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歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

幕末のお殿様

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幕末の藩主達

藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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松平 忠礼

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松平忠礼は幕末の信濃国上田藩の第7代目(最後)の藩主

嘉永3年(1850年)6月14日第6代目藩主松平忠固の3男として誕生しますw

幼名は「与十郎」なんですよw

兄が早世しちゃったんで世継ぎとなりますw

父忠固は紀州派として大老に彦根藩主井伊直弼を擁立して水戸藩主徳川斉昭や

福井藩主松平慶永と対立してたんですよ!

そんで井伊直弼を傀儡にして自らが老中首座として佐幕路線を突っ走る目論見が

あったみたいなんですよ…

安政6年(1859年)9月14日に父忠固が享年48歳で急死しちゃいます…

そんでもって9歳で家督を相続して第7代目藩主となったんです!!

官位は従五位下・伊賀守なんですよw

奥サン(正室)は掛川藩主太田資始の娘サンですw

そんで第二婦人(継室)は土佐新田藩主山内豊福の2女豊子サンなんですよ!

父忠固が幕政に参与して藩政を顧みなかったんで藩財政が悪化してたんです…

藩内部では藩政の主導権を巡り藩内政争が起こっちゃいの混乱が続くんです…

忠礼が若くして家督を継いだんで藩内抗争が激化します…

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順し北越戦争に出兵します!

明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還では上田藩知事となります!!

明治2年(1869年)8月15日には百姓一揆(巳年騒動)が起こります!!

こんな状態でその後も藩内は混乱してたんですよ…

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

上田藩は上田県となり明治4年(1871年)11月には長野県に吸収されますw

明治5年(1872年)から弟忠厚と共にアメリカに留学します!

明治12年(1879年)に日本に帰国してますw

明治13年(1880年)から外務省御用掛・外務省取調局に勤務します!

明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます!

明治23年(1890年)の第1次帝国議会で貴族院議員に選出されます!!

でも…辞退しちゃってるんですよ…

明治28年(1895年)3月14日に東京にて享年46歳で死去します…

墓所は東京都台東区の谷中墓地です…

弟の旧刈谷藩主土井忠直の次男忠正を養子に迎えて後を継がせました!

本多 忠貫

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本多忠貫は幕末の伊勢国神戸藩の第7代目(最後)の藩主

天保4年(1833年)11月28日新庄藩主戸沢正令の子として江戸で誕生しますw

幼名は「敬之丞」で兄弟に新庄藩主戸沢正実高家旗本中条信汎がいますw

天保14年(1843年)5月22日に実父正令が享年31歳の若さで死去します…

そんで実兄正実が10歳で第11代目(最後)新庄藩主となるんですよ!!

嘉永7年(1854年)に「安政東海地震」が起き神戸城と城下町は大破します…

47人の死者が出た大惨事だったんです…

安政3年(1857年)2月に第6代目藩主本多忠寛の養子となります!

安政3年(1857年)4月26日養父忠寛の隠居により24歳で家督を継ぎますw

官位は従五位下・伊予守で後に河内守なんですよw

その後竹橋門番を務めたりしたんですw

文久3年(1863年)10月には山田奉行に就任してますw

慶応3年(1867年)からは伊勢神宮の警衛を勤めたんですよ!

慶応4年(1868年)の戊辰戦争で新政府に恭順し東海道人馬兵食賄方を担当!

明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還では神戸藩知事となります!!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

神戸藩は神戸県となり安濃津県を経て三重県に編入されたんですw

明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます!

明治18年(1885年)12月20日に養父忠寛が享年59歳で死去します…

明治31年(1898年)6月24日に東京にて享年66歳で死去します…

戒名は「揚徳院相誉実音忠寛」で墓所は東京都江東区白河の霊巌寺です…

稲垣 長敬

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稲垣長敬は幕末の志摩国鳥羽藩の第8代目(最後)の藩主

嘉永7年(1854年)7月12日第6代目藩主稲垣長明の子として誕生しますw

慶応2年(1866年)9月29日父長明が享年37歳で死去します…

そんで5歳年上の兄長行が家督を継ぎ第7代目鳥羽藩主になりますw

佐幕派だった父長明の代からの重臣により鳥羽藩は佐幕派として行動します!

慶応4年(1868年)の戊辰戦争で鳥羽藩は旧幕府軍に与して新政府と敵対!

でも…兄長行は鳥羽藩に帰国し亀山藩主石川成之を通じて新政府に謝罪します…

このため1万5千両の軍費を供出する事で新政府に罪を許されたんです!

明治元年(1868年)9月29日に兄長行が享年19歳で死去します…

そのため14歳でその養子として家督を継ぎ第8代目藩主となったんです!!

官位は従五位下・対馬守なんですよ!

ちなみに奥サン(正室)は神戸藩主本多忠廉の娘サンなんですよw

明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還では鳥羽藩知事となります!!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw

鳥羽藩は鳥羽県となりその後度会県を経て三重県に編入されたんですw

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で子爵に叙します!

