ウンベルト2世はイタリア王国第4代目にして最後の国王1904年9月15日イタリアのラッコニージでイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世のただ一人の王子として誕生します!少年時代から軍人教育を受けてサルディニア近衛歩兵第一連隊の 少尉に任官し軍務に就いてスポーツマンとして評判が高かったんですw ムッソリーニは皇太子だったウンベルトを取り込んでファシスト党体制とナチス・ドイツとの 同盟がイタリア王室から支持されてると国民に宣伝することに余念がなかったみたいです… 第2次世界大戦後の1946年5月9日父王退位によりイタリア国王に即位しますw敗戦を受けてウンベルト2世はイギリスの『タイムズ』誌に声明を掲載しイタリア王室がムッソリーニの独裁政治と無縁だったと弁明するんだけど 戦後の国家体制をめぐり6月2日にイタリアで行われた国民投票では カトリック教会が中立を表明し王政を積極的に支持するのを控えた為54%の僅差 で王制廃止が決定し共和制移行となったんです… 〜君主制の伝統が長い南イタリアでは圧倒的に王制支持であったけど 逆に自治都市の伝統が強かった北イタリアでは王制支持が低かった〜 ウンベルト2世は即位後わずか5週間後の6月14日にイタリアを去り
主にポルトガルで亡命生活に入っちゃいます… 新たに制定されたイタリア共和国憲法ではウンベルト2世及びその直系男子のイタリア再入国を禁止する条項が制定されたんでイタリアには終生帰国できなかったんですよ… 1983年3月18日に79歳にてこの世を去っています! |
最後の皇帝
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ナポレオン3世は第二帝政時の皇帝でフランス最後の皇帝ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の弟であるオランダ王ルイ・ボナパルトとナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子であったオルタンス・ド・ボアルネ(オランダ女王)の 三男として1808年4月20日パリに生まれwナポレオン1世の甥にあたりますw 王家の息子の為に裕福な生活を過ごしてたけどナポレオン1世が1815年に ワーテルローの戦いに敗北すると亡命生活を強いられちゃうんです… 7月王政打倒を訴えて2度反乱を起こすけど失敗…2月革命勃発後は補欠選挙で当選し議員として フランスに復帰します!第二共和政期に対抗馬カヴェニャック将軍に圧勝して大統領に当選しますw 大統領で権力を蓄えた後1851年12月2日にクーデタを起こし翌年にはナポレオン1世と同様に 国民投票を経て帝政を開始しナポレオン3世として君臨するんですよ! その後ナポレオン3世の治世は1852〜60年迄を『権威帝政』と言い 1860年1月23日に締結された英仏通商条約(自由貿易への転換)から1869年迄を『自由帝政』 1869〜70年迄のエミール・オリヴィエ内閣を『議会帝政』と呼ぶんです… 『権威帝政』では産業資本の利益援護政策を推進してパリを大改造する等の大成果を上げちゃいます! 『自由帝政』では立法院に対し大幅に権限を譲歩し民衆に自由の道を開いたんですw でもジャーナリズムを軽視したんでメキシコ干渉後は大幅にその権威を悪評によって傷つけます… その為1869年からエミール・オリヴィエの第3党の育成に取り組んだけど普仏戦争敗戦で頓挫… 前年にはパリ万国博覧会を開催したりしてますwこの万博には徳川幕府も出展してますね! 1854年クリミア戦争にイギリスやオスマン=トルコ帝国側で参加しロシア帝国を破りパリ条約で 世界にフランスの威力を見せつけ1856年にはイギリスと共同してアロー戦争を引き起こし 清朝を屈服させちゃい1858年にインドシナへ出兵してコーチシナ植民地を獲得するんですw 1859年イタリア統一戦争に介入しサヴォイアとニースを獲得してるんですよ! 1861年にメキシコ出兵など積極的な対外政策を取って 1864年にオーストリア皇帝の弟マクシミリアン公をメキシコ皇帝に就けたりしてますw でもファレス率いる共和軍やアメリカの抗議により1867年に撤兵しちゃうんですよ… この出兵は著しく彼の威厳を傷つけ第二帝政は崩壊に向かっちゃいます! ちなみに幕末期の日本にも進出し戊辰戦争中の徳川幕府を多方面で支援してますねw1870年スペイン王位継承権でプロイセンと争いビスマルクの計略(エムス電報事件)により 7月19日宣戦布告しちゃいます(普仏戦争)! 部下の失策により序盤から戦局は劣勢となり9月2日セダンの戦いに自ら出陣するけど 腎臓結石だったんで行軍もままならずプロイセン軍に包囲され降伏して捕虜となっちゃいます… パリ市民の反感を買い2日後失脚し第二帝政は幕を閉じちゃうんです… 1871年3月それまで亡命先としてたドイツからイギリスに亡命し 1873年1月9日亡命先イギリスのカムデン・プレイスで死去…享年65歳… その息子ユジューヌ・ルイ・ナポレオンは英軍に入り1879年にアフリカ南部で戦死してます… |
シメオン2世はブルガリア王国最後の国王ですw現在はなんとブルガリア共和国の現役首相で名をシメオン・サクスコブルクゴツキと言いますサクスコブルクゴツキ家はドイツの名門ザクセン・コーブルク・ゴータ家の出身なので同じくザクセン・コーブルク・ゴータ家から分かれたイギリスやベルギーの王家とは親戚にあたりますw 1937年6月16日生れの彼は父ボリス3世の急死を受けて 1942年にわずか5歳でシメオン2世として即位しましたw その後1946年にブルガリアの王制が廃止されたんで9歳の時にブルガリアを後にして エジプトに亡命しちゃうんですよぉ…その後亡命先をスペインに変更してます! スペインに移った後はアメリカの陸軍士官になったり実業家として生計を立てていたんです…
