『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

最後の皇帝

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Last Emperor (ラストエンペラー)

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マヌエル2世

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マヌエル2世はポルトガル(ブラガンサ王朝)第34代で最後の国王

1889年3月19日父カルロス1世
フランス王ルイ・フィリップの曾孫にしてパリ伯令嬢のマリー・アメリア
次男としてリスボンに誕生しますwベジャ公として生活してましたw

マヌエル2世の悲劇はその父カルロス1世の行いが大きく影響しています…

カルロス1世の放漫な財政共和派への弾圧そして自らの不倫はポルトガル王室の運命を
決定付けるものとなってたんですよ!!
植民地経営ではイギリスとの間に条約を結んでアフリカ情勢を安定化させたけど
内政では1892年6月14日と10年後5月10日の2度も国家財政破綻を宣言しちゃい
これは産業への混乱や社会主義者・共和主義者の台頭そして王制への批判を招いちゃいます…
国内の不満に対してカルロス1世はジョアン・フランコを首相に任命して
続いて議会の解散をも裁可することで応じたんですよ!!

          http://www.tim.hi-ho.ne.jp/mimatsu-n/imagepor/phpo-34.jpg 元王宮(現宮殿ホテル)

1908年2月1日カルロス1世と兄王太子ブラガンサ公ルイス・フィリペと
ベジャ公マヌエルら王族達はヴィラ・ヴィソーザのブラガンサ宮殿からリスボンへ戻ったところ…

一行は王宮へ向かう途中乗っていた馬車が群衆の中から狙撃されちゃうんです…

父カルロス1世は即死しちゃって兄王太子ブラガンサ公ルイス・フィリペも致命傷を負って
事件の約20分後に死亡しちゃいます…肝心のベジャ公マヌエル自身も腕を負傷してます!!
発砲した人物は少なくとも2人いたけどすぐに護衛によって殺害されてますw
後に彼らが共和主義者であったのが明らかになってます…
数日後マヌエルはブラガンサ朝のそしてポルトガル最後の国王マヌエル2世として即位しますw
この時マヌエル2世は18才の若さだったんです…

即位後に独裁者化していた首相ジョアン・フランコを追放しブラガンサ君主制の脆い地位を保存しようと頑張ってますが…一度狂い出した歯車は元には戻らず反王政派の活動はその勢いを増していきます!
ついに革命は1910年10月4日に勃発しましちゃいます…!!
マヌエル2世は王室一族とともに英国の統治されたジブラルタルへ逃げるんですよ!

ここに約800年続いたポルトガル王国は滅亡して共和政となってしまうんですw

その後イギリスで亡命生活を送っていました1913年9月4日に
ホーエンツォレルン家のオーガスタビクトリア王女と結婚しましたw
マヌエル2世はその後1932年7月2日32歳の若さでこの世を去っています…
ポルトガル革命後ポルトガルでの勤王派運動はブラガンサ王朝を復活させる事ができませんでした…

                  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/6/65/Carlos_of_Portugal.jpg 父カルロス1世

ちなみに母マリー・アメリアはフランスへ帰り1951年に亡くなりました…

バオ・ダイ

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バオ・ダイはベトナム阮朝第13代目(最後)の皇帝w

諱は福晪でバオ・ダイは治世の元号である保大に由来してて『保大帝』とも称されるんです!!
1913年10月22日に生まれ当初は『阮福晪』と名乗ってたんですよw
フランスで教育を受けて父親である先帝啓定帝が崩御する迄フランスに住んでました!
1926年1月8日に皇帝に即位し帝号をバオダイ帝(保大帝)としたけどすぐフランスに戻って
しばらくベトナムに戻らずフランスに留まります…
何をしてたと思いますか?
実はバオ・ダイはその治世にベトナムの完全独立を許可するようフランスを説得して
改革のために委員会を確立したりしてたんですよ!!!〜祖国を思ってのことですw
まるこはフランスでバオ・ダイが遊び呆けてたんじゃないかって思っちゃいました……m(_ _)m

