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歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

幕末のお殿様

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幕末の藩主達

藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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安部 信発

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安部信発は幕末の武蔵国岡部藩(三河国半原藩)の第13代目(最後)の藩主

弘化2年(1845年)に武蔵金沢藩主米倉昌寿の9男として誕生しますw

実兄は武蔵金沢藩最後の藩主となる米倉昌言です!

文久3年(1863年)に岡部藩主安部信宝の養子となります!

養父信宝は高島流砲術祖高島秋帆の身柄を預かりったりしてました!

また幕末の動乱で激動する大坂城・二条城の定番を務めてました!!

文久3年(1863年)3月20日に実父米倉昌寿が享年70歳で死去します…

文久3年(1863年)7月6日心労が崇り養父信宝は死去します…

その後を受けて18歳で家督を継ぐんですよ!

官位は従五位下・摂津守なんですよw

元治元年(1864年)5月2日に起きた水戸天狗党の乱で領内を通過しようとした天狗党と

激しい交戦をしこれを撃破し大いに武功を挙げてます!
  慶応3年(1867年)11月9日に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行うんですよw
これを受けて江戸で庄内藩を筆頭に6名の譜代大名が朝廷から授かった官位官職の

辞退を請い出て薩摩藩長州藩寄りの朝廷を牽制するんですよ!

これに習い信発ら20余名の「菊の間詰諸大名」も朝廷から出されてた京都上りの召集命令を

拒絶する文書を旧幕府に差し出し朝廷に抵抗します!
  慶応3年(1867年)12月9日に王政復古の大号令が発せられましたw
この大政奉還と王政復古によって ―――

江戸幕府が滅ぶと同時に675年に渡った鎌倉幕府以来の武家政治も滅んだんです…

慶応4年(1868年)1月に倒幕(新政府)派と旧幕派が鳥羽・伏見で衝突します!!

でも結果は旧幕府軍の大敗に終りその後戦火は戊辰戦争へと続いてきます…

慶応4年(1868年)3月信発は勅命により上洛し新政府に恭順を誓います!

その際本拠を三河国半原に移すのを嘆願します!

慶応4年(1868年)4月3日に許可され「半原藩」と改称したんですw

戊辰戦争では直接戦闘に参加する事は無く東山道軍人馬兵食賄方を務めます!

明治2年(1869年)6月に版籍奉還で半原藩知事となりますw

明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます!

明治28年(1895年)に東京にて享年50歳で死去しました…

墓所は東京都豊島区池袋にある祥雲寺です…

藩祖は徳川家譜代の家臣安部信盛です!信盛の祖父元真は元今川家重臣だったけど武田信玄が今川家を滅ぼした際に多くの重臣達が武田家に従う中で元真は徳川家康に従って武田家と戦い続けた武将として知られてます!!信盛は慶長5年(1600年)に父信勝が死去した為に家督を継いで同年の関ヶ原の戦いや慶長19年(1614年)からの大坂の陣等に軍功を挙げ大番頭・大坂定番等に出世し慶安2年(1649年)に1万9250石の所領を領したんで諸侯に列しここに岡部藩を立藩しました!第4代目藩主信峯は「忠臣蔵」で有名な浅野長矩による刃傷事件が起こると長矩の従兄だったんで連座で出仕を止められ家督相続も保留となったりもしたんですよ…安部家は元々武蔵国岡部を本拠に陣屋を置く5千石の旗本だったけど三河国半原や摂津国桜井谷・瓜生にも所領が分散してたんですよ…2万石余りの内訳は武蔵国と隣国上野国に合わせても5千石程度の所領しかなくて飛地の摂津国に約8千石・三河国に約7千石といういびつな所領形態を有してたんです!そして陣屋を本領である武蔵国以外に三河国・摂津国にも設置し代官が地方の行政を行ってました!

内藤 政義

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内藤政義は幕末の日向国延岡藩の第7代目の藩主

文政3年(1820年)3月3日誕生し通称は「帯刀」ですw

父は彦根藩主井伊直中で幕府大老井伊直弼の実弟に当たるんですよ!

奥サン(正室)は新発田藩主溝口直諒の娘サンですw

第二婦人(継室)は柳河藩主立花鑑賢の娘サンです!

官位は従五位下・能登守・右近将監ですw

先代藩主政順に嗣子が無かったんで兄直弼と共に政順の養子候補となります!

結果は直恭に決まり名を「政義」に改めてその養嗣子となったんです!

天保5年(1834年)8月21日に養父政順が享年39歳で死去します…

その死を受けて家督を14歳で継ぎ第7代目延岡藩主になります!

天保12年(1841年)・嘉永元年(1848年)の相次いで大規模な飢饉が

起りその救済対策に翻弄してるんですよ!

また軍制改革・学制改革・新田開発等の改革に従事したんですよ!!

学寮を藩校「広業館」と改め拡充に努めたりもしたんです!

