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父は第10代目藩主井上正和で母は高島藩主諏訪忠恕の娘サンで正順は長男ですw 文久2年(1862年)に父正和は江戸藩邸に藩校「学習館」を創設しますw 慶応3年(1867年)3月28日父正和の隠居により13歳で家督を継ぎます! でも父正和が後見となってくれてたんですよ! 奥サン(正室)は水戸藩主徳川斉昭の12女愛子サンです!! 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早々に新政府に恭順しちゃいますw 慶応4年(1868年)5月8日に従五位下・宮内少輔に叙任したんですよw 明治2年(1869年)6月24日に版籍奉還により高岡藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw 高岡藩は高岡県となり後に新治県を経て千葉県に編入されました! 明治4年(1871年)11月24日に東京にて父正和が享年38歳で死去します…明治8年(1875年)には警視庁に出仕し15等となります!!明治9年(1876年)には警部補となるんですよ! 2代将軍徳川秀忠と3代将軍徳川家光に仕えて大坂の陣をはじめとする様々な経緯で功績を挙げてった井上政重は御書院番士や大目付等を歴任して次第に加増を受け島原の乱でも戦後処理等で功を挙げたんで寛永17年(1640年)6月12日に6千石を加増されて1万石を領する大名として諸侯に列し高岡藩を立藩したんですwでも…当時は高岡に陣屋は築かれず江戸に定府してたんですよ!政重はその後もキリスト教徒の取締りのために宗門改役を設置したり長崎出島の交易制限を行なったり鎖国体制の確立に尽力したんですよ!!この功により寛永20年(1643年)5月23日さらに3千石を加増されます!政重は万治3年(1660年)7月9日に老衰を理由に家督を井上政清に譲って隠居したんですよ!ちなみに高岡藩は尾張藩と繋がりが深くて第6代目藩主政国は尾張藩主徳川宗勝の10男で第7代目藩主政紀は尾張藩付家老竹腰家当主勝起の次男なんですよ!
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幕末のお殿様
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幕末の藩主達
藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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幼名は「生次郎」で官位は従五位下・大和守なんですよ!! 万延元年(1860年)に父忠一が死去したんで僅か3歳で家督を継いで藩主となりますw でも…幼少なんで藩内が「佐幕派」と「尊王派」に分裂して抗争してたんですよ… 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争でも藩内はまとまらず抗争ばっかり… その上で新政府に恭順し木更津(請西藩)に出兵してます! 慶応4年(1868年)5月に従五位下・大和守に叙任するんですよ! 新たに『加知山藩』と改名したんですよ! 明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還により加知山藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月15日廃藩置県で免官されて加知山県知事となります!! 加知山藩は加知山県となり明治4年(1871年)11月の廃県で免職となったんです… 明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます! 天正18年(1590年)の小田原征伐で安房一国は里見義康に安堵されてました!慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも義康は東軍に与して所領を安堵されたけど慶長19年(1614年)に義康の子忠義は大久保長安事件で大久保忠隣の孫娘を正室としてたんで連座して改易され伯耆国倉吉藩に流罪となり居城の館山城も破却されちゃったんですよ…寛文8年(1668年)酒井忠国が叔父である若狭小浜藩主酒井忠直から1万石を分知され安房国勝山を居城にして安房勝山藩を立藩したんですよ!その後5千石加増と3千石の分知を経て石高1万2千石となったんです!!以後9代に渡って小浜雅楽頭系酒井氏(小浜藩)の支藩として存続し歴代藩主の多くが大番頭や大坂加番・奏者番等を歴任したんです!
