『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

まるこ時事

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『三方ヶ原の戦い』

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武田信玄がついに京を目指し西上を開始!!

今から432年前の今日 元亀3年12月22日三河の戦国大名徳川家康を
武田信玄が完膚な迄に撃破る三方ヶ原の戦いが行われた日ですw

でも…旧暦だから…実は432年前の1月25日なんだよね……あは……
この少し後に武田信玄もまもなく病没してます…
肺結核流れ弾説などいろいろと諸説あるけど…実際の信玄の死因は不明ですw

元亀3年12月22日

武田信玄の軍勢約2万5千と徳川家康の軍勢約1万1千(うち織田信長援軍約3千)の戦いで
現在の航空自衛隊浜松基地付近で両軍が衝突するんですよ!!
戦国最強の騎馬隊を主力とする武田軍が圧倒的な大勝を納めるんですね…
これは徳川家康にとって生涯一度の負け戦なんですよ…
家康は浜松城に敗走しその際に夏目吉信・松井忠次・鈴木久三郎らが家康の身代わりとなり討たれてます!
浜松城にやっとの思いで辿り着いた時は近習数名が従うのみでした…
家康はこの時『死』を意識し…あまりの恐さに“うんこ”を漏らしてます……あは……

武田軍は家康のいる浜松城に構わず素通りしよーとしますw
これを“馬鹿にされた”と家康は直ちに出陣し武田軍の後ろを突く形となりますw
三方ケ原に着いた徳川軍は直ちに鶴翼の陣形に展開w
小勢にもかかわらず武田軍を包囲しようとする気構えでした…
これに対し武田軍は魚鱗の陣形を取ってたんですね…
「人」の字のように先手を敵に接近させ先手が破れ疲れると二番手・三番手が攻める陣立てです!
戦闘開始は「甲陽軍艦」では申の刻(今の午後4時頃)
薄暮からやがて真っ暗闇での戦いとなったんですね…徳川軍は午後6時頃には総崩れとなってます…

家康は浜松城の大手門を開け放し討ち死にを覚悟したほどですが…

信玄にとって家康は『赤子の手を捻る』より容易い…全く眼中になかったんですね…

画像は浜松城にやっとの思いで逃げ帰った家康が後世の教訓にする為直後に描かせた肖像です!!

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今から1066年前の今日 天慶2年(939年)12月15日

下野・上野の国府を落とし関東一円を手中に収め「新皇」を名乗ったんです!!

平將門は平安時代中期の武将ですw通称は相馬小次郎と言うんですw
桓武天皇の子孫で平氏の姓を授けられた高望王の孫にあたります!
鎮守府将軍平良將の子で903年頃に生まれてますw
下総・常陸に広がった平氏一族の抗争に端を発し関東諸国の国衙を襲った事から
朝廷から敵と見なされ粛清されちゃいます…俗に言う『平將門の乱』ですよ!!
死後は築土神社・神田明神・国王神社等に祀られてるんですよ!

平將門の存在は“武士”の発生を示すとの評価もあるんですよw

父平良將は下総国佐倉が領地と伝えられ“佐倉市將門”と地名も残るけど根拠となる史料は無いんですw
將門は地方より平安京へ出て藤原北家の藤原忠平と主従関係を結ぶんだけど父良將が急死したんで
領国へ戻って来ます…まさに出稼ぎですね!!!
長子相続制度の確立してない当時良將の遺領は伯父や叔父平良兼に独断で分割されちゃってます…

『將門記』等によれば平氏一族の親族争いは常陸国前国司の源護の娘とか
良兼の娘を巡る争いとも伝えられているんですよね…
935年2月に將門は源護の息子扶に常陸国真壁郡野本で襲撃されちゃうけど
これを撃退し將門は大串・取手から護の本拠である真壁郡へ進み護の一族を討ち
更に護の援軍として駆けつけた伯父平國香も討ち果たしちゃうんです!!
一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲に陣を構えて將門と対峙するんだけど
將門は良正の軍も撃破しちゃうんですよw
反將門軍は平良兼を盟主に国香の嫡子平貞盛等の兵を加えて將門と戦うけど将門の奇襲を受けて
下野国の国衙に保護を求めるます!將門は下野国国府をも包囲し一部の包囲は解いて良兼を逃亡させ
国衙と交渉して自らの正当性を認めさせちゃうんですよね!……策士!!

