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奥サン(正室)は大聖寺藩主前田利之の3女建子サンですw 天保13年(1842年)6月17日に壱岐守に遷任します! 嘉永元年(1848年)に奏者番に任じられてるんですよ!! 嘉永7年(1854年)1月には周防守に遷任しますw 文久2年(1862年)3月に更に肥前守に遷任しちゃってます! 藩政では困窮者救済の為に米を与えたりしてるんですよ! また学問を奨励して藩校「修来館」を創設もしてるんですw 意外と【名君】だったんですw 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早くから新政府に恭順します! 慶応4年(1868年)4月…鶴牧藩内の市原郡五井村で五井村戦争が勃発します!! 明治元年(1868年)10月この不手際で領地換えの処分を受けます… 新政府に安房国長狭や上総国夷隅・市原・埴生・長柄・山辺等の所領を上知され 代りに上総国市原・望陀両郡に新たな所領を与えられたんですよ! 明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で鶴牧藩知事となります!! そんで忠順は官制・軍制改革を主とした藩政改革を行なったんです! 明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免官されて東京へ引越しますw 鶴牧藩は鶴牧県となり後に千葉県に編入されたんです! |
幕末のお殿様
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幕末の藩主達
藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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天保8年(1837年)大塩平八郎の乱で父康禎は藩兵を摂津・丹波に派遣してます! 弘化4年(1847年)4月13日父康禎は長兄康融に家督を譲って隠居します! 弘化5年(1848年)10月に父康禎は享年62歳で死去します…安政3年(1856年)4月7日に長兄康融が隠居したんで23歳で家督を継ぎますwでも段々と勢力を増してきた尊王派と佐幕派が藩の主導権をめぐって争います! 文久2年(1863年)14代将軍徳川家茂の膳所宿泊が中止になる程だったんです… 慶応元年(1865年)再び佐幕派が力を盛り返し尊王派11名を処刑します… 処刑された尊王派11名は【11烈士】として安昌寺に祀られてます! 慶応3年(1867年)11月9日に15代将軍徳川慶喜が大政奉還をしますw 佐幕派の川瀬太平が尊王派に殺され尊王派が力を盛り返してます! 慶応3年(1867年)12月9日王政復古の大号令が発せられます! これを受けて早々に新政府に恭順し京都市中取締を務めます!! 慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦い後に桑名藩征伐に出兵します! 明治元年(1868年)には越後国に出兵します! 明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で膳所藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免官されて東京へ引越しますw 膳所藩は膳所県となり大津県を経て滋賀県に編入されたんです! 明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます! 慶安4年(1651年)4月4日に本多俊次が7万石で膳所に入封します!そんで初代藩主俊次から第3代目藩主康慶の頃にかけて瀬田川の治水工事・新田開発・窮民に対する福祉政策や防火対策・京都警備対策等の諸改革が行なわれて藩政は安定したんです!!でも江戸時代中期頃から藩財政が窮乏化したんで第9代目藩主康匡は中根善右衛門を登用して財政改革を主とした藩政改革を断行したんです!だけどこの改革が領民に御用銀を賦課するというものだったんで天明元年(1781年)に改革に反対する「百姓一揆」や「打ちこわし」「強訴」が起こり年末にも打ちこわしが発生しちゃうんですよ…おまけに藩主の康匡が年末に死去したんで改革は完全な失敗に終わります…そんな藩財政破綻の状態で幕末に向うんです… |
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幼名は「将一郎」なんですよw お母サンは留守伊豫子(仙台藩執政中村日向義景の娘サン)なんですよw 安政5年(1859年)水沢大火の時に被災者の為に非常時用の備蓄食料を配り 藩の山林を伐採して町民の住宅建築に充てたんですよ! また家臣に倹約を奨励して町の復興を図ったりもしたんですw 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では仙台宗藩と共に行動しますw 奥羽列藩同盟にも参加してるんですよ!! 明治元年(1868年)6月には白河口に仙台藩主名代として出陣します! そんで新政府軍と激戦を繰り広げ大敗を帰すんですよ… その後仙台藩は新政府軍に無条件降伏するんですよ… これを受けて邦寧も武装解除し新政府に降伏し恭順します… 戦後1万6千石の禄高を没収され家臣の士分を剥奪されちゃいます…侍じゃなくなった家臣達は帰農を命ぜられたけど邦直は彼等が路頭に迷う事を憂い私財を処分して得た資金で新政府の推し進めてた北海道開拓を志願するんですよ!! 明治4年(1871年)廃藩置県で水沢藩は廃藩となり胆沢県が設置されます… 権知事以下の役人全てが中央から派遣されて来たんですよ… 北海道札幌郡平岸村(現北海道札幌市豊平区平岸)に入植し開拓にあたります!! そんで何もない原野を切り開き厳冬を耐え抜きながら開拓を続けたんですよ! 明治7年(1874年)心労が崇り入植先にて享年44歳で死去します…旧岩出山藩・旧亘理藩と違い留守家(水沢伊達家)は爵位を受けてないんですよ…水沢城は元は葛西氏家臣柏山氏の支城だったとされてます!一国一城制以後は要害に格下げられてたけど仙台藩家中では「城」と呼ばれてたんです!!伊達政宗の仙台移封後に白石宗実や石母田宗頼らが代官を務めてました!寛永6年(1629年)政宗の従兄弟に当たる金ヶ崎城主留守宗利が水沢城主として配されたのが始まりですw宗利は父政景と共に【伊達氏】を名乗る事を許されてたんでこの系統を「水沢伊達氏」とも呼びます!当初石高は1万石だったけど新田開発等の成果で6千石の増加となるんですwまた仙台宗藩からの養子伊達村任(後の村和)当主時代には5千石が加増されてたけど水沢藩成立時に当主の家系が宗家以外の系統に移ったんで元の1万6千石に戻されちゃいます…以後1万6千石のまま明治維新を迎えたんです!!元々正式な大名じゃなかったけど江戸時代を通じて約1万6千万石の石高を有した留守家(水沢伊達家)の家中や領内を俗称として「水沢藩」と呼ぶ場合もあるんです!!後に水沢藩から高野長英・後藤新平・斎藤實等の優秀な人材を輩出したんですw こちらは入植先である北海道札幌市豊平区役所のホームページですw ⇒ ここ!!