ちなみにベトナムは既にフランスの属国(植民地)化して1世紀経ってました……
1934年にカトリック教徒で南ベトナム出身の南芳(ナム・ホン)と結婚しますwww
その後フランスからの完全独立を宣言し第2次世界大戦中は大日本帝国に協力してました!

           http://www.museum.ne.jp/kitaoku/lesson/vietnam/hue-gomon.jpg 阮朝王宮

1945年日本敗戦でバオ・ダイは後ろ盾を失い退位しこれで阮朝は幕を閉じちゃいます!

その直後ホー・チ・ミンによって新しい政府の「最高顧問」に任命されたんだけど
公式の外交代表団の一員として訪中時に亡命しちゃって1946年には香港へ移りますw
1949年にはフランス人の支援でベトナム国元首としてベトナムに帰り

1954年ジュネーブ会議で正式にベトナム国元首となったんです!

その際ゴ・ディン・ディエムを首相に指名するんだけども…
後にこのことを悔やんで自らクーデターを起こすんだけど失敗しちゃってフランスに亡命します…
彼はカンヌ付近で余生を送り1997年7月30日にパリの陸軍病院で84歳で死去しました…

ちなみに画像の阮朝王宮はベトナム戦争時にその多くが破壊されちゃってます……残念……

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コンスタンティノス2世はギリシャ王国最後の国王

1940年6月2日パウロス1世フレデリカ・ハノーヴァーの子として生まれますw
実姉はスペイン王スペインファン・カルロス1世王妃ソフィアです!
20歳の時にローマオリンピックに出場しセーリングGold Dragon Classで金メダルを獲得します!!
24歳の時に現デンマーク女王マルグレーテ2世の実妹アン=マリーと結婚してますw

国王としては首相ゲオルギス・パパンドレウとかなりの緊張関係にあったんですよw
ギリシャ王国軍の指揮権を巡り国王と争ってたんですね!!軍人の皆サンはいー迷惑かも!!
パパンドレウが1965年に首相職を辞任しちゃって政局が不安定化したんで

1966年4月21日に軍事クーデターが生じるんですよ!

同年12月にコンスタンティノスは家族を連れてローマに亡命脱出しちゃいます…
その後も国王不在のまま形だけの王制が続いていたけど1973年に当時の軍事政権は
ついに『王制』を廃止し『共和制』を宣言しちゃうんです……
翌年にはコンスタンディノス・カラマンリス率いる民主化政権のもとで2度目の国民投票が行われ
大差をつけて正式に王制の廃止が決定しちゃいました…
ギリシャの民衆と政治家の中には軍事クーデター前後における政治の混乱を
実はコンスタンティノス2世が原因だとする意見がとっても多いんですw
パウロス1世とギリシャ共和国双方で首相の重職を務め
後には大統領職も務めたコンスタンディノス・カラマンリスは ―――

コンスタンティノス2世をパウロス国王のわんぱく坊主だと軽蔑してるんです!!

他の政治家の中にはコンスタンティノス2世を単に馬鹿者と呼ぶ者迄いたんです…

国民投票の動向が決定した1974年12月8日のラジオ演説でカラマンリスは ――
『今日、国家のガンが国民全体により否定された』と述べてますw
これは当時の世論の如実に物語ってるんですよね…

