『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

最後の皇帝

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Last Emperor (ラストエンペラー)

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尚 泰

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尚泰は第19代目にして最後の琉球国王(最初で最後の琉球藩主)

1843年7月8日第18代琉球国王尚育の子として生まれますw
士族の教育の為の学校を作るなど学問分野において力を入れた父尚育であったけど
同時に琉球王国の財政は逼迫しちゃってます…
そんな中わずか34歳で1847年崩御しちゃって僅か4歳にして即位するんですw

1854年にはペリーが浦賀に向う前に琉球に来航し琉米修好条約を締結します…

江戸幕府が倒れ新政府が他府県の廃藩置県も済んだ翌年1872年に琉球藩が設置されるけど
それに伴い琉球藩王とされたんです…琉球はまだ日本の植民地的な感覚だと思います…
1879年琉球処分の断行で琉球が廃されて沖縄県が設置されるとともに王号も剥奪され
居城である首里城を追われ明治政府の命により東京に移住させられちゃうんです…
ここに473年19代に渡る尚氏朝琉球王国は滅亡しちゃうんです……
          http://ais.ram.ne.jp/okinawa/syurijyo/images/syujyo3.jpg 首里城

ちなみに琉球藩を設置は大清帝国の反発を受けちゃって琉球は古来清に服属していたものとして
琉球の領有権を主張したんですよ!日本も琉球領有の正当化の為に台湾原住民による琉球漁民殺害の
報復として1874年台湾出兵を行なっちゃうんです!!
1879年明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言して鹿児島県に編入しますw
その後に沖縄県を設置し日本政府のもとで琉球は中央集権的近代日本国家に組み入れられていき

これによって琉球王国は名実ともに滅亡しちゃいます…

琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れを琉球処分と呼んでますw
または琉球藩設置を第一次琉球処分・廃藩置県を第二次琉球処分ということもあるんです!
大清帝国はこの動きに怒って明治政府は1880年先島諸島の清への割譲を申し出て
清との合意がいったんは成立したけど清は態度を変えて条約に調印せず

結局領有論は1894年の日清戦争にまで持ち込まれちゃうんですよ…

尚泰はのち華族令の発令に伴って侯爵となってます!!
1901年8月19日に59歳で亡くなってます…墓所は沖縄県那覇市の玉陵にあります…
なお「命どぅ宝」は尚泰の言葉と言われてるけど本来は演劇中のセリフで作られたものっぽいです!

クレオパトラ7世

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クレオパトラ7世フィロパトルはプトレマイオス朝エジプト最後の女王

美貌と教養・機知を併せ持ち古代ローマの有力者を手玉に取ったとして古代随一の有名な女性
紀元前70年12月か紀元前69年1月プトレマイオス12世アウレテスの次女として誕生しますw
クレオパトラの名はギリシャ語で「父の栄光」を意味するんです!

古来エジプトのプトレマイオス朝には兄妹(姉弟)結婚による王位相続という奇妙な伝統がありましたw
クレオパトラも実弟プトレマイオス13世と結婚し共同統治していたんです!!
だけど間もなく2人は擦れ違いクレオパトラは首都アレクサンドリアを追放されちゃいますw
ちょうどそこにローマ随一の実力者カエサルが政敵ポンペイウスを追って到着したんです!
かねてカエサルと対立していたポンペイウスは
「俺が地面をどんと踏み鳴らせばイタリア中の軍勢が俺の下に馳せ参じるわ!」と嘯き
「じゃーここらでひとつどーんと踏んでくれ!!」と皮肉られたけど実際にカエサル進攻の報に接すると
さっさとイタリアを逃げ出しギリシア北部のファルサロスでカエサルに敗れ
プトレマイオス朝エジプトへ逃れたのでしたぁ…
でもカエサルは彼にエジプト上陸を許さずアレクサンドリアに入る前に暗殺されちゃいますけど…

