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幼名は「鈴次郎」で大垣新田藩の第7代目藩主戸田氏綏の養子となります! 安政2年(1855年)5月に養父氏綏の隠居により16歳で家督を継ぎます! 従五位下・淡路守に叙位任官されましたw 奥サン(正室)は二本松藩主丹羽長富の娘サンなんですよ! 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順して北越に出兵したんです! でも…あくまで大垣新田藩は大垣藩の支藩なんですよね… そんでもって藩内情を大垣本家に頼りきってたんですよ……だから…… 明治2年(1869年)の版籍奉還では藩知事に任命されなかったんですよ…明治2年(1869年)5月27日に藩庁を美濃大野郡野村に移して「野村藩」と改称します!!その上で必死になって所領引渡し等の政治工作を行なっちゃたんですよ!! 明治2年(1869年)10月22日に氏良はついに30歳で野村藩知事に任命されたんですw 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw その後には正五位に昇叙されたんですよw 短歌に優れた歌人でもあり「明治勅題歌集」54巻や「増補勅題歌集」47巻に氏良の歌が収録されてます!
大垣新田藩は大垣藩の支藩です!戸田氏鉄の次男氏経は三河国渥美郡内に15百石・次いで22百石に加増されましたw明暦元年(1655年)氏経は兄氏信から4千石を加増されて62百石の知行を得たんですよ!!その後を戸田氏利が継ぎ元禄元年(1688年)7月に氏利の後を継いだ戸田氏成の時に兄氏定から3千石を分与されさらに養父氏利の所領を合わせて1万石となったんでここに「大垣新田藩」が立藩したんですよ!藩領は三河国内に6千石と美濃国内に4千石です!でも戸田氏は元禄14年(1701年)の有名な浅野長矩の事件に連座して出仕を止められちゃったりもしたんですよ…
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幕末のお殿様
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幕末の藩主達
藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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幼名は「恭之進」でお母サンは側室で第12代目堀直武や第13代目堀直虎の異母弟なんですよ! 慶応4年(1868年)1月に異母兄である第13代目堀直虎は家老ら41人を粛清し藩政を 大きく改革して洋式軍制を導入したりして幕末の真っ只中にいて幕府内では大番頭等を経て 若年寄兼外国総奉行に任じられてます! 慶応4年(1868年)1月17日に異母兄堀直虎が15代徳川慶喜に「徹底抗戦すべし!」という自分の意見が聞き入られなかったんで江戸城内で自害しちゃうんですよ…享年33歳でした…幕臣勝海舟等は直虎が乱心して自害したとしてるんですよ…その後を受けて慶応4年(1868年)5月24日に急遽直虎の養子として後を継いだんです! 官位は従五位下・長門守で奥サン(正室)は交代寄合表御礼衆山名義問の娘喬子サンですw 家督を相続した直明は故異母兄直虎とは180度藩の方針を転換したんですよ!! 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府に与して会津藩に出兵したんですよ! 長野県内の諸藩では飛び抜けた数の藩兵を送り込み『恭順』をアピールしたんです! 明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還により30歳で須坂藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw 須坂藩は須坂県となり明治4年(1871年)11月には須坂県は長野県に編入されますw 明治10年(1877年)2月13日に元々の姓である「奥田姓」に復姓したんですよw明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により子爵に叙されます!明治19年(1886年)9月18日に東京にて享年48歳で死去してます…墓所は東京都台東区の谷中墓地にあります…また須坂藩堀家の菩提寺臥龍山興国寺は須坂市内にあるんですよ! 須坂藩の藩祖は堀直政の4男堀直重です!この堀氏は堀家家老だった奥田直政に「堀姓」を与えた事が起源で豊臣秀吉の重臣だった堀秀政の直系子孫じゃないんですよ!堀直重は早くから徳川家に近づき2代将軍徳川秀忠に献身的に仕えたんで“外様大名”でありながら“譜代大名”に準じる待遇を求めたけど幕府に受け入れられなかったんです…でも後に『願い譜代』といって外様大名が親藩や譜代大名との養子縁組や婚姻をする事により譜代扱いとなる制度を利用したんですよ!!歴代藩主の多くが大番頭や大坂・駿府・二条の加番(城代)とか伏見奉行等の職を歴任してるんですよ!
ちなみに…故田中角栄元内閣総理大臣の自宅〜通称「目白御殿」は須坂藩の江戸屋敷跡に建てられたものなんでその建築時に故田中角栄元首相が旧藩主が祭られてる奥田神社に参拝に訪れてるんですよ! |
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奥サン(正室)は松原氏でもうひとりの奥サン(継室)は宇土藩主細川行芬の娘サンですw 官位は従五位下・内膳正なんですよw 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争で先代藩主勝己は奥羽列藩同盟に参加します! そんで新政府軍の猛攻を受けて無条件降伏しちゃいます… 藩内では勤王論が起こり奥羽鎮撫総督参謀少将醍醐忠敬が入城し奥羽軍事局を設置しますw 明治元年(1868年)先代藩主勝己の強制隠居に伴い29歳で藩主に就任しますw 明治2年(1869年)には三河国重原藩2万8千石に移封されちゃいます… 明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還により30歳で重原藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw 重原藩は重原県となりわずか2年で重原藩は消滅しちゃいました… 明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により子爵に叙されます! 第13代目藩主勝顕の3男勝英を養子にし隠居しますw 明治44年(1911年)に先だって養子勝英が死去します…そんで家督は実子である長男勝憲が継いだんです!!大正2年(1913年)7月1日に東京にて享年74歳で死去してます…大正13年(1924年)11月に養父勝己が東京にて享年73歳で死去してます…福島城はかつて「杉目城」と呼ばれてて陸奥の戦国大名伊達晴宗(伊達政宗の祖父)が息子輝宗(伊達政宗の実父)との家督争いに敗れてこの城で隠居生活を送って以来伊達家の支城として機能してたけど葛西・大崎一揆後に伊達政宗が旧葛西・大崎領に転封となり皮肉にもこの一揆の責任を問われて所領を没収された旧葛西・大崎領主木村吉清が福島の新領主となった蒲生氏郷の城代としてこの地に入ったんです!吉清は新しく福島城と城下町を建設してますwその後吉清は再び大名に取り立てられたけど程なく死去しちゃいます…蒲生氏も転封となり代わりに入った上杉景勝によって水原親憲・本庄繁長が城代に任じられたんです!!その上杉家も関ヶ原の戦いに敗れて減封となり福島城を没収されました…その後は譜代大名である本多家⇒堀田家⇒板倉氏の3家が藩主となったんです!