同年將門に対し朝廷から平一族の私闘についての釈明を求める召喚命令が出て將門は平安京に赴いて
検非違使庁で訊問を受けるけど937年4月に帰国を赦されてるんですね…
帰国後も將門は良兼を初め一族の大半と対立し良兼は將門の父良將や高望王など父祖の肖像を
掲げて将門の常羽御厩を攻めたんですよ……これによって多くの軍馬を喪失すると将門は退却し
更に妻子も捕らえられちゃうんですよぉ!!!
将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出るけど朝廷は平良兼・平貞盛・源護らに対し
ついに將門追討令を出すんですよーw
將門は良兼らの兵を筑波山に駆逐しそれから3年の間に良兼は病死し

平將門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いたんです!!

この頃朝廷への租税を滞納していた事により追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が將門に庇護を
求めると將門は玄明を匿い939年常陸府中へ赴いて追捕撤回を求めるんだけど……
ここで將門軍は突如攻撃を受けちゃいます!!
將門は止む無く反撃して常陸介藤原維幾を捕らえ国衙を陥落させて
結果的に朝廷に対して反旗を翻すことになってしまうんですね……本人の意に反して……
將門の側近となってた桓武天皇の子孫と言われる興世王の進言に従いここで朝廷を見切って

同年12月15日に関東一円を手中に収めて「新皇」を名乗るんです!!

危機感を抱いた朝廷は全国の民に將門の首を取った者は貴族とする旨の通達を出すんです!
2ヶ月後940年仇敵國香の嫡子平貞盛と藤原秀郷との会戦中に流れ矢に当たって死んじゃいます…
その首は平安京へ運ばれ晒し首にされちゃいます…
この将門の首に関連し全国各地に首塚伝承があって最も有名なのは「東京大手町の首塚」ですw

將門の乱は同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に「承平天慶の乱」と呼ばれてますw
なお有名な成田山新勝寺は將門を調伏する為に朝廷によって建てられたお寺なんですよ!
それなんで將門と家来の子孫は1080年以上たつ今でも成田山新勝寺へは参詣しないそーですw
出生地でもある佐倉市將門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残るんだそーですよw
また築土神社や神田明神の氏子も成田山新勝寺へ詣でると
産土神である平将門命の加護を受ける事が出来なくなるとの伝承で参詣しない人が多いんだそーです!
将門の名誉回復は江戸幕府3代将軍徳川家光の時代に烏丸光広が将門伝説の顛末を聞き朝廷に赦免を申請したんで朝敵の汚名を返上するに至ったんです!でも歴史上で將門は朝廷に戈を向けた事には変わりないんで明治から第2次世界大戦終結迄は天皇に反き「新皇」と名乗った逆賊として扱われたんですよね…戦後は反天皇制の時代的機運から朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい新な時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなったんです!!更に現在ではそのようなイデオロギー的な見方も沈静しより学術的な面からの研究が期待されてるんですw一方で江戸時代徳川幕府によって江戸の街を守る霊威たるべく神田明神の祭神の一柱として祀られたんです!!神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われ幕府の尊崇を受けたんですwこれは徳川氏が朝廷に反逆した將門を将軍居城の鬼門に据えることで幕政に朝廷を関与させない決意の現われだといーますw神田明神の「かんだ」は首を斬られて殺された將門の胴体…つまり「からだ」が変化したものという説もあるんですよ♪東京都千代田区大手町にある将門の首塚は移転等の企画があると必ず事故があったりして將門の怨霊の威力を感じる人もいるけど東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられる等して広く知れ渡ると「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになったんですよ!

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『赤穂浪士討ち入り』

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?H3>303年前の今日 旧暦元禄15年12月14日赤穂浪士討ち入りの日  曾我兄弟の仇討ち・伊賀越えの仇討ちに並ぶ日本三大仇討ちのひとつなんです!
 でもこれって旧暦だから実際は1月16日なんですよね……あは……
 日本悪人に必ずノミネートされるのが「忠臣蔵」の仇役吉良上野介義央(画像)ですw
 赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城殿中にて吉良に刀で斬りかかり傷を負わせるものの
 すぐに取り押さえられ将軍徳川綱吉の命により即日切腹させられてます…
 その1年半後赤穂浪士達が吉良邸を襲撃し吉良の首を取っていく事件………
 これを芝居にしたのが「仮名手本忠臣蔵」で当時大人気を博したんです!!

 実際の吉良上野介義央とはどんな人物だったのか「忠臣蔵」に描かれたような権力を傘に
 傲慢な男だったのでしょうか?それとも地元吉良町に伝わるような名君なんでしょうか?
 吉良の当時幕府での役職である高家肝煎とはかなりの知識と実力を要するんですよw
 この地位についたのは家柄は勿論本人の才能と努力によるものなんです!
 京都の公家衆の接待相談役は家柄だけのお坊チャンではとうてい無理な仕事ですし!
 公家・武家の礼儀作法から和歌や茶会の宴迄全ての膨大な知識が必要なんです!
 高家は公家の血筋を引く者や足利氏一門・旧守護等の家柄が選れ代々その職を継承してます!
 武田信玄の次男海野信親やまるこの大好きな今川義元の血筋もそうですw

現在フィギアスケートの選手である織田信成は高家織田家の末裔です!

