大谷吉継は越前国敦賀藩の最初で最後の藩主【石田三成】の盟友で【関ヶ原の戦い】で壮絶な最期を遂げた人物ですw★記事が長くなったので2部構成で「大谷吉継【1】」の続きです!!慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が享年63歳で死去します…そんで時勢を見極めて徳川家康に接近するんです!慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!! この時武断派加藤清正・福島正則らと一緒に徳川邸を警護してます!! 慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!その後石田三成は失脚して大坂より佐和山城に退去するんです… 慶長5年(1600年)6月2日会津征伐が発動されます!! 慶長5年(1600年)7月会津征伐参陣の為長男吉治と敦賀城を出陣します! ちなみに…徳川家康からも才能を高く評価されてたんです! 会津征伐終結後12万石に加増する内示があったんですよ!! そんで途中で石田三成の居城佐和山城に立ち寄るんですよ!!石田三成と徳川家康を仲直りさせようと自らの監督下の元で石田三成の嫡男重家を会津征伐に従軍させようと考えての行動だったんですw
だけど…石田三成から徳川家康打倒の決意を打ち明けられるんです!! ビックリして親友平塚為広らと一緒に石田三成を説得します! 器量や軍事力全てに関して石田三成の勝てる相手じゃなかったけど聞き入れられず… 逆に石田三成の以前の茶会での行為や熱意に負けて西軍に味方する事にしたんです! そんで一旦帰国し長男吉治と次男頼継らと総勢約8千の大軍勢で石田三成の元に向います!! 当時の兵役は1万石に対して200〜250人が基本だったんで大谷家は総所領11万石として2千〜2500人の兵が相応だったんだけど…総勢約8千となると当時の許容範囲を遥かに超えた大軍勢だったんです!この事を知った徳川家康はとっても狼狽したんです! その後は多くの諸侯を西軍に加担させる事に成功するんです! 慶長5年(1600年)7月末に後輩加賀井重望を呼出し密命は命じます!! それは…徳川家康本人を暗殺する事だったんです!!〜結局は失敗するんです… 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)7月19日伏見城攻防戦が行われ活躍します!! 慶長5年(1600年)8月4日東軍前田利長に備えて北庄城入りします!! 慶長5年(1600年)8月末に長男吉治・戸田勝成と一緒に総勢6千で美濃へ進出します!! 慶長5年(1600年)9月3日に関ヶ原南西の山中村に着陣します!! でも持病のハンセン病が悪化して実際は盟友平塚為広に指揮権を委ねたんです… 着陣早々小早川秀秋の裏切りを見抜き小早川隊の進軍経路に「馬防柵」を築きます! 慶長5年(1600年)9月14日平塚為広と戸田勝成に密命を下します! 「2人で小早川秀秋の動向を探れ!もし小早川秀秋に西軍裏切りの気配が少しでもあれば暗殺しちゃって構わないからっ!」と言うものだったんです…でも事前に暗殺計画を察知されちゃって実行する事は出来なかったんです… 慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に両軍の戦端が開きます!!病気が悪化し歩く事も出来なかったんで輿に乗って戦況を見極めてました!そんで東軍の藤堂高虎・京極高知両隊総勢5千を相手に一歩も引かず何度も押し返すんです!! そんで追撃体制に移ろうとしたその時… 脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱ら総勢4千が突如寝返り側面から攻撃して来ます!! これで前から東軍…側面から裏切諸隊…後ろから小早川隊の猛攻撃を受けます… 壊滅状態になったけど孤軍奮闘しますが… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に宇喜多・石田・小西等西軍主力が壊滅…この時に平塚為広から討取った敵将の首と一緒に辞世の句が届きます…『名のために 棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思へば』意味は…名前を世に留める事が出来れば命も惜しくなんかない!元々人は永遠には生きれないんだから…読み終えてすぐに平塚為広に返歌を送ってるんですよ! 『契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも』意味は…暫くそこで待ってろよ!出会えるのが少し先になるか後になるかくらいの違いだから…でも…この返歌が平塚為広に届く前に… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に平塚為広が享年57歳位で討ち死にします…この時戦線を離脱し生き延びるように長男吉治と次男頼継を説得します!2人とも親子での討ち死にを決意してたんですが…説得を受けて2人とも逃走します!! 四方からの猛烈な攻撃で大谷軍は防御の限界を超えてついに壊滅しちゃいます…そんで… 小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心也!!3年の間に祟りをなさん!」と言って… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時過ぎに享年42歳で討ち死にします…慶長5年(1600年)9月15日午後2時頃関ヶ原本戦は東軍が勝利します!そんで敦賀大谷家は息子達と一緒に【改易】となるんです…墓所は岐阜県関ヶ原町と滋賀県米原町にあります… 戒名は「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」です… ちなみに…肝心の小早川秀秋なんですが…関ヶ原より3年も経たないで… 慶長7年(1602年)12月1日小早川秀秋が岡山にて享年21歳で死去してます…★☆★ちなみに…下画像は大谷吉継本人の肖像画ですw★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年09月10日