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江戸下谷邸で生まれ幼名は「程之助」なんですよ! 文久2年(1862年)閏8月に第8代目藩主黒田直和の養子となるんですw 慶応元年(1865年)12月には従五位下・筑後守に叙位任官します!! 慶応2年(1866年)4月2日に養父直和が病気で隠居したんで17歳で家督を継ぎます! 奥サン(正室)は村松藩主堀直央の娘清子サンなんですよw 慶応4年(1868年)2月に第15代将軍徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎した時に 高田藩主榊原政敬と一緒にその警護を務めたんですよ! 慶応4年(1868年)閏4月には一切の武装を解除し新政府に恭順しました! 明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還により20歳で久留里藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw 久留里藩は久留里県を経て木更津県にその後千葉県に編入されました! 明治10年(1877年)6月2日に隠居し養子和志に譲りますw 明治11年(1878年)6月10日に別家を立て晩年は久留里で余生を送ってますw 明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により養子和志は子爵に叙されます! 大正8年(1919年)11月29日に久留里にて享年71歳で死去してます…戒名は「隆祥院殿徳誠知見直養大居士」で墓所は千葉県君津市久留里の真勝寺です…ちなみに…この久留里藩黒田家は黒田如水・長政父子で有名な福岡藩黒田家とは別の一族なんです!初代藩主直純は土屋氏改易の時に廃城となってた久留里城の再建や新規の家臣召し抱えとか城下町整備など藩政の基盤固めに尽力し大坂加番や奏者番などを歴任したんですよ!!でも…第3代目藩主直英の頃から藩財政の困窮化が深刻となっちゃいこのために倹約や俸禄制度改革・三割の法制定等による藩政改革が行なわれたけど効果は無かったんです…第7代目藩主直静の時に藩校「三近塾」が創設されましたwでも…幕末期は相次ぐ異国船の出没に備えての海防や歴代藩主の多くが大坂加番に任じられてたんで出費が著しく財政は悪化の一途をたどっちゃいます…ちなみに明治末期に旧藩主黒田家の依頼によって家老の一族森勝蔵によって藩史が編纂されました!『久留里藩制一班』『雨城廼一滴』がその書物で譜代小藩の内政が細かく記されてる貴重な郷土資料となってます!この旧家老森氏は初代久留里藩主黒田直純が下館城主だった時代から仕える黒田家の重臣中の重臣でその祖は津山藩主森家に由来する名門一族でなんですよ!
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万延2年(1861年)2月14日に第9代目藩主で隠居中の堀直央の3男として誕生w 正室は公卿澤宣嘉の娘サンで継室は武田利安の娘サンで官位は従五位下ですw 従姉妹の旦那は三日市藩主柳沢徳忠なんですよ! 文久元年3月6日(1861年4月15日)に父直央が享年64歳で死去します…万延元年(1860年)7月12日に次兄である第10代目藩主直休が既に享年24歳で死去…そんな訳でこの頃家督は次兄直休の養子直賀が継いでたんですよ!!村松藩内では尊王論が台頭し「尊王攘夷派」と「軍制改革派」と「保守派」が対立してたんです… 慶応2年(1866年)11月には『村松七士事件』が起こって藩内は大混乱を極めました… 『村松七士事件』とは尊王攘夷派7名を保守派が処刑しちゃった事件なんですよ! 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では第11代目藩主直賀が奥羽越列藩同盟に参加します! そんで新政府を支持する「正義党」の近藤安五郎一派と対立してたんですよ!! 第11代目藩主直賀は保守的な佐幕派の中心人物だったんですよ! 第11代目藩主直賀は新政府軍と激戦の末に大敗し米沢藩に逃げちゃうんですよ… そんで正義党から新藩主として7歳で擁立されたんです!…まさに傀儡だったんです… でもこの直後に村松藩は新政府軍に全面無条件降伏して所領安堵されたんです! 明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還により8歳で村松藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw 村松藩は村松県となり同年末には新潟県に吸収されたんですよw 村松藩は寛永16年(1639年)堀直寄の次男直時が安田3万石を与えられたことから始まるんですよw寛永21年(1644年)5月直時の子直吉の時代に領地替えが行なわれて陣屋を安田から村松に移したことから正式な「村松藩」が始まったんです!!村松藩はその所領の大半が山間地だったんで新田開発を行っても石高の伸びは少なくて貞享4年(1687年)頃の実質的な石高は4万石だったんです…第2代目藩主直吉は領内に検地を実施して藩政支配を確立したんです!でも…直吉の死後から財政悪化が表面化してったんでしばしば藩政改革が行なわれたけど殆ど効果は無かったんですよ…
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