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奥サン(正室)は福島藩主板倉勝顕の娘サンです!官位は従五位下・右京亮ですw この頃の敦賀藩では財政難が相次いでたんですよ… そんなんで安政6年(1859年)10月に本家小浜藩に所領を返還しようと する動きがあったけど領民が猛反対したんで中止となったんです!! 文久元年(1861年)9月父忠眦は若年寄を務めた功績で1千石加増されますw 文久2年(1862年)6月には城主格を与えられたんですよ! でも…このため藩主による参勤交代の義務も生じて更に財政難に拍車がかかるんです…元治元年(1864年)9月父忠眦は欧米諸国と交渉し下関条約を締結します!!慶応3年(1867年)6月17日佐幕派の立場に苦しんで父忠眦が隠退… これにより19歳で家督を継ぎ藩主となります! 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では本家小浜藩と共に新政府側に恭順! そんで北陸道鎮撫使の先鋒役を務めたんです!! 明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還では敦賀藩知事となります!! 明治3年(1870年)5月には「敦賀藩」を「鞠山藩」と改称しますw 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越w 敦賀藩は天和2年(1682年)小浜藩第2代目藩主酒井忠直の次男忠稠が父忠直の遺言に基づき敦賀郡・高島郡内に1万石を分与された事から始まる小浜藩の支藩なんです!陣屋は貞享4年(1687年)赤崎の塩込を鞠山と改称して設置したんで「鞠山藩」とも呼ばれてたんですよ!でも歴代藩主は江戸定府が常で領国の支配は本家の小浜藩が担ってました…そのため陣屋を実際に利用してたのは小数の役人のみだったんですよ…でも第4代目藩主忠香時代の宝暦9年(1759年)に敦賀藩は本家小浜藩の支藩の立場から独立した藩となり敦賀酒井氏による直接支配が始まったんです!歴代藩主の多くが大番頭や奏者番・寺社奉行・若年寄・大坂城番等の幕府要職を務めたり小藩ながらその存在は大きかったんです!
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幕末のお殿様
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幕末の藩主達
藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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ちなみに婿養子忠文は本家である宇都宮藩主戸田忠温の4男なんですよ! 安政3年(1856年)8月16日に第7代目藩主忠文が18歳で死去します…その養子となって家督を継ぎ9歳で第8代目藩主となるんですよ!文久2年(1862年)12月16日に15歳で従五位下・長門守に任官w 奥サン(正室)は松前藩主松前崇廣の長女武子サンなんですよ! 文久3年(1863年)6月から職制改革等を中心に藩政改革を行ないます… 今の16歳とは違って当時は若くして凄かったんですね!!そう思いません?元治元年(1864年)の水戸天狗党の乱で天狗党が下野大平山に侵攻した際は吹上藩と折衝を務めてるんですよ! 慶応3年(1867年)10月に陸軍奉行並に任じられてます! 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争で旧幕府と新政府の双方に対して 曖昧な態度を取っちゃってます…そんで最終的に新政府に恭順します!! 22歳の若さで御家の事を考えるには仕方のない事だったんでしょうね…明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還では足利藩知事となります!!明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越w 足利藩は足利県となり明治4年(1871年)11月14日栃木県に編入されます! 東京移転後は神田表の神保町に住んでたんですよ!! 明治12年(1879年)に海軍裁判所御用掛・海軍御用掛に就任しますw 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で子爵に叙されます! 明治30年(1897年)に貴族院議員となります! 明治39年(1906年)に勲4等を授与されます!! 大正6年(1917年)8月に70歳で隠居し嫡子忠雄が家督を継ぎます!!
大正7年(1918年)12月に東京にて享年72歳で死去します…戦国時代には足利の地は長尾顕長が治めてたけど顕長は小田原征伐で没落しちゃいます…そんで5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の異父弟本庄宗資が徳川将軍家との特別な関係のために加増が繰り返され元禄元年(1688年)には足利1万石を領するようになり足利藩を立藩したんです!宗資はその後もエコ贔屓の加増が繰り返され元禄5年(1692年)本庄邸への2度目の“将軍お成り”の際に4万石に加増されて笠間藩へ移封されちゃったんです!その後の宝永2年(1705年)1月将軍世子徳川家宣の御側役を務めてた戸田忠利が甲斐国内8千石から3千石加増の上で下野国足利郡・河内郡・都賀郡1万1千石を領する事になって大名に列して再び足利藩を立藩したんですw歴代藩主は藩政改革を行ない何人かが大坂定番や奏者番などを務めてるんですよ! |
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そんで家督を継いで12歳で第2代目藩主となったんですw 文久2年(1862年)12月16日に従五位下・兵庫頭に叙位任官します!! 元治元年(1864年)の水戸天狗党の乱で天狗党が下野大平山に侵攻した際は 足利藩と折衝を務めてるんですよ! 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順し奥州に出兵します! それと同時に吹上からも出兵し在江戸隊と壬生藩で合流したんですよ!! 慶応4年(1868年)4月下野国安塚で旧幕側大鳥軍を撃破邀撃したんです! ついで宇都宮城奪還に参加するなど激戦を戦い抜いたんですよ! 明治2年(1869年)3月…その軍費や手当金等を巡り9名の藩士が 若年の藩主氏弘を欺いて私腹を肥やしてるとの理由で江戸藩邸の家老を 殺傷する悲しい事件が起こってちゃいます… 明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還では吹上藩知事となります!! 同時に戊辰戦争の恩賞として新政府より賞典金2千両を与えられてますw 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw この時に吹上藩は廃藩となり栃木県に編入されたんです!! 明治9年(1876年)12月養父氏郁の正室(奥サン)媛に家督を譲り26歳で隠居します!明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で吹上有馬家は子爵に叙されます!隠居後の事は全然わからなくて没年とかは全く不詳なんです…筑後国久留米藩主である有馬氏(摂津有馬氏)から分家して成立した一流は駿河大納言徳川忠長(3代将軍徳川家光実弟)に従ってて改易後は紀州徳川家に従ったんで譜代の家臣となってました!上総国五井藩主だった有馬氏郁は天保13年(1842年)に陣屋を下野吹上に移した事から吹上藩が立藩したんですよ!