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幼名は「三九郎」で官位は従五位下・佐渡守で正室は公卿慈光寺有仲(子爵)の娘サンですよw 元治元年8月20日(1864年9月20日)父忠美が享年45歳で死去しちゃいます…その後を受けて8歳で家督を継ぎ第8代目(最後)の藩主となるんですよw慶応4年(1868年)2月には戊辰戦争も新政府側が優位となり新政府に恭順しますw 慶応4年(1868年)4月に大鳥圭介率いる旧幕府軍や副長土方歳三率いる新撰組が 新政府側の宇都宮藩へ侵攻し激戦の宇都宮城攻防戦が起ると援軍116名を派遣します! その後奥羽征伐のため東北に出兵もしたんですよ! 明治2年(1869年)6月19日の版籍奉還により12歳で烏山藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で14歳で烏山県知事となります!! 烏山藩は烏山県となり明治4年(1871年)11月に宇都宮県に編入されましたw その後免官されて東京へ引越してますw 享保10年(1725年)10月18日若年寄大久保常春が2万石で入府したのが始まりです!後に常春は老中に栄進したんで役料としてさらに1万石を加増されました!初代藩主常春は領民と家臣に対して法律を制定する事で藩政を固めたんですよ!!第3代目藩主忠卿の治世末期から農村荒廃化や財政難が深刻化し第4代目藩主忠喜は倹約令・荒地改め等による藩政改革を行なったけど効果は無かったんです…第5代目藩主忠成も農村支配の強化・結婚奨励政策等による「厳法」と言われる藩政改革に着手したけどやっぱり効果は無かったんです…第6代目藩主忠保は『菅谷八郎右衛門』を家老に登用し更に『二宮尊徳』から報徳仕法等を学ぶ事で藩政改革を目指したんだけどこの改革には反対する者が多くって菅谷は失脚して領外追放されちゃって結局挫折しちゃうんです…幕末期は藩の領内が荒廃して確立していなかった事等もあってあんまし目立ったことはなんにも無かったんです…
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菅沼定長は幕末の三河国新城藩の第13代目(最後)の藩主でも…新城村は旗本(交代寄合)菅沼左近将監の所領なんですよ…「藩」の呼称が確立したのは…江戸時代最末期なんですよ!!だけど…実質…菅沼家あくまで旗本(交代寄合)であって大名じゃないんですよ!弘化4年(1847年)に老中である鯖江藩主間部詮勝の6男として誕生しますw文久2年(1862年)7月14日旗本菅沼定信の養子となり15歳で家督を継ぎます! 幕末期の混乱の中で大番頭・大坂城在番・海軍奉行並等の重職を歴任しますw 帰国後は武装解除をし新政府軍に恭順するんですよw 明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還で領地を奉還し新政府に改めて恭順します!! その後新政府に出仕し下中大夫・触頭・上局会議総代等を勤めます! 明治17年(1884年)7月8日の華族令施行で菅沼家は結局華族にはなれませんでした… 菅沼家あくまで旗本(交代寄合)であって大名じゃないんですよ! 菅沼家は土岐氏の庶流であると言われてていくつかの勢力が三河を本拠にしてたけどそのうち野田菅沼家が松平家(後の徳川家)に仕えて大名となったんです!慶安元年(1648年)に丹波亀山藩より菅沼定実が新城に入りますw菅沼家は丹波国亀山藩4万石を領してたけど菅沼定昭に跡嗣ぎがないまま早世しちゃったんで本来なら「無嗣断絶」となる筈だったけど菅沼家祖菅沼定盈の功績などを考慮した幕府は特別の計らいで定昭の弟定実に7千石・同じく弟定賞に3千石を与えて菅沼氏の家名存続と定実の【交代寄合としての大名待遇を許し家格を手に入れたんだけど結局は大名とはなれなかったんです…】
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幼名は「吉太郎」で正室は大多喜藩主松平正和の3女瑛子サンですw 慶応3年(1867年)4月4日に16歳で出羽守に叙任し江戸城大手門番を務めます!! 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府に恭順したんですよ! 慶応4年(1868年)7月に徳川宗家の徳川家達が駿河に移封になったんで その代わりに上総国菊間藩に同石高で移封となるんですよ! 明治2年(1869年)3月4日に羽後守に転任しますw 明治2年(1869年)6月19日の版籍奉還により18歳で菊間藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw 明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により子爵に叙されます! 明治40年(1907年)8月17日に東京にて享年57歳で死去してます…戒名は「興徳院」で墓所は東京都文京区小石川の伝通院内真珠院です…沼津城に初めて本拠を置いた近世大名は小田原藩主大久保相模守忠隣の叔父に当たる治右衛門忠佐です!忠佐は慶長6年(1601年)の入封からわずか12年後の慶長18年(1613年)に死去し嫡子因幡守忠兼も同じ年に父忠佐に先立って死去しちゃったんで無嗣断絶で改易となりました…そのため大きな事跡は残されてないんですよ…その後に沼津の地は駿河国府中藩が置かれた時はその領地となりそれ以外の時期は幕府領(天領)となり沼津城自体も破却されちゃったんです…沼津に再び大名の本拠が置かれたのは安永6年(1777年)水野出羽守忠友が三河国大浜藩より転封してきた時です!!忠友は享保10年(1725年)に殿中刃傷により改易となった松本藩主水野隼人正忠恒の従兄弟なんですよ!寛保2年(1742年)に忠恒の名跡を継いだ父出羽守忠穀の跡を継ぎ明和5年(1768年)に加増により大浜で1万3千石を領して大名に復帰して沼津転封後幕府の命により再び当地に築城したんですよ!
第2代目藩主忠成は徳川家斉時代に老中として権勢を奮い賄賂で有名な『田沼意次』以上に賄賂を横行させる「賄賂政治」を行なった人物として有名なんです!!そのため第3代目忠義や第4代目忠武は“天保の改革”を行なった老中水野忠邦から徳川家斉派に対する粛清として様々な普請を負担するという報復を受けちゃったんですよ…第6代目忠寛は大老井伊直弼に同調して側用人として権勢を奮ったんです!第7代目忠誠は佐幕派として功を挙げたんですよw |