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第8代目藩主伊達宗孝の娘サンと結婚する事で婿養子となりますw 幕末期の伊予吉田藩内は佐幕派が主流だったんですよ! 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争でも宇和島宗藩とは別行動を取るんです!! そのため新政府軍の追討対象となるんですよ! でも…養父宗孝の兄宇和島宗藩主伊達宗城の仲介によりついに新政府に恭順します! そんで追討を免れ許されるんですよwでも交換条件があって… 明治元年(1868年)に養父宗孝は47歳で隠居謹慎します… その後を宗敬が17歳で家督を継ぎ第9代目(最後)の藩主となるんですw 官位は従五位下(後に従四位下)・若狭守なんですよw そんなこんなで結局戊辰戦争では一兵も派遣する事なく終戦を迎えます!! 明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で吉田藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免官されて東京へ引越しますw 伊予吉田藩は吉田県となり宇和島県・神山県を経て愛媛県に編入されましたw 伊予吉田藩は明暦3年(1657年)宇和島藩初代藩主伊達秀宗(仙台藩主伊達政宗の庶長子)の5男宗純が宇和島宗藩より3万石を分知され立藩した事に始まります!藩庁は愛媛県宇和島市(旧北宇和郡吉田町)に陣屋がおかれたんです!!この3万石分知の経緯については諸説あって【秀宗は宗純を寵愛してて父政宗が没する迄支出してた隠居料3万石を宗純の為に分知した】と一般に言われてまっす!一方で【2人の兄達が相次ぎ早逝する中で世継ぎとなった3男宗利を妬んだ宗純が一関藩主伊達宗勝(政宗の10男で秀宗の実弟)と共謀し秀宗の遺言書を偽造した】とも言われてるんですよ…当時の秀宗の病状は悪く筆を取るのもままならない状態だったとして宗利は不審の念を呈する書簡を第2代目仙台藩主伊達忠宗に送ってます…ちなみに宗勝は後の『伊達騒動』の首謀者として断罪されてる事もこの説を裏付ける事になってるんですよ…結局は彦根藩主井伊直孝の仲裁で3万石分知は果たされたけどその後は伊予吉田伊達家と宇和島伊達宗家は領地の帰属を巡って激しく対立しちゃうんです…両藩の確執は元土佐藩浪人の身から伊予吉田藩の家臣となり専横を奮った山田仲左衛門を巡る一件(山田騒動)を仙台伊達家の指示で宇和島藩が介入する迄続いたんですよ!それ以後伊予吉田藩に対する宇和島宗藩の発言権は大きくなったんです!
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内藤文成は幕末の三河国挙母藩の第7代目(最後)の藩主安政2年(1855年)第6代目藩主内藤政文の子として誕生しますw安政5年(1858年)に父政文が享年28歳で死去します…それを受けてわずか4歳で家督を継ぐんですよ!官位は従五位・下丹波守なんですよw 安政8年(1859年)藩軍に英式銃陣法が取り入れられ習練が行われます!! 慶応3年(1867年)挙母地方でも『ええじゃないか運動』が起きます! 慶応4年(1868年)戊辰戦争では藩主不在のままに新政府軍に恭順します! 慶応4年(1868年)3月には初めて文成が帰藩します! 慶応4年(1868年)4月東海道軍人馬兵食賄方として駿府警衛の為藩軍を派遣!! 慶応4年(1868年)6月に再度警衛に当ったんですよw 明治元年(1868年)7月に文成が13歳で京都御所へ参内し改めて恭順しますw 明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で挙母藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免官されて東京へ引越しますw 挙母藩は挙母県になり後に愛知県に編入されたんですよw 幕末時の士族は100戸で卒族は200戸を数えたんです! 明治7年(1874年)に19歳で突然隠居しちゃいます… 寛延2年(1749年)上野国安中藩より内藤政苗が挙母へ領地替えとなったのが挙母内藤家の始まりです!以後維新迄の約120年間に渡り挙母の地を支配します!内藤家は前藩主本多家から受け継いだ挙母1万石の他に遠江国と美作国に1万石あり合計2万石の大名だったんです!!入封後は幕府より4千両与えられ陣屋から挙母城築城の計画が進められたんです!でも…築城の計画は一揆や洪水・政争等で遅々と進まなかったんです…結局第2代目藩主学文は安永8年(1779年)に挙母城の移転を決意し旧挙母城より西方の樹木台に新しい城の築城を進めて天明5年(1785年)に築城工事を終え江戸から戻った学文は新城の見分をしてます!それが現在「七州城」と呼ばれる城なんですw名前の由来は「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「遠江国」「伊勢国」「近江国」の7州が見える高台に建ってるってとこからついたんです!また学文により藩校「崇化館」も創立されてますw以後挙母の城下町は旧城を中心とした下町と新城を中心とした樹木の2つの地域で発展したんです!ちなみに幕末期の第4代目藩主政成と第5代目藩主政優はともに養子で彦根藩主井伊直中の5男・8男にあたるんです!あの大老井伊直弼は14男で彼らの弟にあたるんです!!
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