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歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

幕末のお殿様

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幕末の藩主達

藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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藤堂 高邦

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藤堂高邦は幕末の伊勢国久居藩の第16代目(最後)の藩主

弘化3年(1846年)に津藩藤堂宗家一門藤堂長徳の2男として誕生しますw

第15代目久居藩主藤堂高聴は新田開発や雲出川の治水工事に取り組みます!

そんで破綻してた藩財政を見事に再建したんですよ!!

そんな高聴の娘サンと16歳の時に結婚し養嗣子となるんですよ!

ちなみに奥サン(正室)の実姉の旦那(義兄)が久保田藩主佐竹義堯ですw

文久3年(1863年)に養父高聴が享年53歳で死去します…

これを受けて19歳で家督を相続し久居藩主となるんですw

官位は従五位下・佐渡守なんですよ!

津宗藩と共に天誅組討伐に参加してます!

慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦いも津宗藩と共に旧幕方として参陣!!

でも…津宗藩主藤堂高猷は新政府軍に寝返って旧幕軍敗走の一因を作ったんです!

津宗藩の決定は絶対なんで高邦も新政府に恭順します!

慶応4年(1868年)5月に駿府に出兵し清水港警衛をします!

明治元年(1868年)9月には津宗藩と共に白河口に出陣します!!

そんで奥羽列藩同盟軍と今泉で激戦を繰り広げたんですよ!!

この激戦を征し輪王寺宮公現法親王を守護し上洛しますw

明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で久居藩知事となります!!

明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免官されて東京へ引越しますw

久居藩は久居県となり安濃津県・度会県を経て翌年には三重県に編入されました!

明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます!

明治35年(1902年)に東京にて享年56歳で死去しました…


寛文9年(1669年)に第2代目津藩主藤堂高次が隠居して家督を子高久に譲った時に次男高通に5万石を分与して津藩の支藩である「久居藩」を立藩したんです!でも…城主格の大名だったけど幕府に築城を許可されず陣屋と城下町を建設するに留まったんです…久居藩は津藩宗家高次が本家の嗣子が絶えた場合の【無嗣子による改易】に備えて設置した藩なんですよ!!歴代藩主の多くは若死若しくは本家の津藩を継承した者が多いんです!

平岡 道弘

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平岡道弘は幕末の安房国船形藩の最初で最後の藩主

生年月日とかは不明なんですよ…

直参旗本大番席藤沢宮内の次男として誕生しますw

文政3年(1820年)9月西丸小納戸頭の直参旗本平岡道忠の養子になりますw

平岡家は当時3千石の直参旗本で小早川秀秋の附家老だった平岡頼勝の末裔なんですw慶長7年(1602年)小早川秀秋が死去すると徳川家康に召し出され慶長9年(1604年)8月に美濃国徳野1万石を拝領しますwでも…その後御家騒動が起こり幕命によって【改易】となるんです…そんで平岡家は1千石の直参旗本として存続を許されてたんです!

文政5年(1822年)に初めて書院番に就任しますw

天保8年(1837年)9月2日徳川家慶が12代征夷大将軍に就任しますw

その際に御側御用取次に就任しますw

天保12年(1841年)閏1月7日大御所徳川家斉が享年69歳で死去します…

弘化元年(1844年)水戸藩主徳川斉昭が幕府に強制隠居を命じられます…

嘉永2年(1849年)12月薩摩藩島津家で「お由羅騒動」が起きます!

嘉永6年(1853年)6月3日アメリカのペリーが軍艦4隻を率い浦賀沖に現れます!!

嘉永6年(1853年)6月22日12代将軍徳川家慶が享年61歳で死去します…

その後も御側御用取次を務めてますw

この頃に紀州家附家老水野忠啓の娘サンと結婚しますw

嘉永7年(1854年)1月16日ペリーが軍艦7隻を率いて再来日します!

嘉永7年(1854年)3月3日に日米和親条約が締結されます!

この頃から将軍継承問題が起こり幕府内も南紀派と一橋派に分れ対立するんです!