大正9年(1920年)8月30日に東京にて享年67歳で死去します…

墓所は三重県鳥羽市鳥羽の常安寺で戒名は「泰巌長敬信徳院」です…

織田信長に仕え当時最強と言われた毛利水軍をわずか数隻の鉄甲船で打ち破った事で有名な織田水軍の将九鬼嘉隆を藩祖とします!慶長5年(1600年)嘉隆は西軍に子守隆は東軍に与して関ヶ原の戦いを戦ったんです!これは父子対立というよりはどちらが勝利しても九鬼家が存続できるように嘉隆が図ったものと言われてます!!でも…守隆は戦後に父の助命を徳川家康に嘆願して認められてたけどそれを報せる前に嘉隆は自害しちゃったんですね…守隆は戦後2万石を加増され大坂の陣でも戦功により1千石を加増されて5万6千石の大名となったけど寛永9年(1632年)に守隆が死去すると九鬼氏内で家督争いが起こり幕府の裁定の結果家督は守隆の5男久隆が継いで摂津国三田藩へ移封され3男隆季が丹後国綾部藩に2万石でともに海の無い内陸に移封となっちゃい九鬼家は分裂した上で水軍力を失ったんです…その後内藤家⇒土井家⇒松平家⇒板倉家⇒松平家と藩主が目まぐるしく変わったんです!でも享保10年(1725年)に稲垣昭賢が下野国鳥山藩から3万石で入り明治維新迄ようやく藩主家が定着したんです!

内藤 正誠

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内藤正誠は幕末の信濃国岩村田藩の第7代目(最後)の藩主

弘化2年(1845年)第6代目藩主内藤正縄の長男内藤正義の長男として誕生

お母サンは磐城平藩主安藤信由の娘サンですw

奥サン(正室)は老中安藤信正の娘サンです!

ちなみに…お母サンと奥サンの関係は叔母と姪なんですよ!!

官位は従五位下・志摩守なんですw

安政元年(1854年)父正義が家督を継ぐ事なく享年33歳で死去します…

そんで祖父正縄の嫡子となるんですよw

安政5年(1858年)に祖父正縄は城主格を与えられたんですよ!

安政7年(1860年)2月25日の祖父正縄が享年65歳で死去します…

それに伴い15歳で家督を継いだんですよ!

幕末の幕府内で日光祭礼奉行・奏者番とか寺社奉行を務めたんですw

慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府に恭順し北越戦線に出兵しますw

明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還では岩村田藩知事となります!!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越w

この頃築城計画がなされてたけど城は未完成のまま廃城となっちゃいます…

そんで岩村田藩は岩村田県となりその後に長野県に吸収されました!

明治10年(1877年)に32歳で隠居し家督を娘婿の養子正愨に譲りますw

明治13年(1880年)8月25日に東京にて享年35歳で死去します…

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で養子正愨が子爵に叙します!

牧野 康済

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牧野康済は幕末の信濃国小諸藩の第10代目(最後)の藩主

天保12年(1841年)1月9日に第9代目藩主牧野康哉の長男として誕生w

幼名は「隼人」なんですよw

ちなみに三河国岡崎藩の第6代目(最後)の藩主本多忠直は実弟ですw

安政6年(1859年)11月16日に従五位下・周防守に叙位・任官しますw

文久3年(1863年)3月16日に内膳正に遷任します!

文久3年(1863年)6月13日に父康哉が46歳で死去します…

そんで22歳で家督を継いで藩主となったんです!!

元治元年(1864年)3月26日に遠江守に遷任します!

奥サン(正室)は岸和田藩主岡部長発の養女なんですよw
慶応2年(1866年)弟信之助が有能・活発だったんで重臣の一部から廃嫡運動が起きたりもします…これが「小諸騒動」なんですよ!!この時は本家長岡藩家老河井継之助の調停によって解決したんですよ!!
慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府に帰順します!

でも…その後の北越出兵は拒否し碓氷峠の守備を務めるに止まりました!!

これは小諸藩の本家筋だった長岡藩牧野家と戦う事を避けた為みたいです…

明治2年(1869年)再燃した御家騒動「小諸騒動」で謹慎処分を受けます…

明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還では小諸藩知事となります!!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越w

その後「康済」から「康民」と改名したんです!

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で子爵に叙されます!

大正7年(1918年)1月15日に東京にて享年78歳で死去します…

墓所は東京都台東区の谷中墓地で戒名は「清徳院殿浄誉楽水康民大居士」です…

その家督を相続した長男康強は生涯独身を貫いて死去します…

そんで公家出身の醍醐公勝の子嵯峨次郎(牧野康愛)を養子として入り家名を

存続する事が出来たんですよ!w

元禄15年(1702年)に越後国与板藩より牧野康重が1万5千石で入封し廃藩置県まで藩主を務めたんですw康重は本庄氏の一族に連なったんで5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の義理の甥にあたる人物です!康重には特別な功労があったわけでもないけど桂昌院繋がりで3万石の領地が与えられて5万石の格式ある小諸城主に栄転となったんです!石高・家臣の員数に比べて居城小諸城はとっても大きかったんで城下の足軽の多くは長屋に入らず門戸・玄関を持つ一戸建ての屋敷を与えられてましたwこれは諸藩と比較して非常に珍しい例だったんです!ちなみに新田開発に熱心に取り組みその藩領の表高が1万5千石だったんだけど実高は幕末には3万9千石となってたんです!!そのため廃藩置県に際して藩財政の精算が行われたところ信濃国(現長野県)内で唯一の黒字の藩だったんです!

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