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文久2年(1862年)に結城藩の第9代目藩主水野勝任が早世したんで その養子として24歳で家督を継ぎますw 文久2年(1862年)12月16日に従五位下・日向守に叙位します! 幕末の動乱期の中では佐幕派として行動し両国橋勤番や日光祭礼奉行を歴任します!! 元治元年(1864年)7月10日に学問所奉行に就任すますw 慶応3年(1867年)に半蔵門番とか彰義隊の指揮などを任されました! でも…勝知のこのような佐幕的行動を藩内の恭順派が反発します… そんで恭順派は第8代目藩主勝進の子勝寛を新藩主として擁立しちゃいます!! 慶応4年(1868年)このため勝知は恭順派から結城城を奪回し戊辰戦争では旧幕府軍に 与して戦ったけど新政府軍の攻撃を受け結城城は落城し勝知は水路から脱出して上総成東や 上野山内に潜伏した後で実家の二本松藩にまで逃げたんですよ! でも…新政府軍に捕らえられて身柄を伊勢津藩に預けられる事となったんです…明治2年(1869年)2月24日戦後処罰として勝知は養子勝寛に家督を強制的に譲らされた上で隠居させられちゃって所領も1千石減封されます… 明治2年(1869年)6月の版籍奉還では養子勝寛は結城藩知事となります!! 元禄13年(1700年)に水野隠岐守勝長が能登国西谷藩より転封されたのが始まりですw勝長は改易された福山藩(現在の広島県福山市)主水野勝岑の父勝種の又従兄弟なんです!福山藩改易後に同藩祖であり水野家宗家でもあった徳川家康の従兄弟に当たる水野日向守勝成の功績が考慮され勝長に家督相続が許され元禄11年(1698年)に能登国内に1万石を与えられてたんですよ!!その後に数度の加増され元禄16年(1703年)に結城城の再建を許され以降城主1万8千石の帝鑑間詰譜代大名として幕末まで続くことになったんですよ!
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父信之は本家である大和郡山藩主柳沢保光の7男なんですよw 第7代目藩主柳沢光昭の従兄弟にあたるんですよ!官位は刑部大輔ですw 奥サン(正室)は養父光昭の娘サンで第二婦人(継室)は那須氏ですw 安政年間に養父光昭は黒川陣屋内に藩校「弘道館」を設け藩士の子弟教育に務めました! ちなみに歴代藩主のほとんどが江戸定府だったんですよ! 文久3年(1863年)に養父光昭が初めて国入りしたんですよ!! 慶応4年(1868年)の戊辰戦争で養父光昭は会津藩の申し入れに従って奥羽越列藩同盟に 家臣を送ったけど消極的な立場に留まるに終始するんですよ… そんで新政府軍の北上により早々に降伏し恭順しますw 明治元年(1868年)先代藩主光昭の隠居により家督を相続します!! 明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還では黒川藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw 黒川藩は黒川県となり明治4年(1871年)11月20日には新潟県に編入されますw 5代将軍徳川綱吉のもとで活躍した有名な側用人柳沢吉保の長男吉里が享保9年(1724年)3月11日に甲府藩から大和郡山藩に移封された後の享保9年(1724年)閏4月28日に吉保の4男経隆が1万石を与えられて立藩したのが始まりです!初代藩主経隆は藩の支配体制を固めるため享保9年(1724年)10月に34条に及ぶ法度を制定してるんですwでも…経隆は在位1年余の享保10年(1725年)8月23日に死去します…そのため後を継いだ柳沢里済が経隆の遺志を受け継いで藩の基盤固めを行なったけど享保10年(1725年)に百姓大友村惣左衛門らが江戸に税金&川下げ運賃御免などを求めて出訴します!!さらに年貢未納迄もが相次ぐという非常事態が起こっちゃうんですよ!これに対して里済は百姓を徹底して力で処罰し享保15年(1730年)には宿場人馬の制度を整備して藩の支配制度を定めたのです!ちなみに…黒川藩の財政基盤は1万石だったけど藩領は山地が多かったんで新田開発が不可能で実質的な石高は1万石に満たなかったんです…おまけに歴代藩主の殆どは江戸に定府してたんで出費が嵩んでたんです…そのため厳しい年貢増徴は勿論のこと本家の大和郡山藩から借金してやり繰りする有様だったんです…でも財政は悪化し天保14年(1843年)には5千両余りの借金を抱えてたんですよ!
黒川陣屋跡は現在新潟県黒川村立黒川小学校となってますw遺構は全くないんですよ… |



