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天保12年(1841年)4月25日に薩摩藩島津久光の次男として重富館で誕生しますw お母サンは島津千百子で兄弟に最後の鹿児島藩主島津忠義がいます! 嘉永5年(1852年)閏4月に11歳で宮之城家14代当主島津久宝の養嗣子となります! 嘉永5年(1852年)3月に家督相続し養父久宝の娘サンと結婚するんです! 文政2年(1855年)に薩摩藩海防総頭取に任命され薩摩藩の沿岸防衛の要を勤めます!! 文久3年(1863年)薩英戦争が勃発し兄忠義の代理として薩摩藩海軍の指揮を執ります! 元治元年(1864年)蛤御門の変でも兄忠義の名代として皇居警衛総督を勤めますw 元治元年(1864年)12月には薩英戦争講和使節代表となり長崎を訪問してますw 慶応2年(1866年)に25歳で薩摩藩家老となるんですよ!! 歳は若かったけど次々と要職を勤めたのは「久光の次男」で「藩主忠義の実弟」という血統が物を言ったんだと思います…まさに「親」ならぬ「身内の七光り」ですねw
でも…この頃の薩摩藩内では倒幕派が主流となってて実父久光と共に公武合体派の論調を 取っていた久治は窮地に立たされちゃうんですよ… 慶長3年(1867年)には小松帯刀・桂久武らの強硬論に対し慎重論を唱えただ一人反論!! 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では宮之城領4番隊を会津藩攻撃に向かわせます! でも…久治本人は参加しなかったんですよ…基本的に戦争反対だったんですw だけどこれが若い藩士からは「軟弱行為」と映っちゃいます… そんで藩士川村純義らに藩主忠義の目前で詰問されると言う屈辱的な目に遭うんです… 明治2年(1867年)2月には薩摩藩家老を辞職します… 明治2年(1867年)8月私領1万6千石を薩摩藩に返上しちゃうんです… 代わりに家禄1500石を賜るんですよ… その後は国政・藩政には一切関わらず以前より関心のあった教育事業に参加しますw 明治4年(1871年)所領だった吉野村(現鹿児島市吉野町)に第12郷校が建設されると 校舎の建設資材の提供等を積極的に行ったりしたんですよw 明治4年(1871年)に待望の嫡男長丸が誕生しますw 明治5年(1872年)1月4日に宮之城にて享年32歳で急死します…島津家に代々伝わる公式系図等では急病が原因としてるけどその頃に書かれた西郷隆盛が大久保利通宛に書いた書簡では【自殺】と明言されてるんですよ… 薩摩藩家老辞職の時より孤立感から“鬱”っぽくなってて実父久光も気遣ってたんです… 墓所は歴代宮之城家墓所である宗功寺じゃなくて鹿児島市の天神山墓地です… 嫡男長丸はその後薩摩藩主島津斉彬の孫娘島津ハルサンと結婚しますw
明治20年(1887年)12月6日に東京にて実父久光が享年70歳で死去します…明治30年(1897年)3月に嫡男長丸は男爵となったんですよ!明治30年(1897年)12月26日に東京にて実兄忠義が享年58歳で死去します…宮之城島津家の祖は島津忠長ですw島津義久・義弘兄弟の従兄弟に当たるんです!慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は島津家の代表として徳川家康と直接交渉に当たったんですよ! |
幕末のお殿様
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幕末の藩主達
藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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幼名は「元次郎」なんですよ! 武雄領は表高2万1600石(実高86百石)で佐賀藩の自治領的な存在なんです!!でも…実高が1万石を割ってたんで実際は「藩」ではなかったんです!天保10年(1839年)に7歳で武雄領主の家督を相続しますw嘉永6年(1853年)及び嘉永7年(1854年)にロシアのプチャーチンが長崎に 来航した際は長崎警護のため長崎に軍を率いて行ってます! 安政2年(1855年)に日英和親条約を結んだばかりのイギリスのスターリングが 長崎に再び来航した時も長崎警護のため長崎に行ってるんですよ! 安政6年(1859年)に佐賀藩の請役(執政職)に就任します!! 文久2年(1863年)11月27日に父茂義が享年63歳で死去します…元治元年(1864年)蛤御門の変に際し佐賀藩兵百人を率いて上洛します!!元治2年(1865年)には請役を33歳で辞任しちゃいます… 慶応2年(1866年)再び佐賀藩の請役に就任します! 慶応2年(1866年)11月以降に約6万両という大金を歳出してスペンサー銃6百挺や アームストロング砲10門といった大量の最新式兵器を外国から購入し武雄領兵の軍備を 日本でも当時最強のものとしていったです!! 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では4大隊839人を率いて出征します! スペンサー銃も全員に配給する重装備で窮地に陥ってた秋田藩を救援します! そんで奥羽越列藩同盟の精鋭庄内藩に勝利する等多くの勲功を挙げるんです! 明治元年(1868年)11月12日酒田⇒山形⇒福島を経て東京に到着w 明治元年(1868年)11月25日武雄に凱旋しますw その勲功を称え新政府より金5千両を下賜されてますw 維新後も佐賀藩請役の地位にあったけど藩政大改革を推進すべきとの藩内文政派の意見に 反対して結局は請役を辞しちゃいます… 明治2年(1869年)佐賀から武雄に退去してるんですよ… 明治3年(1870年)に新政府より上京を命ぜられます! そんで兵部省で陸軍兵部大輔(陸軍少将)に就くのを勧められたんです!!でも…「西郷隆盛が陸軍大将で自分が陸軍少将では嫌だ!!」という理由で辞退して武雄に戻るんですよ!
