『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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危険な男3

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政権の座に着いたナポレオンは連合国に対して講和を申し出るけど拒絶されちゃいますw
それでナポレオンはアルプスを越えて北イタリアに進軍し1800年6月のマレンゴの戦い
オーストリア軍に大勝利しフランスの別働軍もオーストリア軍を撃破し
翌年2月にオーストリアは和約に応じてライン川の左端をフランスに割譲し
北イタリア等をフランスの保護国としちゃうんですよ!
この和約で第2次対仏大同盟は崩壊してイギリスのみが戦争を継続するけど

1802年3月にはアミアン講和条約で一時的に講和しますw

また並行して内政面でも諸改革を行ってます!
全国的な税制制度や'行政制度の整備を進めると同時に革命期に
壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に努めてます!
1800年にはフランス銀行を設立し経済の安定を計ったり
1802年には有名なレジオン・ドヌール勲章を創設してるんです!
また教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定してます!
更に国内の法整備も取り組み1804年に「フランス民法典」所謂ナポレオン法典を制定します!
これは各地に残っていた種々の慣習法や封建法を統一した初の本格的な民法典で
「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を
取り入れた画期的なもんだったんですよw
他にも教育・交通網の整備にも尽力してるんですよ!

ローマ教会との和解も目指したナポレオンは1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結んで
国内の宗教対立を緩和したりとかまた王党派ジャコバン派等の前歴を問わず人材を登用して
国内を融和に導いちゃってます!
その一方で現在の体制を覆そうとする者には容赦をせずに弾圧してるんです…
第一執政となった時から暗殺未遂事件は激化して

1800年12月に王党派による爆弾テロも起きているですよ!

これらの事件の果ての1804年3月のフランス王族アンギアン公の処刑は
全ヨーロッパに反ナポレオン・対反キリストの情勢を生み出して逆にナポレオン陣営は
相次ぐ暗殺未遂からの対抗から帝制への道を突き進んで行く事になっちゃうんですw
そして1802年8月2日に終身統領(終身執政)となって独裁権をさらに強めていっちゃうんですw

危険な男 2

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カンポ・フォルミオの和約でオーストリアが脱落した事で第1次対仏大同盟は崩壊したけど
海の向こうに強力な海軍を有するイギリスが睨みを利かしてて制海権を握ってるイギリスに
フランスは決定的な打撃を与えられなかったんですよw
そこでナポレオンはイギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを
企図しエジプト遠征を総裁政府に進言しこれを認めさせちゃいます!

ナポレオン軍はエジプトに上陸し1798年7月20日にピラミッドの戦いで勝利して
カイロに入城するんですけど8月1日のアブキールの海戦(ナイルの戦い)
ネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗した事でナポレオンが率いる軍は
エジプトで孤立し12月24日に第2次対仏大同盟が結成されて再びフランスは
危機に陥っちゃうんですね!

翌年に対仏同盟側にイタリアを奪還され民衆の間では総裁政府を糾弾する声が高くなって
この中でナポレオンはアブキールの陸戦勝利後その足でエジプトを脱出して
ブリュメールのクーデタを起こして統領政府を樹立して

ナポレオン自ら第一統領(第一執政)となって実質的に独裁権を握っちゃいましたw

……もしクーデタが失敗してたら……
エジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪と言う重罪で銃殺刑は免れ得なかったでしょうねぇw

危険な男

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ナポレオン・ボナパルトはフランスの軍人・政治家

フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世その人です!
天才的な軍事・政治的才能を元にフランス革命後のフランスを制圧しフランスに帝政を敷きナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパを席巻するけど敗北してヨーロッパの秩序はウィーン体制に求められちゃうんですw当時のイギリス首相ウィリアム・ピットは「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」とナポレオンを評してますw

1769年8月15日コルシカ島アジャクシオってとこで父カルロ・マリア・ブオナパルテ(仏名シャルル・マリ・ボナパルト)と母マリア・レティツィアの間に8人兄弟の2番目として生まれてますw出生時の名前はナブリオーネ・ブオナパルテって言います!ブオナパルテ家はロンバルディア州に起源を持つ古い地主の家系で父は判事をしてたけどコルシカ独立闘争の折にはパオリの副官を努めてますw後にフランス側に転向しこの事で貴族の資格を得てます!姓をブオナパルテからフランス風のボナパルトに名をナポレオンと改称するのはフランスで出世し始めてからなんですよ!

幼年期に父カルロと兄ジュゼッペ(仏名ジョゼフ)とともに渡仏してますw子供時代のナポレオンは読書に明け暮れて特にプルタルコス著『英雄伝』に傾倒し大人しい性格だったんです!初めは修道院学校に入るけどすぐに辞めて国費で1779年にブリエンヌ陸軍幼年学校に入学し1784年にパリの陸軍士官学校に入学してます!この頃数学は抜群の成績でしやけど全体としてはあまり優秀じゃなくて卒業試験の成績はなんと58人中42位だったみたいですwこの時期のエピソードとしてクラスでやった雪合戦の際ナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話があるんですよ!