ローマ随一の実力者カエサルの到来という好機を姉クレオパトラは見逃さなかったんですw

才色兼備の彼女は早速カエサルに取り入り彼をにしちゃうんです!!!
彼女は世に言われる程美人ではないけど才気溢れる会話や優美な仕草それらの
醸し出す気品ある高貴な雰囲気が男心を捕らえて離さなかったんでしょうw
カエサルは彼女の為にアレクサンドリアの市民を敵に回して戦い貴重な大図書館を
焼失するという犠牲を払いクレオパトラを女王の位に復してやったんですよ!
その後カエサルは彼女を伴ってローマに戻り元老院派の残党を次々に打ち破り勢力を強めます!
一方救貧・植民事業や太陽暦(ユリウス暦)の採用等精力的に諸改革を行い
植民政策では首都の浮浪者(無産市民)を植民に送り出し首都の治安を悪くしてた彼らを半減させますw
でも共和政の伝統を重んずる共和主義者達は権力集中を進める独裁者カエサルを憎み暗殺しちゃいます!
クレオパトラは急遽エジプトへ帰国することになっちゃいます…
でも暗殺者達はカエサルを慕うローマ市民に追われカエサルの遺将アントニウスによって
ギリシアのフィリピで全滅しちゃうんですよ!

                    http://www.europe-z.com/tabi/eg199612/photo/050.jpg カラブシャ神殿

問題は『カエサルの後継者は誰か?』だったんですw
カエサルの遺言では養子オクタウィアヌスが相続人に指定されてたけど
彼には全く軍事的な才能が全く無く誰と戦っても負けてばかりだったんです…
人気も実力もアントニウスの方が遥かに優ってるのは明白でした!
クレオパトラはこの前途洋々なローマの指導者アントニウスを次なる獲物に定めたんです!!
アントニウスはクレオパトラと熱烈な恋愛に陥り人生を狂わしちゃいます…
甘美な恋に全く骨抜きとなった彼は東方の騎馬帝国パルティアへの遠征に失敗し
紀元前34年にはローマの属州の一部を勝手にクレオパトラに与えてローマ国民の怒りを買うんです…
さらに彼はエジプトに定住してクレオパトラと結婚しちゃいますw
クレオパトラより美しかった貞淑な妻オクタウィア(オクタウィアヌスの姉)と離婚して
「死んだらクレオパトラと共にエジプトのアレクサンドリアに埋めて欲しい」
との遺言状を認めたのが知れた時ローマで「裏切者アントニウス討つべし」の世論が高まるんです!

紀元前31年全イタリアはオクタウィアヌスに忠誠を誓いクレオパトラに対し宣戦布告します!

最大の決戦はアクティオン沖で行われたけどアントニウスが得意の陸戦で決するという意見を引っ込め
海戦を主張するクレオパトラに従った時に勝敗は既に決していたんですよ…
海戦に於いても勢力は伯仲してたのにクレオパトラは艦隊を率いていち早く逃亡し
アントニウスも彼女の後を追っちゃいます…
残された兵士達はそれを知らずになおも数日間戦ってたんですよ…日本の幕末みたいな…
恋する2人の末路は哀れでした…
翌年8月1日アレクサンドリアが陥落した時クレオパトラは
地下墓室に篭りアントニウスに自分は死んだが嘆くなと告げさせたんです!
彼をローマに帰らせようと気遣ったんだけどこれを真に受けたアントニウスは悲嘆の余り
自刃して果てちゃうんですよ…それを知ったクレオパトラもオクタウィアヌス側監視の目を盗み
玉の肌をコブラの牙にゆだねて命を絶っちゃいます……享年39歳……
ここに280年に渡るプトレマイオス朝は滅び肥沃なエジプトはローマ属州に加えられちゃうんです!

最終的な勝者はオクタウィアヌスでした!!
彼はローマ世界を再統一し100年に亘る内乱に終止符を打っただけでなく
「アウグストゥス」という称号を得てローマ帝国の初代皇帝の地位に就くのでした!