明治4年(1871年)にも佐賀藩主鍋島直大から任官を強く勧められるけど 固辞して武雄に戻り以後武雄で生涯を送るんです… 明治7年(1874年)2月に江藤新平や島義勇(茂昌の従兄弟)を中心に 佐賀県士族が【佐賀の乱】を起こしちゃうんですよ! 実際のとこ乱発生前には茂昌に対しても協力要請がなされてたんですよ… でも武雄出身の外務少輔山口尚芳の助言で慎重な姿勢を崩さず加担を断ります! 反乱軍から戦闘に加わらなければ攻撃すると脅され渋々64名を反乱軍に派遣… 一方で長崎に家臣を派遣して旧大村藩・長崎県参事・司法省検事等に対して乱に 積極的に加担した訳じゃない事を説明しこれ以上加担しないと約束します! 反乱の鎮圧後に謝罪文を提出し佐賀裁判所の尋問を受けてます… その後もさまざまな取調べを受けたけど… 『逆徒に脅迫されその暴動を受ける事を恐れ一同協議の上一時出兵したけど新政府軍に抵抗する事は一切なくついに賊軍を脱出し全くこれに与した事実が無かった』事で非常の特典として罪を免ぜられたんです!
その後は武雄で悠々自適に過ごしてたんですよw 明治10年(1877年)に西南戦争が勃発してますw 明治27年(1894年)に日清戦争が勃発してます! 明治30年(1897年)初めて洋装をして明治天皇に30年ぶりに拝謁しますw その際に明治維新時の勲功をもって男爵の地位を授けられたんです! 明治31年(1898年)に「男爵鍋島茂昌火薬密蔵事件」が起こってます… この事件はは佐賀の乱の後に新政府から疑われないよう隠して埋めた武器とか |
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長男(庶長子)として誕生し幼名は「倫三郎」なんですよ! 嘉永7年(1854年)閏7月25日父正身の隠居で15歳で家督を継ぎますw 嘉永7年(1854年)12月に従五位下・因幡守に叙位・任官します! 奥サン(正室)は福江藩主五島盛成の4女朝子サンですw 安政6年(1859年)8月に竹橋門番に任じられます! 安政6年(1859年)12月に江戸城本丸普請を担当してます! 後に日光祭礼奉行代にも任じられてるんですよ! 元治元年(1864年)7月に駿河守に遷任しますw 慶応4年(1868年)の戊辰戦争で旧幕府軍脱走兵で構成された徳川義軍府に援軍を送ります!! でも…藩内は新政府への恭順派と抗戦派が対立してました! そんで反対してた恭順派家老を粛清する等して新政府と敵対します! でも激戦の末に敗退して新政府軍に武器弾薬を差し出して降伏し恭順します… その上で勝隆寺(現千葉県富津市佐貫)で謹慎を命じられたんです… この時に父正身も新政府より謹慎を命じられたんですよ!! その間佐貫藩領の全ては佐倉藩預かりとなり領地1万6千石を失うんですよ… 慶応4年(1868年)7月11日父正身が花ヶ谷村の円龍寺で過労の為享年51歳で死去します…明治元年(1868年)10月に新政府より罪を許されてますwこれにより佐貫藩領1万6千石を回復したんですよ! 明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で佐貫藩知事となります!! 明治4年(1871年)5月に佐貫城は廃城となってます… 明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免官されて東京へ引越しますw これにより佐貫藩は佐貫県となってます! 明治4年(1871年)11月佐貫県は木更津県となり後に千葉県に編入されます! 明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます! |
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幼名は「錦丸」でお母サンは府中藩主松平頼説の娘サンなんですよw 嘉永5年(1852年)父親道の隠居により23歳で家督を継ぎます! 官位は従五位(後に正五位⇒従四位)・式部少輔なんですw 奥サン(正室)は飫肥藩主伊東祐相の娘サンですw 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早い段階で新政府に恭順します! 慶応4年(1868年)5月上野戦争の時に市内各所を警衛します!! その後江戸城諸門警衛を行い東北にも出兵してますw 慶応4年(1868年)7月14日に新政府により高直しが行なわれてます!! それ迄の8千石に2110石の加増をされます! その結果1万110石の大名に取り立てられて「志筑藩」を立藩するんです! 