1785年に砲兵士官に任官してバスティーユ牢獄陥落の報に接してナポレオン自身もフランス革命に参加しジャコバン派を支持する小冊子を出して逮捕されちゃってます!1792年にコルシカに帰郷してアジャクシオの国民衛兵隊中佐となるけど当然フランス王党派と繋がりのあるパオリと亀裂が生じてパオリの腹心でナポレオンの縁戚関係にあるボルゴらによってブオナパルテ家弾劾決議を下されて一家で追放に近い逃避行によってマルセイユに移住してます…この頃マルセイユの裕福な商家であるクラリー家と親しくなって兄ジョゼフはクラリー家のマリー・ジュリーと結婚してナポレオンもマリー・ジュリーの妹デジレ・クラリーと恋仲となり婚約なんかしちゃってます!!

その後大佐に昇進して1793年末イギリス艦隊に占拠されたトゥーロン攻略作戦にて功績を挙げて少将・旅団長に出世してます!翌年に革命政府ではロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑されてナポレオンもその弟のオーギュスタンと繋がりがあった為に投獄されてます…いわゆるトバッチリですね…だけど釈放後に総裁政府の総裁ポール・バラスによって登用され1795年のパリに於ける王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)を首都の市街地で大砲(然も広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法であっさり鎮圧しちゃったことで師団長となり「ヴァンデミエール将軍」の異名をとってます!翌年デジレ・クラリーとの婚約を破棄して貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚しちゃいます!

同年にイタリア遠征の指揮官に任命されてこの戦役において総裁政府はドイツ側から2軍・イタリア側から1軍をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図してナポレオンはこの内のイタリア側からの軍を任されてますwドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対しナポレオン軍は連戦連勝を繰り返しミラノから1794年4月にウィーンに迫り10月に城下の盟(カンポ・フォルミオの和約)を誓わせちゃうんです!ナポレオン戦争の始まりはこのイタリア遠征からとする事多いです!

男勝りの偉大な処女

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イングランドテューダー朝4代目の王(在位1558〜1603年)

大英帝国繁栄の基礎を築いた女王w

それが“エリザベス1世”―― 彼女です!!

1534年9月ヘンリー8世と二番目の王妃アン・ブーリンの間に生まれましたw
父のヘンリー8世はアン・ブーリンと結婚するため
最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を教皇庁に要請したが
キャサリンの従姉妹であったカール5世が横槍をいれたため許可がおりなかったんです…

ヘンリー8世はこれを契機にローマ教皇庁と断絶!

イングランドが「独立したエンパイア」であることを宣言して新たに「英国国教会」を樹立w
そして「国王至上法」(首長令)でイングランド国内においては
イギリス国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけちゃうんですよw

父ヘンリー8世の死後過激なプロテスタント優遇政策をとってた兄エドワード6世
カトリックへの回帰を宣言してプロテスタントを迫害した姉メアリー1世の後を継いで

1558年11月17日に即位しますw

エリザベスは父の政策を踏襲して再び「国王至上法」を発令し
「礼拝統一法」によって英国国教会を国家の主柱として位置づけるんですw
1569年にはカトリックを信仰する北部諸侯の乱を鎮圧

翌年教皇ピウス5世から正式に破門宣告されちゃいます

以後エリザベスは国内のカトリック勢力により何度となく暗殺の危険にさらされるんです…

同時にこの時代フランシス・ドレークやホーキンスなど優れた航海士が生まれてます!!
その一方1587年自らの英国王位を主張していたスコットランド女王メアリー・ステュアートを
女王暗殺未遂の容疑で逮捕し処刑してスペインとの対立が深刻化!

結果1588年スペイン無敵艦隊の侵攻を受けちゃうんですよ!!

英国の艦隊は必ずしも盤石ではなかったけど当時無敵艦隊を率いて世界各国に植民地を持ち
ヨーロッパの最強国となっていたスペイン・ハプスブルグ家に挑戦するんですよw

エリザベスはスペインからの独立を目指して戦っていたオランダの独立戦争を支持し援助しますw
スペイン国王フェリペ2世はこれに対してイングランド攻略を目指して

無敵艦隊を送ったが1588年のアルマダの海戦において ―――

私掠船を中心とした軽快な小型艦と威力ある大砲を操るイングランド海軍に大敗北
スペイン海軍は嵐にも巻込まれスペインに戻ることができた軍艦はほとんどなかったみたいですよ…
スペインの海軍力はこの後大幅に低下してっちゃうんですねぇ…
逆にイングランドの海軍力はこの後の大英帝国を維持するイギリス海軍に発展するまで上昇!!
当時ヨーロッパの最強国の一つであったスペインを軍事的に打ち負かしたことで
イングランドはスペインに変わりイギリスが

世界貿易を一手に握るようになっていき国際的地位は高まって行くことになります!