長年に渡りコンスタンティノス2世はペルソナ・ノン・グラータとしてギリシャへの入国を
拒否されており王室財産に対する権利を主張してます……
ギリシャ政府を国際司法裁判所に提訴する為に彼は自分自身に苗字をつける必要に迫られます…
彼はイタリア語でギリシャを示す『Degrecia』を自らの苗字に選んだんです!
今コンスタンティノス2世は65歳…とっても元気でいらっしゃるそーですw
ペルソナ・ノン・グラータとは外交用語のひとつでラテン語で「好ましからざる人物」の意味なんです!これから慣用的に「歓迎したくない人物」を指すこともあるんですねw外交団員の一員となるには外交官になる必要があり外交官になるには本国政府にそう認められると同様に派遣先政府にもそう認めてもらわねばならないんです!!相手国から受け入れを認められた場合は「アグレマンがされるけど逆に拒否される事もあるんですよ!……これが「ペルソナ・ノン・グラータ」なんですwこの拒否はいつ何時でも一方的に発動できてその理由を提示する義務はないし受入国が提示する事にも問題はないんです!!
…ちなみにギリシャ王国はギリシャ独立戦争によりオスマン=トルコ帝国から独立したギリシャに
設けられた王国で欧州列強諸国によってバイエルン王国やデンマーク王国の王子が王位に
据えられたんで国内での支持基盤が弱くて政変が相次ぎ安定しない王国だったんです!!

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コンスタンティノス11世ドラガセスは東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝

東ローマ帝国最後の皇帝である

コンスタンティノスは1409年2月9日皇帝マヌエル2世パレオロゴスの四男として
首都コンスタンティノポリスで生まれたんです!
コンスタンティノスはれっきとしたパレオロゴス王家の生まれであったけど
彼だけは実母ヘレナの姓であるドラガシュのギリシャ語形である「ドラガセス」を姓としたんですw

1428年コンスタンティノスはペロポネソス半島にある帝国領のモレア専制公国の君主となります!!
モレア専制公時代に南ギリシャでの支配領域を拡大しギリシャ人勢力最後の希望の星となったんだけど
オスマン=トルコ帝国のムラト2世に敗れギリシャ人勢力再興の夢は断たれちゃったんです…

1448年彼の実兄である皇帝ヨハネス8世パレオロゴスが崩御し
コンスタンティノスと彼の兄弟のデメトリオスとの間に後継者争いが起きたんだけど
結局コンスタンティノスが翌年1月6日にモレア専制公国の首都ミストラで帝位に就いたんですw
3月にコンスタンティノス11世はコンスタンティノポリス(現イスタンブール)入りし
オスマン=トルコ帝国のムラト2世と平和条約を結ぶんです!

                   http://www.ab-road.net/images/sightseeing/K000004.jpg トプカプ宮殿

1451年2月にムラト2世が没し後を継いだメフメト2世は当初は友好的な態度を取ったけど
コンスタンティノスが帝国を維持するのにとったオスマン帝国撹乱作戦に対して怒り
翌年7月にはボスポラス海峡のヨーロッパ側沿岸にルメリ・ヒサール(バルカン城塞)という名の
城砦を築きコンスタンティノポリス征服の準備をし始めたんですよ…

これを受けコンスタンティノスは西欧諸国からの援軍を得るため1452年の暮れに
東方正教会をローマ・カトリック教会に統合させると宣言します!!!
これは兄ヨハネス8世がフィレンツェ公会議(1439〜45年開催)で署名した東西教会の合同決議に
従ったものだったけどこの宣言は国民から猛反発を受け大臣兼軍司令官ルカス・ノタラス大公に
至っては「枢機卿の四角帽を見るくらいならスルタンのターバンを見るほうがマシだ」
公言して憚らなかったんです…まさにコンスタンティノス11世の独断ですw
結局西欧からの援軍も得られずコンスタンティノスの最後の外交的努力も
国内に亀裂を生んだだけで終わっちゃったんですねぇ……あは……

1453年4月メフメト2世率いる10万のオスマン=トルコ帝国軍はコンスタンティノポリスを包囲!
メフメト2世はコンスタンティノポリスを明け渡せばモレアの領有を認めると提案したけど

コンスタンティノス11世はローマ皇帝として最後迄戦う事を選んじゃうんです!