将軍継承問題で一橋派の水戸藩主徳川斉昭を嫌う大奥や老中上田藩主松平忠固とか

義兄である紀州家附家老水野忠央らと共に保守派(南紀派)を形成します!

そんで「血筋の近さを尊重する」「年齢や英明さを基準に選ぶのは誤りである」と主張!!

そんで徳川慶福(後の徳川家茂)を次期将軍に推すんです!!

安政3年(1856年)11月天璋院篤姫が13代将軍徳川家定の正室として大奥入りするんですよ!

安政5年(1858年)4月23日彦根藩主井伊直弼が幕府大老に就任します!

安政5年(1858年)6月19日孝明天皇の勅許を得られぬまま日米修好通商条約が調印されます!

安政5年(1858年)6月25日に13代将軍徳川家定が諸大名を招集します!

そんで南紀派の徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定しちゃうんですよ…

安政5年(1858年)7月5日一橋派諸大名に対する処罰が発表されます!!

安政5年(1858年)7月6日13代将軍徳川家定が享年34歳で死去します…

これが「安政の大獄」の始まりなんですよぉ…Y(>_<,)Y

安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変にて井伊直弼が享年46歳で暗殺されます…

文久2年(1862年)2月に14代将軍徳川家茂と和宮が結婚しますw

文久2年(1862年)8月24日若年寄に就任し2千石を加増されますw

元治4年(1864年)天狗党の乱が起ります!!

元治元年(1864年)8月2日第一次長州征伐が行われます!!

元治元年(1864年)10月安房国内1万石を加増され1万5千石の大名になります!

その際に従五位下・因幡守に叙任任官しますw

そんで船形御霊に陣屋を構えて立藩したんです!

慶応元年(1865年)安房国平郡船形村御霊に陣屋を起工するんです!

慶応2年(1866年)6月7日第二次長州征伐が行われます!!

慶応2年(1866年)7月20日14代将軍徳川家茂が享年21歳で死去します…

慶応2年(1866年)11月江戸市中にて元火附盗賊改役屋敷と1700坪の敷地及び隣地273坪を預地として幕府より下付され船形藩江戸屋敷とするんです!
慶応3年(1867年)5月京都見廻役を命ぜられますw

慶応3年(1867年)6月には若年寄職を辞するんです…

慶応3年(1867年)10月14日15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行います!!

慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争で新政府に恭順するけど消極的でした…

慶応4年(1868年)2月12日松平慶永の意見で徳川慶喜が江戸城を退去!!

そんで上野寛永寺大慈院に移る際に浅野美作守氏祐らと随行したんです!!

明治元年(1868年)7月陣屋が未完のまま領地を奉還します…

そんで上総国安房監察兼知県事柴山文平へと引き渡し【改易】となるんです…

明治2年(1869年)6月23日徳川宗家の家老となるんですw

現在陣屋は石垣や堀が残ってるだけなんですよ!

移築された陣屋裏門が近くの民家にあったけど現在は取り壊されちゃいました…

明治4年(1871年)7月14日徳川家達は廃藩置県で藩知事を免官されます!

その後…徳川家達は東京に引越しますが…

道弘の消息は……誰も知らないんですよ……あぁ……

ちなみに…墓所は東京都台東区天眼寺です…

阿部 正功

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阿部正功は幕末の陸奥国棚倉藩の第2代目(最後)の藩主

万延元年(1860年)に第6代目白河藩主阿部正耆の次男として誕生しますw

幼名は「基之助」ですw

元治元年(1864年)3月2日に享年38歳で死去します…

正功は幼少だったんで養子正外が後を継いでます!

慶応元年(1865年)10月1日に正外は老中を罷免されちゃうんです…

慶応2年(1866年)6月19日に正外が隠居しその嫡子阿部正静が家督を相続します!!

