『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

最後の皇帝

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Last Emperor (ラストエンペラー)

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カール12世

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カール12世はバルト帝国(スウェーデン王国)の国王

“北方のアレクサンドロス”という異名をとる(流星王とも呼ばれる)

ロシア皇帝ピョートル1世の好敵手ですw1682年6月17日生まれで15歳で王位につき
彼の若さに乗じよーとし隣国を出し抜いて国外に進出して領土拡大に向け各地を転戦します!
ついにはザクセン・ポーランド、デンマーク・ノルウェー及びロシア帝国の大連合を
打ち破っちゃうんですよ!……これが大北方戦争ですw
1700年のナルヴァの戦いに勝利した後でポーランドに侵入制圧し盟友スタニスラスを
ポーランドの王位につけちゃいます…
1709年7月ポルタヴァの戦いに敗れて黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命し5年後に帰国しますw
1718年11月30日ノルウェー攻略の要となる要塞フレデリックスハルドを攻囲中に流れ弾に
あたって落命しちゃいます…享年36歳の若さでしたぁ…
でもこの死に関しては異論があり今だに暗殺説が消えないんですよ!
彼はドイツ・オランダ・イギリスの外交に大きな影響を与えロシアを初めとする北方ヨーロッパの
脅威であり続けたけどその死はスウェーデン王国の覇権の終焉を意味したんです…

ヴォルテールの書いた『Histoire de CharlesXII,roi de Suéde,1731年』が代表的な伝記で
あるカール・フォン・クラウゼヴィッツは戦争論の中でフリードリヒ大王を評価する際に
カール12世をその比較対象に上げ彼は偉大な天才と呼ぶに値しないと切り捨てちゃいます!
でもその一方で舞台がアジアであればアレクサンドロス大王の様な名声を得られただろうと見なし
ドイツ兵学的見地からカール12世はナポレオン・ボナパルトの先駆者であるとも評価したんです!

               http://www.destination-stockholm.com/images/drottslott.jpg ドロットニングホルム宮殿

バルト帝国(スウェーデン・バルト帝国)とは近世ヨーロッパのバルト海沿岸を支配した国家で
スウェーデン王国が繁栄した大国時代の呼称で実際この名の国家は存在しません!
スウェーデン人自身はこの政体を帝国とは呼ばなかったけどその実態は複数の言語や
民族の領域を支配征服した事から呼ばれてるんですよw
グスタフ2世アドルフのバルト帝国建国から1700年代に始まった大北方戦争によって
スウェーデンがロシア帝国に敗れる迄の約1世紀を「スウェーデン・バルト帝国」と言いますw
北ヨーロッパ及びバルト海の覇者を巡る大戦でスウェーデンはその戦争の初期にロシアを
圧倒したにも関らずその力を過信しただ一度の敗戦でスウェーデンは全てを失います…
特にバルト地方は結局全てロシアに帰して…しかもバルト海の制海権も失い国力は衰微しちゃうんです…
絶対主義の崩壊です…そして1718年のカール12世の戦死によってスウェーデン王国は
大国の座もバルト帝国の座も失っちゃいます…ただフィンランドだけが残されたけど失政の為に
フィンランド人の反感を買いこの地すらロシアの脅威に曝されるのでしたぁ!
そして大北方戦争終結後に締結された条約 ―――

ニスタット条約はスウェーデンに置ける「死亡診断書」となったんです

現在のスウェーデン王国はベルナドット家が王位を継承し現国王はカール16世グスタフですw
当時の国王カール13世ヨハン(在位1809〜18年)には世継ぎがいなかったんでその当時欧州の覇権を
握ってたナポレオン配下の名将ベルナドットをスウェーデン国民議会の決定で王位後継者としたのが
始まりで現国王は7代目となるんです…

子嬰

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 ?H1>子嬰は中国初の統一王朝秦の最後の第3代目皇帝   史料では秦王子嬰とか呼称されたりしてますw 姓は嬴(えい)w
  史書には始皇帝の孫と記録されてるけどその父親については諸説あって
  小説とかでは始皇帝の長男扶蘇の子だとかが多いけど
  詳細はわかんないし 中には始皇帝の子だとか
  始皇帝の弟荘襄王の子だとかって説もあるけどやっぱり詳細は不明……謎なんです…

  秦に対する反乱が全国に広がり秦政府の力では対処出来なくなってた最中
  丞相趙高のクーデターで2世皇帝(胡亥)が自殺させられると混乱する人心の
  安定を図る趙高に人望の厚い子嬰が秦王として擁立されちゃうんです!