 地元で彼が名君と呼ばれるのには根拠がありますw
 若い頃の吉良はなかなかの美男子だったみたいで赤馬に乗り領地を見てまわる殿様は
 農民達からも親しまれてたみたいです!吉良の奥サンの富子も顔に惚れたと言ってます…
 毎年起こる河川の氾濫を吉良は隣町に堤防を作らせてくれるよう交渉するけど
 その際に付けられた条件「丸1日で作る事 作った後壊れても補修しない事」を飲み農民達も
 総動員して200m程の堤防を1日で作りあげちゃいます!
 この堤防は「黄金堤」と呼ばれ今では桜の名所となってるんですよ!
 また積極的に新田開墾を行い奥サンの名にちなんだ「富好新田」は現在も残されてますよ♪

 でも「忠臣蔵」で描かれる浅野イジメの数々には何か根拠があるんでしょうか?
 まず増上寺畳替えの件だけど浅野が「畳は新しいのに替えた方が良いでしょうか」と尋ねると
 吉良は当初「必要ない」と答えたんだそーですが…それが式典の前日になって「全部替えろ」と
 言い出してなまらのひと騒動……えっ……
 でも実際には増上寺にはそんな伝承は全くなくってまた当時の浅野の役目には畳替えの義務も
 権利もないんですよ!!また吉良に騙されて違う衣装を着て恥をかかされたり用意する料理を
 本当は懐石料理なのに精進料理と偽られたりするという騒動が描かれるけど…
 そんな事は接待役を仰せつけられた時幕府から渡される「徳川盛成記」なるテキストに
 全部書いてある事だし…もちろん書いてないわけで……

 そして浅野が刀を抜く切欠になった経緯が
 「天皇の使者が到着した時に玄関の中で待つのか?下に降りて外で待つのか?」と吉良に質問して
 「今更何を聞かれる!!お主のような田舎者にこの役目は無理じゃ」と罵られたという話だが……
 これが本当なら吉良じゃなくても誰でも呆れたと思いませんか?
 だって前日何度もリハーサルをやって浅野は玄関の中で使者を迎えてた筈なんですよ!
 昨日やった事を忘れる奴に接待なんか任せられないと言うのは当然だとまるこも思います!
 だけどこれらも吉良を憎々しい仇として描く為の創作のようなんです…
 それにしても当時の脚本家達が事細かく殿中の仕来りを熟知してる事に感心します!!
 唯一残ってる状況証拠はもう一人の接待役宇和島藩主伊達左京亮宗春の豪華な贈物に比べると
 浅野は反物のみという質素なものだった位です……

 理由はどうでも浅野が殺そうと決意した程憎んだ訳だから吉良が何かあったのは事実でしょうねw
 でも吉良自身にそこ迄の自覚があったかわからないけど…

そして元禄15年(1702年)12月14日の茶会の夜を迎えることになるんです!

 この日吉良屋敷には総勢150人の侍達が控えてたにもかかわらず47人の手勢に
 手も足も出なかったのは何故なんでしょうか?その理由は吉良屋敷の構造自体にあったんです!
 屋敷の本棟を取り囲んで長い土塀があるんだけど土塀は長屋も兼ねててここに100人程の
 侍達が寝起きしていたんですねw前日は大雪だったから長屋は雨戸を閉めてますw
 雨戸は連なってるんで端をクギ留め等されようものなら全部が開かなくなっちゃうんです!
 侵入者達はここを杭で打ち付けちゃいます……戸を破って出てくる奴に備えて長槍を
 もった三人組を長屋前に配置します!残るは本棟50人足らずというわけなんですね!
 しかも完全武装の武者集団と寝ボケ眼の寝巻き姿ではとうてい勝負になる訳ないんですよね…

           http://bloggers.ja.bz/katou/archives/ukiyoe.jpg

 吉良も用心して息子の米沢藩主上杉綱憲の屋敷から応援を呼んでたけど結局役には立ちません…
 映画や芝居では二刀流で派手な立ち回りを演じる小林平八郎も実際には何の抵抗も出来ず
 首をハネられちゃうんですよぉ……
 最後迄戦ったと言えば意外にも吉良上野介本人なんですよ!!!
 炭部屋にいたのを見つかり槍で攻撃された時脇差で応戦してるんです!!!
 しかし老体では敵うわけもなくって太ももを刺されて倒れ込んじゃいます……w

 後に赤穂の浪士達がこの時の様子を書き残してるから吉良が反撃したのは事実みたいですw
 検死した医師の栗崎道有は何箇所もの槍の傷跡を報告してる事からかなり抵抗したみたいです!

