏から奪取、朝倉城に迫ります。が、国親は急に病を得て1560年急死しました。享年57歳。
あとを継いだのは嫡男の元親でした。元親は本山氏を攻撃し続け、圧迫に堪え切れなくなった茂辰は朝倉城を焼いて、本拠の本山城に退去します。
元親はその後も攻撃の手を緩めず本山氏をついに滅ぼします。こうして土佐中央部に確固たる地位を築いた元親は、安芸氏、次いで一条氏を滅ぼして土佐統一に成功するのです。
このあたり司馬遼太郎の「夏草の賦」に詳しいので興味のある方は一読をお勧めします。
七人守護はあるいは降り、あるいは元親に滅ぼされてしまいました。元親は土佐統一のエネルギーを四国平定へと振り向けていくことになります。土佐の戦国時代は非常に面白いですね。
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