 ?H4>実際には秦王ではなくて皇帝を名乗ってたみたいですけど…   でもこの直前に趙高が当時咸陽の近くに迄攻め入ってた反乱軍の将軍劉邦に内応して
  王となろうとしてるって噂が広まり危険を感じた子嬰は趙高とその一党の粛清を決意!!
  即位式当日に仮病で欠席して趙高を誘い出して一党とともに殺害しちゃうんですw

  これで秦国内は一時的に安定したんだけど時すでに遅く
  劉邦の率いる反乱軍はもう咸陽の目の前に迫ってます!
  手後れを悟った子嬰は劉邦に降伏しちゃいます…その一族共々身の安全を保証されたんだけど
  劉邦に続いて項羽が咸陽に入ると始皇帝が諸国を滅ぼした罪等を持ち出されて
  結局一族ともども処刑されちゃうんですよぉ…

  ちなみに画像は始皇帝です…すんませんm(_ _)m

トゥパク・アマル

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南米大陸に約300年間繁栄したインカ帝国最後の皇帝ですw

インカ帝国の滅亡と言えば征服者フランシスコ・ピサロが騙し討ちでアタウアルパ皇帝を捕らえ莫大な身代金をとった揚げ句に処刑してしまった話が有名ですね!
インカ帝国は事実上この時滅びたと言ってもいぃんですけどピサロにはインカ帝国を完全には滅ぼせない事情があったんです!!それは彼の率いるスペイン軍が兵力僅か150人・大砲2門の小部隊だったのが原因なんですよぉ…
アステカを征服したコルテスが1千人以上の軍でも一度は敗北を喫したのと比べても少な過ぎる兵力ですwそれでも征服に成功したのはインカはアステカと違い皇帝の権力が絶大でアタウアルパ皇帝が獄中から「スペイン人に従え」と命令すると国中が従っちゃったからなんです!でもいくらなんでも150人の軍勢ではあの広大な領土を直接に支配するのは無理なんでピサロは当面…傀儡のインカ皇帝が必要だったのですwそれならアタウアルパを殺さなければぃーのにその権力の巨大さをピサロは恐れたんでしょうね…で彼の前にマンコ・インカという男が現れるんですw
ピサロが乗り込んでくる直前インカ帝国ではアタウアルパとその実兄ワスカルがそれぞれ皇帝位を巡って内乱を繰り広げてたんですよ!兄弟喧嘩ですよ!結局アタウアルパがワスカルを破って皇帝の地位を奪い取っちゃいますwマンコ・インカは彼等の兄弟でワスカル派ですwでも敗者ワスカルはアタウアルパ派の軍に殺され一派も弾圧されちゃうんです…もっとも勝ったアタウアルパ皇帝も数日後にはピサロに屈して天国から地獄に急降下しちゃうんですけどね…
http://www.page.sannet.ne.jp/megmeg/viaje96/viaje94/viaje94foto/foto94peru1.jpg マチュピチュ
マンコ・インカはスペイン勢力の力を借りてアタウアルパ派に対抗しようと皇帝に名乗りを上げたみたいです…でもどう見ても野合だったし傀儡に何の実権もある訳ないし…ピサロの横暴を見て彼は皇帝になったことを後悔したと思いますwやがて彼はスペイン人の支配するクスコを脱出して打倒ピサロの兵を挙げ険しい谷間に秘密の「新インカ帝国」を建国しちゃうんですよ!
新インカ帝国の実質的な勢力は取るに足らないけど彼等がウルバンバ川の谷間に立て籠もっている間にピサロとディエゴ・デ・アルマグロの征服者同士の内紛が果てしなく続きますマンコ・インカはアルマグロ派に付いたり離れたり、この紛争をうまく利用して立ち回っってます…

日本の室町初期弱小の南朝が北朝の内紛のお陰で何十年も存続したのとよく似た構図です

かつてアタウアルパ皇帝はピサロの策略にはまって捕らえられたけど今や新インカ帝国がスペイン人を手玉にとってましたw最もジャングルの中の亡命政権をスペイン人を手玉にとるのだけでやっと維持した40年間だったことも事実です!マンコ・インカの死後彼の3人の息子が次々と皇帝となってますw皆それぞれに策を弄しある時はスペインの懐柔策に乗って見せたり形だけ降伏して時間稼ぎをしたりしてこの弱小勢力を生き延びさせて来たけどそれでもとうとう新インカ帝国の命脈も尽きる時が来ちゃうんです!スペイン勢力はついに新インカ帝国を手懐けて服従させるのを諦め武力で征服する道を選んだのです!