その後遠江掛川藩主太田資始の3男政挙を養嗣子に迎えてます!

政義自身は大老井伊直弼の実弟だけど養嗣子政挙は実兄直弼の安政の大獄政策に激しく反発して老中を罷免された硬骨漢である掛川藩主太田資始の3男というのも因縁ですね…

安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変が起り兄直弼が元水戸藩士らに暗殺されます…

文久2年(1862年)10月24日養嗣子政挙に家督を譲って隠居しますw

その後養嗣子政挙は佐幕の立場をとったんです!

でも…薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中で苦況に立たされます…

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕軍側に加担します!!

その結果【朝敵】の嫌疑を新政府より受けるんですよ!

嘆願の末で養嗣子政挙が謹慎する事で新政府への恭順を認められるんです!

その後の戊辰戦争では養嗣子政挙に代わり延岡藩の政務を代行したんです!

結局積極的な行動に出る事もなく明治維新を迎えるんです…

明治2年(1869年)6月に版籍奉還で養嗣子政挙は延岡藩知事となりますw

明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

延岡藩は延岡県となり美々津県⇒宮崎県⇒鹿児島県を経て宮崎県に編入されますw

明治17年(1884年)の華族令施行により養嗣子政挙は子爵に叙されます!

養嗣子政挙は伝統を重んじ文武両道の興隆に力を尽くしてますw

特に育英事業に意を注ぎ近代教育確立の為に学校設立等尽力したんですw

また日平銅山を経営する等延岡の発展に努めたんですよw

そんな養嗣子政挙を誇りに思うと共に晩年は悠々自適に過したんですw

明治21年(1888年)11月18日に東京にて享年69歳で死去しました…

法号は「興徳院行誉立道常山居士」です…

墓所は東京都港区の青山墓地にあります…

延享4年(1747年)三方領知替えにより牧野家は常陸国笠間藩に転封となり代わって陸奥国磐城平藩より内藤政樹が7万石で入封したのが延岡藩内藤家の始まりでその後124年間延岡の地を治めたんです!ちなみに…磐城平藩には笠間藩より井上政経が入封したんですよ!内藤家は前領地だった磐城平藩で起った「磐城騒動」の責任を取らされ懲罰的に延岡に移封されたんですよ…表石高が同じ7万石だったけど磐城平は実高13万石あり実質6万石の減封だったんです…ちなみに内藤家8代は全て養子による相続という珍しい記録を持ってるんですよ!!内藤家の延岡統治は【財政難】とそれに伴う【百姓一揆】に常に悩まされ続けた治世だったんです…
 下の画像は延岡城址にある養嗣子政挙(第8代目(最後)延岡藩主)の銅像なんですよ!

堀 親広

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堀親広は幕末の信濃国飯田藩の第12代目(最後)の藩主

嘉永2年(1849年)3月4日飯田藩堀家分家の旗本堀親因の子として誕生w

元治元年(1864年)に水戸天狗党に対して何の対策も取らなかったんで

第11代目藩主堀親義は幕府より2千石を減らされる処分を受けます…

慶応元年(1865年)に第11代目藩主堀親義の養子となります!

奥サン(正室)は養父親義の養女(第10代目藩主堀親寚の娘サン)です!

…結局は…【婿養子】だったんですよ…

ちなみに…第10代目藩主堀親寚は老中水野忠邦の天保の改革で幕閣の一人となって奏者番・寺社奉行・若年寄・老中などを歴任して7千石を加増されたけど水野失脚に伴ない1万石を減らされてたんですよ…

養父親義は奏者番や寺社奉行などを歴任してたんですw

慶応4年(1868年)に養父親義の隠居に伴い19歳で家督を相続します!

官位は従五位下・美濃守なんですよ!!

明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還で飯田藩知事となりますw

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

飯田藩は飯田県となりました!その後…

明治4年(1871年)11月には筑摩県に編入されます!

明治9年(1876年)8月には長野県に編入されて現在に至ります!

明治13年(1880年)9月20日に養父親義が享年66歳で死去します…

明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます!

明治32年(1899年)7月30日に東京にて享年50歳で死去します…

本多 助実

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本多助実は幕末の信濃国飯山藩の第7代目と第10代目(最後)の藩主

文政2年(1819年)3月29日第5代目藩主本多助受の3男として江戸で誕生しますw

お母サンは二本松藩主丹羽高庸の5女満サンなんですよ!!幼名は「助竹」です!

誕生当時は既に父助受が家督を養子助賢に譲って隠居の身だったんです…

文政7年(1824年)6月13日に江戸にて父助受が享年61歳で死去します…

安政5年(1858年)4月22日に第6代目藩主助賢が隠居し養子として家督を継ぎます!