スタニスワフ2世

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スタニスワフ2世はポーランド王国最後の国王

元々彼の名はスタニスワフ・アフグスト・ポニャフトスキと言いロシア貴族ですw
1732年1月17日生まれです!!
スタニスワフ2世は即位前ロシア帝国に住んでて多数の愛人を抱えていた皇帝エカチェリーナ2世

主要な愛人の一人でだったんですよ…

その後ろ盾によって1764年ポーランド国王として即位するんだけど…凡庸な君主だったんで
ポーランド王国の危機を救うことが出来なかったんですよぉ!
第3次ポーランド分割で領土は消滅しポーランド王国は滅亡し1795年退位しちゃいました…
その3年後に鳴かず飛ばずで1798年2月12日66歳で亡くなっています…

                      http://commons.wikimedia.org/w/thumb.php?f=Katarzyna_II.jpg&w=180 エカチェリーナ2世

ポーランドはヤギェウォ朝(1386年-1572年)の断絶後に選挙王政が行われるようになったけど
外国の干渉と貴族間の争いが頻発するようになって国力が衰えたんですよ!
ロシアのエカチェリーナ2世はアウグスト3世が死んだ1763年頃から
親露派の貴族(スタニスワフ2世)を王位につけるなどさまざまな内政干渉を行うんですね!!
プロイセン王フリードリヒ2世はロシアの動きを見てポーランドがロシアに奪われることを警戒!
オーストリアを誘ってポーランド分割を提唱するとエカチェリーナ2世もこれに応じて
プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割(1772年)が行われ
3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得しちゃうんです…

            http://www.finito-web.com/trsktn/00s/fig00s/waw2-1.jpg ヴィラヌフ宮殿

ポーランドは第1回分割後に新憲法の制定や選挙王政から世襲王政に改める等の改革を行うんですねw
フランス革命が起こって西欧諸国の関心がそっちに集中するとプロイセンはロシアを誘って
第2回ポーランド分割(1793年)を行っちゃうんですよ!!
オーストリアはマリー・アントワネットがハプスブルグ家の血を引いてた関係から
フランス革命に巻き込まれてしまい第2回分割には参加できなかったんです…
ポーランドの愛国者コシューシコは義勇軍を結成してロシア軍と戦ったけど敗れてます(1794年)…
1795年プロイセン・オーストリア・ロシアの3国は第3回ポーランド分割を行い
ポーランドの残った領土を全て奪いつくしちゃってポーランド王国は滅亡しちゃうんです…
1815年のウィーン会議第4回ポーランド分割とし
第二次世界大戦時1939年の独ソ不可侵条約を第5次ポーランド分割とする説もあるんですw

袁世凱

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袁世凱は中国の清末から民国初期の軍人・中華民国大総統

更に幻の『中華帝国』最初にして最後の皇帝w

1859年8月20日生まれで河南省項城県の出身です!!
袁の生家は官僚や軍人を多く輩出した地元でも“指折りの名族”であったんですよw
清朝末期の軍人として陸軍の近代化を進める役割を担いつつ台頭し彼自身が作り上げた軍事力を
背景に政治的にも大きな権力を振るって欧米諸国では彼の事を「ストロング・マン」と呼んだんですw
後ろ盾西太后の死により一時失脚するけど辛亥革命の混乱の中で清政府孫文らの革命派
間で巧みに遊泳し結果中華民国大総統となり孫文等の革命派を弾圧するとともに
インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たったんですよ!!

家族構成は妻妾8人子女15人…………子息のうち政務を執る袁世凱の傍らにあって
辛亥革命や袁の皇帝就任等において数々の策謀を巡らせたとされる袁克定は彼の長男ですw

1915年まず袁は帝政復活を宣言しちゃうんですよ!

翌年1月1日年号を洪憲と定め国号を「中華帝国」に改めることを宣言しちゃうんですね…

こうした袁の行動は自らの野望を果たすためという面もあるけど四分五裂した中華を束ねるためには
強力な立憲君主制が必要との考えだったという見方が日本の学者では多いんですよね…
袁の政治に対する考えは一貫しており中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように
乱れた中国はまとまり得るというものであったんですけど……
こうした発想は当時の対中国観の主流であり実は孫文などもそう考えてたみたいなんです…

               http://www.okinawatimes.co.jp/spe/gif/kaizu20020925_1.jpg 国民政府総統府(天王府)跡

でも結果は全く袁の予想と反するものだったんですよ…
北京では学生らが批判のデモを行い地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻してくんです…
彼の足元の北洋軍閥の諸将迄もが公然と反発し袁を批判しちゃうんです…
さらには当初傍観していた日本政府が帝政宣言の受けの悪さを見て取るや厳しく非難を始めたんです!