少なくとも吉良上野介の最期は本来の武士らしいものだったと思いますよ!

主君である浅野内匠頭だけが切腹となり吉良上野介に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨するけど一見すると幕府の裁定が不公正なものに思われそーだけど本来「喧嘩両成敗」というのは社会秩序が崩壊した戦国時代の法でありカブキ者が好んだ法です。当時の法制度には戦国時代の残滓は未だ残しているとは言え武断的な政治から「文治政治」への転換が図られて、法制も裁判制度も整った泰平の時代において「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性のある非人間的な規定であると当時の儒学者などからの批判に晒されていた。従って浅野内匠頭が「遺恨」であると主張したとしても明確な不法が無く手向かいしなかった吉良上野介が何の咎めを受けなかったのは今日の社会常識と対比させてみても決して不当な判断とはいえないと思われる。更に討ち入り直後に一部の幕閣の間で夜中に人の家に押し入って多数の人を殺害した行為はいかなる理由があろうともその所業は「強盗」と何ら変わりがなく浪士達を強盗の罪により磔・獄門等の処分を課すべきであるという主張も見られたけど浪士達の仇討ちを義挙として熱烈に賞賛する世論や将軍や学者達の「忠義論争」によりこうした批判の声を押し流されてしまったという点も留意すべきである。元禄赤穂事件以外にも江戸城内での刃傷沙汰は過去に1627年御小姓組猶村孫九郎が木造氏・鈴木氏に切りつけた事件や1628年豊島刑部少輔明重が老中井上正就に斬りつけた豊島事件・貞享元年(1684年)若年寄稲葉石見守が大老堀田筑前守を殺害した事件が発生してます。でもそれらの事件では被害者は即死 加害者はその場で手打ちにされてます。刃傷事件の被害者・加害者ともに生き残った例がなかった事が幕府の対応にぶれを生んだ一因とされてるんです!

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『王冠をかけた恋』

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69年前の今日 1936年12月10日

英国王エドワード8世(画像)がシンプソン夫人と恋に落ち結婚を望んだ為退位を宣言

エドワード8世はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国王並びに大英帝国王・インド皇帝w

前王ジョージ5世の長男として1894年6月23日に誕生w

父の死後即位するけどアメリカ人女性ウォリス・シンプソン夫人との交際がスキャンダルとして

マスメディアに取り上げられて話題になっちゃいます…

離婚歴のあるシンプソン夫人を王妃として迎え入れる事を王室関係者や政府から拒否されたんで

エドワード8世は王位を捨て結婚を選んだんだんです!これが{{「王冠をかけた恋」}}}と言われてます!

退位後実弟のヨーク公がジョージ6世として即位します!

現英国王エリザベス2世はジョージ6世の次女になりますねw

エドワードはウィンザー公の称号を与えられましたw

その後フランスで暮らしイギリス王室とは疎遠だったみたいですw

1972年5月28日78歳で亡くなっています!

全てを投げ出す事については賛否両論ありますが…まるこはその勇気にリスペクトかも!

『王政復古の大号令』

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今から138年前の今日

1867年12月9日王政復古の大号令は発せられましたw


このちょうど1ヶ月前の1867年11月9日に江戸幕府15代征夷大将軍徳川慶喜

大政奉還をしていますw

薩摩や長州等の強硬派が武力にて倒幕運動をかわす目的があったんですよねw

慶喜は一旦は形式的に政権を手放すも朝廷側の公家には政権を担う能力がないから

いずれ徳川家側に政権信任するから実権は握れると徳川政権の再構築を考えていた

みたいなんですよね! かなりの策士ですね!

でも薩長は元より朝廷にも岩倉具視といった切れ者がいたんです!

朝廷は王政復古の大号令を発する事によりクーデターを行うんですねw

この大政奉還と王政復古によって ―――

江戸幕府が滅ぶと同時に675年に渡った鎌倉幕府以来の武家政治も滅んだんです…

二極状態にあった日本の国家体制は権力の所在が明確になり当時の諸外国からも評価されました!


この後鳥羽伏見の戦いを経て戊辰戦争と日本は混乱の時代へ向うのでしたw

画像は晩年の徳川慶喜公ですw

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