慶応3年(1867年)1月に正静が棚倉藩10万石へ移封されます……

慶応4年(1868年)の戊辰戦争で正静は消極的な立場から奥羽越列藩同盟に参加し

藩兵を率い白河口において新政府軍と激戦の末に大敗しちゃうんですよ……

慶応4年(1868年)6月24日に棚倉城は新政府軍に攻撃され同日落城し降伏します…

そんで正静は新政府より奥羽越列藩同盟に参加した罪を問われちゃうんですよ…

慶応4年(1868年)12月14日に4万石減封の6万石で家督を8歳で継ぐんです!

23歳の正静は強制隠居処分となったんですよ…

明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で棚倉藩知事となります!!

正功は人材登用や藩校「修道館」の再興など藩政改革に努めたんですw

明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免官されて東京へ引越しますw

棚倉藩は棚倉県となり後に福島県に編入されたんですよ!

棚倉城趾には現在公園と町の公民館があるんですよw

水堀の周りには桜の木が立ち並び毎年春には町民の花見場所となってますw

ちなみに奥サン(正室)は従一位右大臣徳大寺公純の娘サンで官位は従二位ですw

明治11年(1878年)1月23日に東京で先代正静が享年30歳で死去します…

明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます!

麻布一帯の大地主や第15銀行の大株主となってます!

明治20年(1887年)4月20日に先々代正外が東京にて享年60歳で死去します…

佐土原藩主島津忠亮の3男を婿養子とし「阿部正寛」として後を継がせます!

大正14年(1925年)に東京にて享年66歳で死去してます…

墓所は東京都台東区蔵前の西福寺です…

棚倉藩は江戸時代において懲罰的な目的での転封の対象地になってて長期における藩主家の定着が無く藩の支配体制は不完全を経てきたんです!石高は表高より内高(実際に藩の収入になる石高)は少ない藩だったんです!慶長8年(1603年)の立花宗茂から明治の阿部正功まで数えて藩主は9家18人が入れ替わったんです!

松平 直致

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松平直致は幕末の播磨国明石藩の第10代目(最後)の藩主

嘉永2年(1849年)8月4日に江戸藩邸にて誕生しますw

父は第9代目藩主松平慶憲で母は側室小林氏(古満子サン)で直致は長男です!

幼名は「薫次郎」なんですよw

嘉永6年(1853年)父慶憲は外国船の来航が頻繁になったんで明石海岸に

12箇所の砲台を築いて海岸防備強化に努めるんですよ!

嘉永6年(1853年)6月ペリーが浦賀に来航し父慶憲は品川警備を命じられます!

安政元年(1854年)には神奈川の警備を父慶憲は担当させられてます!

慶応2年(1866年)父慶憲は第2次長州征討に参陣します!!

文久元年(1861年)に12歳で元服し父慶憲より「直致」と名付けられますw

慶応3年(1867年)江戸城初登城しますw

でも…15代将軍徳川慶喜不在にて老中稲葉正邦と面会します…

父慶憲は幕府より京都警備を命じられてます!

慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに父慶憲は旧幕府方として参陣を決定!!

でも…遅刻して大坂城にいた将軍徳川慶喜の救出が出来ず明石に引き返します…

明石城に新政府軍の山陽鎮撫使が進軍して来ます!

父慶憲は本家筋の福井前藩主松平慶永の取り成しで新政府に対し恭順して

早々に明石城を明け渡して新政府軍に従軍し姫路藩まで進軍します!

その後の戊辰戦争にも参戦して明石藩兵を越後方面へ派兵したんですw

明治元年(1868年)太政官より従四位上・侍従・左兵衛督に叙任されますw

この頃は父慶憲に代って藩政を取り仕切るんですよ!

明治元年(1868年)自邸の一部を開放し藩校「敬義館」を開校しましたw

明治2年(1869年)父慶憲の隠居に伴い家督を相続します!

明治2年(1869年)6月に版籍奉還で明石藩知事となりますw

同じ年に岸和田藩知事(旧岸和田藩主)岡部長寛の娘鎮姫サンと結婚しますw

明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

明石藩は明石県となります!

明治4年(1871年)11月2日明石県は姫路県に併合されました!