晩年は「囲い込み」によって発生した大量の難民に対処しきれず
発布した「貧民救済法」も効果がなかったんですよぉ…

また対スペイン戦争アイルランドの反乱鎮圧のために軍事費が増大して
社会不安が増加して逼迫した財政立て直しのため独占許可状を乱発するけど
議会の猛反対にあいやむなく撤回するはめとなっちゃうんですよ…
ちなみに……既に立憲君主制度を導入してたイギリスって凄いかも…

文化的にはウィリアム・シェイクスピアをはじめとする文筆家を多数輩出して一大文化が花開く!
1603年3月後継者に遠戚にあたるスコットランド王ジェームス6世を指名してから

1603年3月24日崩御しちゃうんですよ…享年70歳…

一生独身だったんで『処女王』と呼ばれてます
レスター伯ロバート・ダドリーエセックス伯ロバート・デヴァルー(義理父)等の愛人がいて

彼女実は……“処女”ではなかったんですよw

特にレスター伯ロバート・ダドリーとは一時は結婚まで考えてたんですけど
彼の妻のエイミーが階段から落ち死亡する事件が起こりダドリーとの共謀説が流れて
彼との結婚は断念しちゃいます……(T_T)
エセックス伯は1601年2月エリザベスに対して反逆を起こし処刑されてますぅ…

まさに『私に触れると火傷するよ!』なのかぁ………?


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/3e/6c/me468646/folder/1025983/img_1025983_30044990_44?1239597638 ウィンザー城

宿敵ルイ14世

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ハプスブルグ家と300年の長きに渡り敵対するブルボン朝の第3代フランス王ですw

ルイ13世の嫡子で奥サンはスペイン王フェリペ4世の娘のマリア・テレサw

ブルボン朝最盛期の王で「太陽王」と呼ばれたんです!

「朕は国家なり (L'état, c'est moi)」は有名な言葉ですねw


ルイ13世が王妃アンヌ・ドートリッシュを迎えてから23年目にしてやっと生まれた長子であり
宰相リシュリューマザランの子であるとの噂もあるが
どうやらリシュリューが一方的に思いを寄せてたみたいです…片思い
彼が「王妃が自分の好意に応えてくれない」と書いた日記も発見されてます…恥ずかしっ
またアンヌがルイ14世を妊娠した1637年12月5日は
まだマザランがイタリアにいた時期でありこのマザランが父親という話の方も単なる噂話ですね!

当時ブルボン王家の男子はルイ13世の舎弟オルレアン公ジャン・バプリスト・ガストンのみで
ブルボン家はルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだんですw
父王の死後は幼くしてフランス国王に即位し母后アンヌが摂政となり
リシュリューに代り宰相となったマザランの補佐を得てフロンドの乱を鎮圧してますw

1659年にスペイン王女マリー・テレーズと結婚!!

1661年にマザランが死ぬと宰相を置かずに親政を開始するんです!
高等法院の建言権を制限してコルベールを登用し治世術を勉強し中央集権重商主義政策に基づき
ボシュエの唱える王権神授説ガリカニスムを掲げ絶対王政を確立してます…難しい

フランス国内のプロテスタントジャンセニストに対しては
礼拝の制限官職やギルドからの追放など弾圧を行い

20万に及ぶ新教徒はヨーロッパ各国や新大陸(アメリカ)に亡命

結果的にフランス資本の海外流出を招いちゃいますw

ルイ14世は国内には新教徒は存在しないとして
1685年にはフォンテーヌブロー王令を下してナントの勅令を廃止しちゃいます!
フランスに残った新教徒の反乱であるカミザールの乱に対しては武力鎮圧を加えてます…

軍制を整備しフランドル戦争(1667〜1668年)・ネーデルラント(オランダ)戦争(1672年〜1678年)
ファルツ継承(アウクスブルク同盟)戦争(1688年〜1696年)・スペイン継承戦争(1702年〜1713年)等に
参加して領土を拡張と国境の画定を行ってますw

対外戦争はフランスの国益にもなるけど徴兵による民兵制度や食糧問題でフランス国民は疲弊し
ルイ14世の覇権主義は新教徒弾圧と合わせて周辺諸国からの警戒を呼んじゃうんですよw

1715年9月1日に77歳で死去…


死後は曾孫に当たるルイ15世が王位を継承し甥のオルレアン公フィリップが摂政に着いてますw

ルイ14世はパリにヴェルサイユ宮殿(上画像)を建設し
ラシーヌボワローなどの詩人を優遇するなど文化の興隆も見たが
戦費調達のための新税や放漫経営が国家財政を苦しめるようになるんですねw
この事が早くも後年フランス革命の遠因となちゃってます…

フランス革命まで74年と286日 ―――

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