マンコ・インカの三男トゥパク・アマルが皇帝として即位したのが1571年

ゲリラ戦を繰り広げる新インカ帝国がスペイン軍に滅ぼされたのが1572年

「皇帝」として何もやる時間がないまま捕らわれの身となっちゃいました…
哀れな皇帝トゥパク・アマルはクスコに連行されて拷問を受けた末に裁判にかけられ多くの家臣や民衆の面前で首をはねられ処刑されちゃうんです…彼は新インカ帝国の首都について結局何も口を割らなかったけどスペイン人が最後迄存在を信じて疑わなかった「新インカ帝国の壮麗な秘密の都」等と言うのが本当にあったんですかねぇ……今も伝説として語り継がれてます!

ヴィルヘルム2世

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ヴィルヘルム2世は最後のドイツ帝国皇帝にしてプロイセン王

帝国主義的な膨張政策を展開するけど拙劣な外交で列強との対立を招き
ドイツを第1次世界大戦の地獄に導いちゃいます!
ヴィルヘルム2世は1859年1月27日プロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後の皇帝フリードリヒ3世)と王太子妃ヴィクトリア(英国ヴィクトリア女王の長女)との間に生まれましたw少年期のヴィルヘルム2世の性格は自己中心的で移り気・左腕の発育不全を気に病んでたんです…この不全は出生時に罹患した合併症が原因でちょくちょく電気ショック療法などの苦痛を伴う治療を受けたけど治癒しなかったんですよ…

ヴィルヘルム2世は1881年にシュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク公女アウグステ・ヴィクトリアと結婚しましたw

1888年6月15日父フリードリヒ3世の死にともないプロイセン国王及びドイツ皇帝に即位!ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の存廃をめぐり宰相ビスマルクと対立しビスマルクは1890年に辞任しますwヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と言い社会主義者鎮圧法は廃止され世界政策と呼ばれる帝国主義的膨張政策が展開して来んです!
帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったんで国政にはヴィルヘルム2世の意志が大きく反映され「ドイツを陽のあたる場所へ」という標語のもと植民地獲得に力が注がれるんです…でも列強の既得権とぶつかるこれら政策は軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行しロシアやイギリスとの関係を悪化させることになっちゃうんですよ!

1896年イギリスの支援を受けた勢力が南アフリカのトランスヴァール共和国に侵入した際ヴィルヘルム2世はトランスヴァール首相クリューガーに激励の電報を送りイギリスとの関係を悪化させますwまた1898年海軍次官ティルピッツはヴィルヘルム2世の指示に基いて艦隊増強の指針を定めた「海軍法」を制定したんでイギリスとドイツの建艦競争が激化しちゃいます…

1905年ヴィルヘルム2世はモロッコのタンジールを訪問し大艦隊を見せつけてフランス・スペインの勢力圏モロッコを脅かし第一次モロッコ事件を引き起こすんです!この時は自ら諸外国に列国会議の開催を呼びかけ翌年にアルヘシラス会議が開催されるけどフランスと三国協商を結んでたイギリスとロシアはフランス・スペインを支持し三国同盟を結んでたイタリアは仏伊協商を結んだばかりでフランスとの関係を重視し唯一の支持国であったオーストリア・ハンガリー帝国も消極的な支持に留まり結局アフリカのフランス領の一部で何も資源の無い領域のドイツへの割譲だけで譲歩せざるを得なくなったんです…さらに1911年にもモロッコのアガディールに艦隊を派遣してモロッコの領土保全と門戸解放を訴えフランスの権益を侵そうとして対立を深めちゃうんです(第2次モロッコ事件)

            http://hvanilla.web.infoseek.co.jp/berlin/image/s-berlin127.jpg サンスーシ宮殿

また1905年に日露戦争でロシアが敗れると「黄禍論」を発表して白人優位の世界秩序構築とその為に日本をはじめとする黄色人種国家の打倒を訴えるけどそれはドイツ帝国主義の正当化と海軍力増強を対英戦ではなく対日戦の為と世界に認識させる意図であったんですけど効果は無かったみたいです…
1908年イギリスの新聞デイリー・テレグラフのインタビューに答えてドイツの内政と外交について語りその侵略政策的内容によって内外から激しく批判され皇帝の権力を憲法で制限すべきと言う論議が盛んになってきます…

