『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

今川家

[ リスト | 詳細 ]

今川家は足利氏の支流で駿河国の守護大名・戦国大名となった一族ですw本姓は清和源氏w今川氏は足利一族中で名門の中の名門であり足利将軍家から御一家として遇された吉良氏の庶流にあたりますw室町幕府において「御所(足利将軍家)が滅べば吉良が継ぎ吉良が滅べば今川が継ぐ」という嫡流滅亡時は将軍継承権の発生する家柄でしたw
http://history.blogmura.com/img/history88_31.gif
にほんブログ村 歴史ブログへ(文字をクリック)
記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

今川 義元

イメージ 1

今川 義元は駿河今川家9代目当主

駿河国(静岡県中部)の守護大名であり戦国大名

永正16年(1519年)に7代目今川氏親正室中御門宣胤の娘(寿桂尼)の5男として誕生w
幼名は芳菊丸で正室は武田信虎の娘サン(定恵院)
嫡子は10代目今川氏真で娘は武田義信の正室となってます!!

「海道一の弓取り」の異名を持ち領国経営と外征に才能を発揮したんです!!

織田信長がメインとなる桶狭間の戦いの“敗戦の将”として有名ですよね…

戦国大名は数多くいるけどまるこが唯一大好きな武将なんです!

生まれた時既に同母兄で8代目氏輝がいたんで4才で仏門に出されて臨済宗に入門して
梅岳承芳と称し教育係につけられた今川一族出身の禅僧太原雪斎と共に京都で五山に学びますw
1536年兄氏輝が急死したんで駿河に戻り異母兄で同じく出家してた玄広恵探との間で
家督争いが起きるけど雪斎の尽力でこの争いに勝利するんですよ!
この『花倉の乱』と呼ばれる家督争いを経て還俗して
今川氏第9代駿河守護となり今川治部大輔義元と称すんです!!官位は従四位下です!!
家督を継いですぐに甲斐守護武田信虎の娘(定恵院)と結婚し甲斐(山梨県)の武田氏と結びますw
なんで反って旧来の縁戚であった伊豆国・相模(神奈川県西南部)を領する北条氏と仲違いし
北条氏綱・氏康父子と駿河東部で戦い一時領土の一部を奪われるけど
1545年関東管領上杉憲政と手を結んだ事で北条軍を撃破するんですよ!
1551年には興国寺城を奪われたけど奪還し黄瀬川を今川と北条の国境とする事にしましたw
西方の尾張では織田信秀の進出により圧迫を受けた西三河の松平氏の帰順を受けて
松平広忠嫡子竹千代(のちの徳川家康)を人質として迎え入れようとします!
でもその護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主戸田康光が裏切って
今川へ護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまっちゃうんです!
これは前年に義元自身が戸田一族である戸田宣成と戸田吉光を滅ぼしたんで
これに憤った戸田宗家当主だった康光が反乱を起こしたものだったんです!
逆に怒った義元は戸田宗家をも滅ぼしてその居城であった田原城に朝比奈氏を入れたんですw
竹千代の織田方護送の後も今川に恭順してた1549年松平広忠が死んじゃうと
松平氏の離反を防ぐため織田方の三河安祥城(愛知県安城市)を攻略し

織田信秀庶長子の城将織田信広を捕らえ人質交換で竹千代を奪還する事にしたんですw

これにより松平氏所領とその支配下にあった三河国人領主を直接支配下に組み入れ
駿河・遠江・三河3ヶ国に跨る勢力を築き上げ「海道一の弓取り」等と称されたんです!!
1554年嫡子氏真に北条氏康の娘(後の早川殿)を縁組みし武田氏・北条氏と互いに
婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)を結成したんですよ!
これにより東の憂いを断つと1551年信秀の死を受け動揺する織田氏に揺さぶりをかけて
尾張東部の知多郡・愛知郡に勢力を延ばし始めるんです……
1560年三河守に遷任しちゃいます!!
この年義元は2万5千の大軍を率いて尾張への侵攻を開始します!!!
この出兵について上洛説もあるけど2万5千程度では当時の今川家の軍事力を考えると
精々三河と尾張の攻略のみって意見が強いんです!
破竹の勢いで知多郡大高城(名古屋市緑区大高)周辺の諸砦を次々と落とすけど
永禄3年5月19日(1560年6月12日)彼自身の率いる本軍は大高城に向かう途上に
田楽狭間(現在の豊明市)で休息中織田信長の襲撃を受け義元は戦死しちゃいます…
これが世に言う「桶狭間の戦い」なんですよ……享年42歳……
法名は『天澤寺秀峯哲公』なんです…
義元の遺骸は首の無いまま家臣達によって国元に運ばれる途中で東三河で追撃にあい
一色城内の大聖寺境内(豊川市牛久保町)に亡骸を葬ったんです!
一方義元の首はその後信長から返され駿府天沢寺(静岡市 廃寺)に葬られた後に臨済寺に移されます…