1996年に50年ぶりに祖国であるブルガリアに帰国するんです!! 当時彼に政治的な意図はぜんぜんなくて東欧革命後の民主化を象徴する出来事の 一つという意味以外はなんにも持っていなかったんですねw ところが当時ブルガリアの経済改革がうまく行ってなかったんで元国王という肩書きと 「西側」で実業家を勤めてたと言う実績から次第にシメオンに期待が高まってきます! これを受けたシメオンは2001年に「シメオン2世国民運動」を結成して総選挙に勝利して ついにブルガリア首相に就任しちゃうんですよ! その後ブルガリアの経済改革はシメオンの手腕によって回復方向に転じ現在は2007年を目標に 欧州連合(EU)への加盟を目指しているんです! ちなみに隣国ギリシャで開催されたアテネ・オリンピックの開会式ではロイヤルボックスから ブルガリアの選手団に拍手を送ったけど日本のTVでは彼が誰か説明は一切無かったんですよ… 『元国王が祖国の首相として復帰』というニュースは旧東欧が共産主義化した時に
王位を追われた元国王達に一抹の希望を与えたけど… 彼に続いて祖国の政界に影響を与えるような存在になった人物はまだいません……あは…… 欧州(EU)議会の議員となったオットー・フォン・ハプスブルクのような例もあるんだけど… 当然であるけど首相就任時にブルガリア国王に復帰する意思は無いと言明してるんですよ! |
ムハンマド・アリー朝エジプト王国実質最後の国王1920年2月11日カイロ生まれイギリスのウリッジ軍事アカデミーに学びます!即位当時は若くて聡明な君主として国民の人気を集めたんですけど第2次大戦が終わり 戦争協力を求める英国の圧力が弱まると専制化して行くんですw 反宮廷派を排除して政治の混乱を招きくんですけど収拾できぬままエジプト王国は立憲君主制をひいて 議会を設置し緩やかな近代化を目指すんですけど大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や1948年〜 49年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でイスラエルに敗北や経済状況の悪化・ムスリム同胞団など 政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していくんですよw さらにファールーク1世は夜な夜な欧州のナイトクラブやカジノに通い大豪遊しちゃってます… そんな彼のライフスタイルは悪名高いものであったんでいつしか人気はガタ落ちしてました… 1952年ナセル率いる「自由将校団」のクーデタ(エジプト革命)により退位w その後イタリアに亡命し1965年3月18日享年45歳ローマで亡くなってます! ちなみにエジプト王国なんですが…
ファールーク1世亡命後その皇太子フアード2世が生後6ヶ月で傀儡として即位! しかし翌年1歳6ヶ月で廃位されて亡命先フランスで成長したそーですw http://info-regenten.de/regent/regent-d/pictures/fuad2.jpg フアード2世 |
マクシミリアンは最初で最後のメキシコ帝国皇帝w1832年7月6日生まれでハプスブルク家のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟w1854年オーストリア海軍の司令長官となって 1857年にベルギー王レオポルド1世の王女シャルロッテと結婚しますw 同年ロンバルド・ベネチア王国の総督となるんですよ! この頃メキシコでは自由主義的な改革を推進しようとするベニート・ファレスらと 保守派の間で内戦状態(レフォルマ戦争)となってて1861年迄にファレス側が優勢となりますw そのため保守派はフランス皇帝ナポレオン3世と結んで巻き返しを図っちゃうんですよ! 同年アメリカ合衆国が南北戦争に突入して介入が困難だったのもあって フランス等がメキシコに軍事干渉を行い1864年フランスのナポレオン3世が オーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンを傀儡として帝位に就けたんです! http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Palacio_bellas_artes_desde_torre_latino.jpg/260px-Palacio_bellas_artes_desde_torre_latino.jpg ベジャス・アルテス宮殿 でも国民からの支持を得られなかったんで南北戦争を終えたアメリカ合衆国がモンロー主義に 基づきマクシミリアンの即位に反対したのとマクシミリアン自体が自由主義的思想だったから メキシコの保守派と良好な関係を築けなかった事等でマクシミリアンの地位は当初より非常に 脆いものだったんですぅ… さらにヨーロッパ本国でプロイセンが急速に強大化しちゃったんでフランスはメキシコ問題に 拘泥することを望まなかったんですよ!そのためメキシコの自由主義勢力が勢力を挽回させて 保守派を破るとナポレオン3世はメキシコ支配を諦めてフランス軍を撤退させちゃいます!! このため孤立無援となったマクシミリアンは自由主義勢力に捕らえらちゃいます… 1867年6月19日銃殺刑に処されちゃうんです……享年36歳…実兄のフランツ・ヨーゼフ1世とはとっても仲の良い兄弟で実弟の死を知ってフランツは悲しんだみたいです… |