コンスタンティノス11世率いる東ローマ軍は2ヶ月に渡って抵抗を続けたけど
5月29日未明ついにオスマン軍が城壁を突破しコンスタンティノスは市内に
雪崩れ込んできたオスマン軍の中に姿を消してしまいます……享年44歳……
こうしてアウグストゥス以来のローマ皇帝の継承者は絶えて…

紀元前753年に起源を発し2200年間続いたローマ帝国は滅亡!

コンスタンティノポリスの陥落後コンスタンティノス11世のものとされる遺体が発見されてます!
遺体は数日間晒されたけどその後最高の栄誉をもって埋葬されてます!
でもそれが本当にコンスタンティノス11世の遺体だったがどうかは不明で
オスマン=トルコ帝国支配下のギリシア人の間には
「いつかコンスタンティノスが復活して東ローマ帝国を再興させる」という伝説が生れたんですw
また正式には認められてないけど彼を“聖人”と考える正教徒もいたんですよw

コンスタンティノス11世の皇帝即位後に代りにモレア専制公国を継いだデメトリオスとトマスの
2人の弟は1460年にオスマン=トルコ帝国に降伏してます…
降伏後デメトリオスはオスマン=トルコ帝国に仕え トマスはイタリアへ亡命しちゃいます…
このコンスタンティノス11世の弟トマスの家系はイタリアやイギリス等で現在迄存続してます!!

またトマスの娘のゾエ(ソフィア)はモスクワ大公国のイヴァン3世に嫁いでます…
なので代々ロシア帝国皇帝はローマ帝国皇帝の後継者を自負してたんですね!!

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ロムルス・アウグストゥルスは西ローマ帝国最後の皇帝

ロムルス・アウグストゥルスという名前で知られてるけど本名はロムルス・アウグストゥス
アウグストゥルスというのは『小アウグストゥス』という程度の意味のニックネームなんです!
ロムルスが即位したのは475年10月31日だけど……
それから一年も経たない翌年9月4日にゲルマン人の将軍オドアケルにより退位に追い込まれます!

歴史的にはこの出来事をもって西ローマ帝国の滅亡としてるんです!!

でも既に西ローマ皇帝というのはロムルスの時代は事実上なんの権威も持ってなくて
オドアケルのようなゲルマン人の将軍達が実は実権を握ってたんですよw

               http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakg100/image1719.jpg ドゥッカーレ宮殿

なおオドアケルは東ローマ皇帝ゼノンに西ローマ皇帝位を返上しゼノンが
全ローマ帝国唯一の皇帝(勿論名目上)となりオドアケルはその代理として
イタリアを統治するという形式を取ってたんです…

名目上統一ローマ帝国となった東ローマ帝国は ―――

その後1000年もの長い間を生き延び1453年迄存続したんですよ!


退位後のロムルスは概して幸運だったんでしょうかねぇ……
 ………というのもロムルス自身が若かったんでオドアケルは彼の命迄は奪わなかったんですよ!
オドアケルはロムルスを帝位につけた実父オレステスすら殺しちゃってるんですよ!
オドアケルは寛大にもロムルスと家族を余生を送る為にカンパーニャに送ってます…w
ロムルスの一家はそこで恩給をもらって過ごしたんです…オドアケル…実は優しい?
ロムルスはオドアケルが戦争で敗れた後も新権力者となったテオドリック大王に恩給を
引続き貰い続ける事が出来たんですよ!!
ロムルスは後世迄何百年も続く修道院を建てる等の業績を残したけど
536年に(東)ローマ帝国がイタリアの支配権を再獲得する時迄生き延びる事が出来ず
511年頃に亡くなってます…実際没年は不明なんですよぉ……

ロムルス・アウグストゥルスをローマ皇帝と見なしていいかはよく現在でも議論されてます…
実際東ローマ皇帝ゼノンもロムルスを皇帝とは認めていないんですよ!!
ゼノンはオレステスに475年に退位した後もユリウス・ネポスが正統な皇帝だと考えてたんだけど

一般的にネポスでなくてロムルスが西ローマ帝国の最後の皇帝とするのが正しいかも…


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