全1ページ
[1]
|
幼名は「桂松」でお母サンは後年豊臣秀吉の正室高台院の侍女となる東殿サンですw 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄10年(1567年)浅井家と織田家が同盟を結びます!!永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始し六角氏を撃退します!これに怒った浅井長政は織田家との同盟を破棄し全面対決をします!! 父吉房は浅井家に召集されて各地で織田軍と戦ってたんです!! 元亀元年(1570年)6月28日姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!!元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江侵攻を開始します!!元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します! 元亀3年(1572年)12月突然援軍である朝倉軍が撤退します… 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!! 天正元年(1573年)9月1日浅井長政が享年29歳で自刃します…天正2年(1574年)長浜城主羽柴秀吉は近江国内で人材発掘に励みますwその際に父吉房・母東殿と親子3人一緒に羽柴秀吉に仕え出すんです! この時に同郷の石田三成と一緒に小姓となってます! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)三木城攻めに馬廻として従軍します!!天正9年(1581年)鳥取城兵糧攻めに馬廻として従軍します!! 天正9年(1581年)長男吉治が誕生しますw 天正10年(1582年)5月8日から備中高松城攻めを従軍します!! この時には羽柴秀吉より文武に優れてて高く評価されてたんですw 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉配下で山崎の戦いに従軍します!!天正11年(1583年)3月の賤ヶ岳の戦いに羽柴秀吉配下で従軍します!! この時柴田勝豊を調略し内応させます! そんで「七本槍」に匹敵する「三振の太刀」と賞賛される大活躍をするんです! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起き黄母衣衆として従軍します!! 天正13年(1585年)7月から四国征伐に出陣します!! 天正13年(1585年)7月11日豊臣秀吉が関白に就任しますw これと同時に従五位下・刑部少輔に叙任されますw 天正14年(1586年)次男頼継が誕生しますw 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw この頃には既に『ハンセン病』を発症していたんですよ…天正14年(1586年)九州征伐の際に石田三成と一緒に兵站奉行に任じられ活躍します!天正15年(1587)大坂城内で茶会が開かれ出席します…その席で… 招かれた諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回してたんです!こん時吉継が口をつけた茶碗を「病気が感染する」って誰もが嫌い飲むふりをするだけだったんです…でも石田三成だけ普段と変わりない素振りで茶を飲みほしたんです!そんで気軽に話しかけてくれたんです♪そんな石田三成に感激して以後2人は大親友となるんですw 天正18年(1590年)小田原征伐に参陣して活躍します! この頃から長男吉治と次男頼継が一緒に豊臣秀吉に仕え出し可愛がられますw そんで長男吉治と次男頼継にそれぞれ越前国内に2万5千石を拝領するんですw 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で船奉行・軍監を務め活躍します! 石田三成と違って武断派からも慕われてたんですw さらには豊臣秀吉に「100万の軍勢を与え自由に軍配を指揮させてみたい」と迄言わせたんです! 文禄2年(1592年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)伏見城築城に参加して活躍しますw 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長2年(1597年)9月豊臣秀吉が大谷家を訪問します!!でもハンセン病が進行して重症化してたんで長男吉治に接待役を務めさせます… この頃長女竹姫(竹林院)が真田昌幸の次男幸村と結婚しますw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
|
全1ページ
[1]