結局袁は1916年3月22日に慌てて帝政復活の取り消しを宣言したんですよ…

80日余りで「皇帝退位」に追い込まれちゃって「中華帝国」も消滅しちゃうんです…

でも一度失墜した権威は戻らず同年6月6日失意の中で病死…享年57歳…死因は尿毒症らしぃ

袁の死後に元部下であった張勲・馮国璋・徐世昌・段祺瑞などが相次いで政権につくけど
いずれも一国をまとめる力を持ってないから各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入しちゃいます…
蒋介石北伐が終了する迄の10年余りこの状況が続くことになるんですよ…
現代中国では政治的な意図もあって袁は悪役・漢奸のレッテルまで貼られてるんですよw中国共産党が称揚する孫文らを弾圧した事や日本の21ヶ条要求に屈した事そして時代に逆行して皇帝を名乗ろうとした事は中国共産党の作る歴史観からすれば明らかに悪役で当分はこの評価もやむを得ないんでしょうね…台湾においても革命で打ち立てられた共和制中国を乱した人物としてとっても低く評価されてるんです!日本でもその反復常無き行動から袁の受けは本当に悪いんですよね…でも時代の流れを敏感に察知して近代化を行いつつも伝統的な価値観を引きずって生きた袁自体を掘り下げ再評価する事は当時の再検証に大きく益するものじゃないかなってまるこは思いました!!

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フサイン・イブン・アリーはメッカのシャリーフ

オスマン=トルコ帝国からのアラブ独立運動指導者で後のヒジャーズ王国の最初で最後の国王
フサインは1853年メッカのハーシム家に生まれてます!
1893〜1908年迄オスマン=トルコ帝国アブデュルハミト2世の命でイスタンブルに住んでますw

1908年フサインはメッカのアミール(太守)となってます!!
当時メッカを中心とするヒジャーズ一帯はオスマン=トルコ帝国支配下にあって
半自治的な位置づけにあったんですよ…
ヒジャーズを支配するのがシャリーフで一般にはイスラム預言者ムハンマドの子孫を言うけど
メッカのアミールはシャリーフから命じられた存在だったんです……

                  http://www.jetro.go.jp/turkey/middleeast/p_miru/riyadh_p_miru_images/riyadh_p_miru_36.jpg アル・マスマック宮殿

第一次世界大戦中1915年イギリスのカイロ駐在の高等弁務官マクマホンと書簡を交換し
オスマン=トルコ帝国に反旗を翻す時に支援するという「フサイン・マクマホン協定」を結んだw
そして4人の息子と共に「アラブの反乱」を起こして1916年独立を果たしたんですよ…
このときフサインはイラク・シリア地方・アラビア半島を含む大アラブ王国を構想してたけど
イギリスは既にサイクス・ピコ協定でこの地域をフランスと一緒に分割する方針を決めてたんで

アラビア半島全域を統治するヒジャーズ王国を創始することになったんですよ!

1920年以降はオスマン=トルコ帝国の脅威が消滅したんでイギリスの援助も途絶え
1924年オスマン家アブデュルメジト2世がカリフを退位した機にイスラーム世界における権威を
求めカリフを自称するんだけどほとんど全イスラム世界から黙殺されただけじゃなくて
カリフ位を理由に重税を課したんでヒジャーズ内部からも広範な反対を招く事になっちゃうんですw
結局在地勢力からも見捨てられちゃって
ワッハーブ派イブン・サウード(後のサウジアラビア王国初代国王)にメッカを奪われて
孤立無援となって最終的には王位迄奪われてキプロス島への亡命を余儀なくされちゃうんです…

ヒジャーズ王国は建国後わずか8年でその歴史に終わりを告げたんです……

1931年アンマンで死去……享年80歳……遺体はエルサレムに葬られました!

その後フサインの長男ファイサル・イブン・フサインはイギリスの援助でイラク王に即位しています…
次男アブドゥッラー・イブン・フサイントランスヨルダンのアミール(後にヨルダン王)
イギリスによって立てられてますw
これが現在のヨルダン王家の直接の祖なんですね!!

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