安政5年(1858年)9月17日に江戸にて養父助賢が享年67歳で死去します…

奥サン(正室)は高島藩主諏訪忠恕の5女倭子サンです

そんで第二婦人(継室)は福知山藩主米倉昌寿の娘サンですw

官位は従五位・伊勢守⇒若狭守⇒豊後守⇒相模守なんですよ!!

元治元年(1864年)に奏者番となります!

慶応3年(1867年)4月4日長男助成に家督を譲って隠居し「恒山」と号したんです!

この時助実は48歳だったんです!

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力し1万5千両の軍資金を献納します!

慶応4年(1868年)6月14日に長男助成は享年23歳で死去します…

長男助成は起倒流柔術や大坪本流馬術・宝蔵院流槍術等の武術が得意で詩文や書画の才能もあり将来には幕閣要人からも幕閣入りも充分に期待されてたんですよ…そんなんで周囲からは「本多の若殿」「松平遠州侯」と称されてたんです…そのためあまりに若すぎる死は当時から【毒殺説】も噂されたんです…
長男助成に嗣子が無かったんで8男助寵が後を継がせたんです!

でも…病弱だったんで後見人として政務は助実自身が代行したんです…

その後戊辰戦争末期には越後高田藩から旧幕府軍が侵入し飯山は戦火に見舞われたんです…

明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還で8男助寵は飯山藩知事となりますw

明治2年(1869年)8月14日に8男助寵が享年16歳で死去します…

そのため第10代目藩主として再任し飯山藩知事となるんですよ!!

その後は藩政改革に務めました!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

飯山藩は飯山県となり明治4年(1871年)末には長野県に編入されましたw

その後再度隠居を新政府に願い出てて家督を11男助順に譲ったんです!

明治10年(1877年)3月1日に東京にて享年59歳で死去します…

戒名は「玄妙院殿従五位前飯山藩知事貫誉竹遷一道大居士」です…

墓所は東京都六本木の教善寺です…

明治17年(1884年)の華族令施行により11男助順は子爵に叙されます!

藩祖は本多助芳です!享保2年(1717年)に越後国糸魚川藩より助芳が2万石で入府したのが始まりです!この飯山藩本多家は本多正信に近い系統なんですよ!!でも…助芳は糸魚川1万石から1万石加増されて2万石になったけど実質的には千曲川の水害のために糸魚川1万石よりも収入が少なかったんですよ…このため家老本多弥五兵衛の献身的な忠義が幕府に認められた事もあって享保9年(1724年)に替え地が用意されました!

細川 興貫

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細川興貫は幕末の常陸国谷田部藩の第9代目(最後)の藩主

そんでもって下野国茂木藩の初代藩主にして最後の藩主ですw

天保3年(1832年)12月8日第8代目藩主細川興建の子として誕生しますw

幼名は「辰十郎」で奥サン(正室)は宇土藩主細川行芬の娘之寿サンですw

嘉永5年(1852年)9月6日父興建の隠居により20歳で家督を継ぎます!

官位は従五位下・玄蕃頭ですw

藩政では凶作が続いて百姓一揆とか頻繁に起こって藩財政も苦しかったんです…

慶応4年(1868年)戊辰戦争勃発後に家臣119名を率いて上京し京都警護を務めます!

そんで新政府に恭順の意を示したんですよ!!

明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還で谷田部藩知事となりますw

明治3年(1870年)12月藩庁を茂木に移して「茂木藩」を立藩しますw

明治4年(1871年)2月8日に茂木藩知事に任じられてるんですよw

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

茂木藩は廃藩となり谷田部は新治県となって後に茨城県に編入されたんですw

明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます!

その後には貴族院議員を務めてるんですよw

明治40年(1907年)9月11日に東京府浅草の今戸で享年76歳で死去します…

戒名は「興信院殿正三位勲四等子爵貫忠宗徹大居士」で墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺です…

藩祖は細川藤孝(幽斎)の次男興元ですw兄忠興と不仲のため慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に細川家を出奔(家出)しちゃったんです…慶長15年(1610年)7月27日幕府より下野国芳賀郡茂木に1万石を与えられて諸侯に列したんですよ!!真偽は定かじゃないけど興元の立藩に当たり幕府では豊後国鶴崎10万石を検討してたみたいで…でも兄忠興の「興元は10万石の器に非ず」との反対で僅か1万石に留まりそのため本藩(肥後熊本藩)とは3代に渡って仲が悪かったみたいなんですよ…その後興元は大坂の陣における戦功で元和2年(1616年)6月26日に常陸国筑波郡・河内郡で6200石を加増され陣屋も谷田部に移しましたwそんな理由で谷田部藩は肥後熊本藩の支藩ではなくてちゃんとした独立藩だったんです!でも…周りを譜代藩に囲まれた外様小藩だったんで苦労も多くて土地も痩せて凶作が多かったんですよ…そのため肥後熊本藩から度々借金等の援助を受けてたりしてました…肥後熊本藩では谷田部藩への貸金は返ってこないものと初めから諦めてんです…

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