明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で志筑藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で藩知事を免官されちゃうけど 引続き志筑県知事となるんですよw この間に旧志筑藩士を樺太開拓事業に当たらせてるんですよ! 明治4年(1871年)11月に県知事を免官され東京へ引越しますw 明治7年(1874年)10月21日に義父伊東祐相が享年63歳で死去します…明治17年(1884年)の華族令施行により男爵に叙されます!明治28年(1895年)3月5日に東京にて享年67歳で死去します…墓所は茨城県かすみがうら市志筑の長興寺です…戒名は「親巌憲章泰徳院大居士」です… 本堂家は元々出羽の土豪で天正18年(1590年)2月からの小田原征伐に参陣し豊臣秀吉から8千余石を安堵され慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは徳川方に与し領知を安堵されたんですよ!慶長7年(1602年)佐竹氏の出羽久保田藩減移封に伴い出羽国(秋田県美郷町)より志筑へ移封になった本堂茂親が8千石で志筑領主(交代寄合)となって正保2年(1645年)陣屋を構えて廃藩置県まで本堂家10代が治めたんです!!また幕末の動乱期に活躍する新撰組隊士で後の御陵衛士伊東甲子太郎(鈴木大蔵)・鈴木三樹三郎兄弟は志筑藩の脱藩者なんですよ!
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幼名を「金丸」と言い初名は「貞邦」でお母サンは教善院サンなんですよw 元治元年(1864年)天狗党の乱で父貞利は幕府軍として鎮圧に努めます!! 元治元年(1864年)11月1日に父貞利は大坂城代に任じられます! 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争で父貞利は大坂城代だったこともあって 旧幕府方として参戦してたんですよ! その緒戦である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に大敗しちゃいます… そんで大阪城にいた徳川慶喜が海路から江戸に逃亡しちゃうんですよ… それを知って父貞利も家臣3人だけを連れて陸路で江戸へ逃亡します… 江戸に到着した時は散々な状態で醜態をさらしちゃってます… 慶応4年(1868年)1月20日に父貞利は大坂城代を辞任します… ちなみに…この頃藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争してたんですよ… 慶応4年(1868年)4月8日に結局は新政府に恭順します! そんで新政府軍に属して宇都宮藩に対して父貞利は出兵してるんですよ!! また会津藩攻撃に加わり戦後に賞典禄も受けてるんですよ! 明治元年(1868年)12月5日に父貞利が37歳で隠居します! その後を受けて11歳で家督を継ぎ従五位に叙されます! 奥サン(正室)は長岡藩主牧野忠恭の娘美子サンなんですよ! 家督相続後は戊辰戦争の戦後処理や奥サンの実家長岡本藩牧野家の再興を新政府に 嘆願してりと忙しい毎日を送ってたんですよ!クドいですけど11歳ですよ! 明治2年(1869年)6月19日版籍奉還で笠間藩知事に任じられます! 明治2年(1869年)8月5日に「貞邦」から「貞寧」と改名しますw この時に父貞利も「貞利」から「貞直」に改名してるんですよ! 明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免職されて東京へ引越しますw その後は慶応義塾(現慶応義塾大学)に入って勉学に励んだんです! 後に笠間小学校開校に尽力し学生育成の為の育英会創立にも務めてますw 明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます! 明治の元勲大久保利通の次男(牧野伸顕)を養子に迎えます! 養子伸顕は分家したんだけど明治天皇の信任厚く伯爵となってます! 明治20年(1887年)1月13日に父貞直が東京にて享年66歳で死去します…明治44年(1911年)7月12日に貴族院議員になります!大正5年(1916年)12月24日に東京にて享年60歳で死去します…墓所は東京都墨田区千歳の要津寺で戒名は「本光院殿寧山瑞如大居士」です…長岡藩牧野家家老河井継之助が慶応元年(1865年)に長岡藩江戸藩邸で長岡藩主牧野忠恭と笠間藩主牧野貞直の会談に着座してました!父貞直に家老河井が不敬になる出過ぎた発言をしちゃったんで謹慎処分を受け在所(国元)に帰される事件も起きてます!! |