明治4年(1871年)11月9日に姫路県は飾磨県と改称されたんですw

その後に兵庫県に編入され今に至るんですよw

明治17年(1884年)6月28日に東京にて享年35歳で死去しました…

将来を有望視されてただけにその死は諸所に大きな衝撃を与えました…

その後を父慶憲の指示で弟直徳が家督を継ぎます…

明治17年(1884年)の華族令施行により弟直徳は子爵に叙されます!

明石松平家は徳川家康の次男結城秀康の6男松平直良を祖とする越前家松平宗家の分家ですw天和2年(1682年)越前国大野藩より松平直良の子直明が6万石にて入封して明石松平家が確立されました!第8代目斉宜は11代将軍徳川家斉の25男でこの時2万石の加増を受け8万石(家格は10万石格)となったんですwでも…将軍家の子息を養子に迎える事で莫大な費用を要し藩財政難に一層の拍車がかかったんですよ…

森 長儀

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森長儀は幕末の播磨国赤穂藩の第12代目(最後)の藩主

嘉永3年(1850年)に第10代目藩主森忠徳の3男として誕生しますw

お母サンは安房勝山藩主酒井忠嗣の娘サンなんですよw

安政4年(1857年)藩政の改革を巡り保守・革新両派の対立で藩内は分裂!

革新派の一部は脱藩して長州藩へ奔ったたんですよ…

文久2年(1862年)攘夷派が保守派家老を暗殺するという事件が起こります…

この頃に父忠徳が隠居し3歳年上の実兄忠典が16歳で家督を相続します!!

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで兄忠典は旧幕側で出陣します!!

でも保守・革新両派の藩内抗争が収まらず戦わずに撤退し新政府に恭順します!!

そんでその責任を取る形で兄忠典は22歳で隠居しちゃうんです!

慶応4年(1868年)3月に家督を譲られ18歳で家督を継ぐんです!

官位は従五位下・越後守ですw

奥サン(正室)は明石藩主松平斉韶の娘サンですw

戊辰戦争では新政府の山陽道鎮撫軍に属し備中松山藩征伐に参加します!

明治2年(1869年)6月に版籍奉還で赤穂藩知事となりますw

明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

赤穂藩は赤穂県となりその後姫路県⇒飾磨県を経て兵庫県に編入されましたw

明治14年(1881年)に父忠徳が享年63歳で死去します…

明治16年(1883年)に兄忠典が享年37歳で死去します…

明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます!

明治18年(1885年)に東京にて享年35歳で死去しました…


赤穂森家は織田信長・豊臣秀吉に仕え「鬼武蔵」と呼ばれ天正12年(1584年)4月9日小牧・長久手の戦いで戦死した森長可の実弟忠政の系統です!森家自体は清和源氏の一流である河内源氏の流れを汲み八幡太郎源義家の7男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄の領主となって「森冠者」と名乗りその3男源頼隆は後に「若槻」を号するけど出家後は森蔵人入道西阿と称したんですよ!本格的に「森」を名字としたのは宝治合戦後に頼隆の次男頼定が森姓を称したことによるんです!赤穂森家はこの【森宗家】になるんですよ!
赤穂藩は元々浅野家の所領でしたが…元禄14年(1701年)に第3代目藩主浅野内匠頭長矩は江戸城中で高家旗本吉良義央に斬りつけ即日に切腹し赤穂浅野家は改易となったんです…代って烏山藩より永井直敬が3万2千石で入封したんですよ!!元禄15年(1702年)に赤穂浅野旧臣による吉良邸討ち入りが起こりました…宝永3年(1706年)に永井直敬は信濃国飯山藩へ転封となっちゃいます!この後備中国西江原藩より森長直が2万石で入封し赤穂森家の祖となったんですw藩政は代々困窮してて時代を追う毎に悪化の一途を辿ったあんです…第5代目忠洪は財政改革を断行し藩主自ら質素倹約を行い貯蓄を奨励して更に塩田開発や蝋燭の原料となる櫨の植林等殖産興業にも努めたんです!でも…財政再建は失敗に終ったんです…第10代目忠徳は文化6年(1809年)遂に塩を専売制としたんですよ!『赤穂の塩』…有名ですよねw

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