義元討死によって三河で松平元康が再び自立し今川氏は衰退し始めるんです…
義元の後を継いだ嫡子氏真はこの8年後に武田信玄によって駿河を追われることになるんです…
義元は寸胴短足で馬に乗るのが出来なかったんで合戦の時も輿に乗り移動したと言われるけど
その記述がある資料は江戸時代中期に書かれた物で信憑性は極めて低いんです!!
また信長家臣太田牛一が記した信長公記には桶狭間山から退却する義元が
馬に乗ってたという事が書かれてあるんですよ!!
また義元が輿に乗ってたのは足利将軍家から特別に認められた栄誉(今川氏は足利氏一門)として
輿に乗れたのであって寸胴で足が短く馬に乗る事が出来なかったんじゃなかったんですw
公家文化に精通し戦乱で荒廃した京都を逃れた公家達を保護してたんですよ…
でも「お歯黒をつけ置眉や薄化粧をする」という話は後世の作話だって言う説もあります!!
また例え事実であってもそれは家格の高さを示すものであって弱々しい象徴じゃないんですw

『荒々しい武勇だけじゃなくて雅な感じぃがまるこは大好きですね!!』

今川 氏輝

イメージ 1

今川 氏輝は駿河今川家8代目当主

永正10年(1513年)今川氏親の嫡男として誕生w 駿河の戦国大名!!

弟に今川彦五郎・玄広恵探・今川義元等がいます!
父氏親の死で家督を継いだけどその時はまだ14歳という若さだったんです!

でも母寿桂尼の補佐を受けて彼自身も聡明だったんで

その政権基盤は無難にして磐石なものだったと言われているんですよ!

氏輝は家臣団編成で初めて「馬廻衆」を創設したり領国においての流通を重要視して

商人を積極的に保護したり等内政・軍事共に大きな結果を残してるんです!!

でも1536年5月17日三河侵攻の準備を整える最中24歳の若さで急死しちゃいます…

同じ日弟で二男彦五郎も死んでるんです…
この突然死は諸説があり一説では毒殺説も浮かんでます…

この2人の死は何を意味するかについて残された資料は無くって全くの謎なんです!

若くしてこの世を去った氏輝には後継ぎがいなかったんです……

この死が後に起こる今川義元とその兄玄広恵探による家督相続争い「花倉の乱」へと繋がるんですよ…

ちなみに母寿桂尼は聡明且つ猛女で自ら公的文書を発給する程で「女戦国大名」の異名を持ちます!

今川 氏親

イメージ 1

今川 氏親は駿河今川家7代目当主

文明5年(1473年)父今川義忠と母伊勢新九郎(後の北条早雲)の妹北川殿の間に誕生w

幼名は龍王丸で正室は中御門宣胤の娘寿桂尼です!

子に長男今川氏輝(8代目当主)・三男玄広恵深・五男今川義元(9代目当主)等がいますw

…なお誕生年は文明3年(1471年)説もあるんですよ!!
1476年4月6日に父義忠が遠江で一揆に襲われ戦死しちゃいます…家中に衝撃が走ります!!
この時龍王丸はまだ6歳と幼少だったんで一族の小鹿範満と当主の座を争うお家騒動が起こります!!

叔父伊勢新九郎(後の北条早雲)が仲裁に入り範光を龍王丸の後見人とするけど

龍王丸が15歳になっても範光は家督を譲る気配が無かったんで新九郎に彼を討たせます!

長享元年(1487年)11月9日伊勢新九郎は突然駿府館に攻め入り範満一門は自害します…

その功として新九郎に興国寺城を与え龍王丸自らは元服して氏親と名乗るんですw

この争いを「文明の内訌」と言いますw

内政では明応年間の頃から駿河国内で検地を始める一方外征では掛川城を拠点に遠江侵攻を進め

侵攻を正当化する為1508年には遠江守護職をもらい受け1517年についに完全平定に成功

三河甲斐にも兵を進め東三河にまで勢力を伸ばすんです!