第1次世界大戦の勃発に際してはオーストリアとの同盟を重視すべきと主張して世論を参戦に導いたが軍事的に指導権を制限され大戦末期にはヒンデンブルクとルーデンドルフにより政治的にも実権を失っちゃいます…1918年11月9日宰相マックス・フォン・バーデンは一方的に皇帝の退位を発表しヴィルヘルム2世は司令部のあったオランダに亡命!11月28日皇帝は退位宣言に署名しホーエンツォレルン家によるドイツ支配は終焉を迎えます…オランダ政府は政治活動の停止を条件に受け入れを承諾して元皇帝のドイツへの引き渡しを拒みヴィルヘルム2世はユトレヒト州ドールンでかつての臣下を罵りながら趣味として木を伐る余生を過ごすことになっちゃいます…

1921年4月11日アウグステ・ヴィクトリア皇后が死去し同年11月5日ヴィルヘルム2世は兄系ロイス公女ヴィルヘルム・ヘルミーネと再婚wヴィルヘルム2世はオランダ亡命中も常に復位の希望を抱いて戦後もドイツの保守派に対して一定の政治的影響力を保ってたんですwドイツ本国に留まってた元皇太子ヴィルヘルムはナチ党に入党しており1931年にヘルマン・ゲーリングがオランダを訪れてヴィルヘルム2世に面会してますwヴィルヘルム2世は復位の希望からナチ党政権には好意的で1940年ドイツ軍がパリを占領した時にはヒトラーに対して祝電を打った程でしたw復位への望みもあったけどナチスから年金を貰ってた事と自らの保身もありヒトラーには好意的だったんですけど…ヒトラー自身は復位させる気は全くなかったみたいですよ!

1941年6月4日ヴィルヘルム2世はドールンで死去…享年82歳…ヒトラーは最大級の栄誉をもって葬儀を行うよう指示し元皇帝は軍の催した式典によって華々しく葬られましたw

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バハードゥル・シャー2世はムガル帝国の最後の第17代皇帝w

1837年実父先帝アクバル・シャー2世の崩御で62歳の高齢で即位w
1858年イギリスの裁判にかけられてミャンマーに配流される迄帝位に着きましたw
即位時ムガル王朝の権力はデリー周辺にしか及ばずインド内部はそれ以外の各地で
地方勢力や欧米列強が入り乱れる沈滞した社会となってました…
特に1757年のプラッシーの戦いでフランスからインド植民の権利を勝ち取ったイギリスの
イギリス東インド会社の勢力はインド半島全域で大幅に拡大しだしてたんですよ!
そんな情勢の中イギリス東インド会社は1845年〜49年にかけて'シク戦争を起こして
シク教国を滅ぼしイギリスがインド全体の支配者になろうとしてたんです…
こうした沈滞した社会の中で東インド会社の抱える傭兵(セポイ)の間で変な噂が流れてます…
イギリス軍では新たにエンフィールド銃が導入されその銃が彼達にも配給されるという噂…
これだけの事なら話は簡単に片付くけどそうはいかなかったんです…
そのエンフィールド銃の薬莢の紙袋にインドの気候でも最低3年は乾かないと
言いわれてる牛と豚の脂が濃厚に塗ってあったんですw
当時の弾薬は薬莢を口で噛み切らないと使えなかったんでもしこの銃を用いたら
セポイ達は戦闘時に宗教的禁忌を犯す事になっちゃうんですよ!!!

信心深い彼らは怒って反乱の狼煙を上げここにセポイの乱を起しちゃいます!

蜂起したセポイ達は1857年にデリー城を占拠!
有名無実となってた82歳の老帝バハードゥル・シャー2世を擁立しムガル帝国の統治復活を宣言!
一時期その勢力はインドの3分の2を巻き込む大きなものとなったけど
セポイ達には統一目標も軍隊組織も無かったんで軍事組織の建て直しを行ったイギリス東インド会社に
よって反乱はほどなく鎮圧されちゃうんですよね…w


翌年反乱を鎮圧したイギリスはバハードゥル・シャー2世を退位させると
裁判にかけて有罪としミャンマーへ流刑に処しちゃいますw
バーブルがパーニーパットを戦場にロディー朝を倒してムガル帝国を創始してから332年w
そしてティムールが中央アジアで大帝国を築いてから488年が経っていたこの年…
かくしてムガル帝国はその歴史に幕を閉じちゃいます…
なお画像は白髭をたくわえ流謫地へ送られる83歳の廃帝の姿なんですよ…

それから4年後の1862年バハードゥル・シャー2世は流謫地ヤンゴンで死去します…享年87歳w
一方イギリスはムガル帝国を滅亡させると東インド会社を解散してヴィクトリア女王の直接統治による
『インド帝国』の成立を宣言し1877年には正式にインド帝国が成立しました…

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