伊豆堀越公方では内紛が起こり機に乗じた氏親は叔父伊勢新九郎に堀越御所攻略を命じるんです!

堀越一門を滅亡させた伊勢新九郎は韮山城を築き伊豆一円を手中にし

さらに小田原を攻めてついに相模国を制圧していくんです!!

また様々な産業の振興が挙げられるけど特に安倍金山の開発が代表的ですね!

それまでの金採取は砂金中心であったけどこの頃は金鉱石を坑道を穿ち採取する工法になり

金産出量が飛躍的に増えたんですね!!…この金が今川家隆盛の元になるんです!!
  氏親は薩摩島津家や甲斐武田家・越前朝倉家・周防大内家などと共に
  守護大名から戦国大名化を成功させた今川家の中興の祖なんです!!

そしてその具体化したのが1526年4月分国法「今川仮名目録33ヶ条」の制定ですw

この法典は後に武田信玄が作った「甲州法度之次第」に深い影響を与える等画期的なものでした!

でも2ヶ月後の大永6年6月23日(1526年8月1日)に没しちゃいます…享年53歳…

今川 義忠

イメージ 1

今川 義忠は駿河今川家6代当主

永享8年2月10日(1436年2月26日)に今川範忠の子として誕生します!!

正室は伊勢新九郎(後北条の祖北条早雲)の妹である北川殿です!

1454年享徳の乱に父範忠の名代として出陣しましたw

1461年駿河国守護職を継承します!

1467年から始まった応仁の乱では東軍に属して戦ったんです!!

その上洛中に北川殿と結婚したみたいですよw

義忠が上洛した時の大きな出来事は伊勢長九郎(北条早雲)の妹と結婚したことですねw

早雲の出自は諸説あるけど室町幕府役人の伊勢新九郎だっていう可能性が強いと思います!

義忠は隣国斯波義廉の守護国である遠江国に侵攻を開始しちゃうんです!!

その頃隣国遠江は斯波氏の支配下で斯波氏は越前・尾張・遠江三国の守護職で西軍に属してたんです!

斯波氏と戦火を交え戦局は今川軍の優位に進みました!!

1476年遠江国の国人横地四郎兵衛と勝間田修理亮が背いたんでこれを討っちゃいますw

その帰途1476年3月1日(文明8年2月6日)遠江国塩買坂で
横地氏と勝間田氏の残党に不意を襲われ義忠は流れ矢に当たって落命しちゃいます!享年41才…
今川家の家督はその嫡子今川氏親に受け継がれて行きますw

画像は正林寺所蔵の『義忠の木像』ですw

今川 範忠

イメージ 1

今川 範忠は駿河今川氏の第5代当主

室町時代中期の守護大名です

1408年(応永15年)に第4代当主今川範政の子として誕生w

官位は民部大輔・上総介です!!通称は今川彦五郎なんですw

最晩年の父範政が家督を末弟今川千代秋丸に譲ろうとしたんで

これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こっちゃいます!…兄チャンは黙ってません!!

1433年父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から幼年の千代秋丸より

成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた将軍足利義教の裁定により

家督を継いで当主となったんだけど実はこの時一部の反対派が蜂起したんですよ!

でもあっさりと義教の強い支持を背景としてこれを鎮圧してるんです!!

これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強くって永享の乱結城合戦では

常に幕府方として参戦し武功を挙げたんですよ!

この時将軍足利義教は「天下一苗字(今川姓は範忠の子々孫々のみ)」という変った戦功を与えたんです!

既に室町幕府の財政は傾いてたんですね…


1455年には将軍足利義政から古河公方足利成氏討伐を任じられてるけど

それは実現させることが出来なかったんです…

範忠自身が病に倒れてたんで領国を離れて遠征する事が出来なかった為とも言われてますw

1461年に53歳で死去(没年には異説がある)し後を子の今川義忠が継いだんです!

家督相続時に義教から大恩を受けたんで終始室町幕府に忠実で関東の監視役を務めてたんです!

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]


.

ブログバナー

まるこ
まるこ
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

歴 史!!!

標ブ

71♪

ブログのお勉強

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事