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幕末のお殿様

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幕末の藩主達

藩は歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す用語ですw江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえ命名し明治時代に公称となりました!みんなの住んでるとことか いろんなとこのお殿様のリクエストも募集中だよ!!
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徳川 茂榮

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徳川茂榮は幕末の御三卿一橋徳川家の第10代目の当主

天保2年5月2日(1831年6月11日)に高須藩主松平義建の5男として誕生しますw

幼名は「鎮三郎」で初名は「建重」ですw

他にも「松平義比」「徳川茂徳」「徳川玄同」「一橋茂榮」とも名乗ってますw

嘉永3年(1850年)父義建の後を継ぎ高須藩第11代目藩主となります!

奥サン(正室)は二本松藩主丹羽長富の娘政姫サンです!

官位は従四位下・左近衛権少将でこの時に「義比」と名乗るんです!!

安政5年(1858年)安政の大獄により異母兄徳川慶勝が隠居謹慎となった後を受けて

尾張藩の第15代目藩主に就任し「茂徳」って名乗るんです!

長男義端が高須藩松平家の家督を継ぐんだけど3歳で夭折しちゃいます…

でも…就任時の経緯から藩内の支持は佐幕派に限られちゃってました…

文久3年(1863年)慶勝の謹慎が解けると藩内の流れが変わっちゃうんですよ!

そんでなんかいずらくなって隠居し慶勝の子義宜に尾張徳川家の家督を譲ります…

慶応2年(1866年)に徳川(一橋)慶喜が15代征夷大将軍になった後を受けて

一橋徳川家を相続し「茂榮」と名乗るんですよ!

明治元年(1868年)石高10万石で藩屏に列し徳川宗家から独立(一橋藩立藩)します!

明治3年(1870年)閏10月に家禄3805石を賜ります!!

明治17年(1884年)3月6日に東京にて享年54歳で死去します…

その際に贈正二位を賜り4男達道がその後を受け一橋徳川家を相続します!

明治17年(1884年)7月の華族令施行で4男達道は伯爵に叙されます!

会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬らは弟なんですよ!

他にもたくさん兄弟はいたんだけど尾張藩主徳川慶勝と合わせて「高須四兄弟」と

称されるけど他の3人のように藩政・外交に主体的に取り組んだ形跡が薄くて時代の

情勢に押し流され続けた生涯だったんです…

第12代目当主宗敬サンは第二次大戦後に最後の貴族院副議長を務めてるんですよ!

そんでサンフランシスコ講和条約の日本側全権委員のひとりでもあったんですw
平成10年(1998年)放映のNHK大河ドラマ「徳川慶喜」では石丸謙二郎サンが演じましたw

 江戸幕府8代将軍吉宗の4男宗尹を家祖とし徳川将軍家に後継ぎがない時は他の御三卿と一緒に後嗣を出す資格があったんです!家格は『徳川御三家』に次ぎ所領は10万石なんですよ!家名の由来となった屋敷一橋邸は江戸城一橋門内(現在の千代田区大手町1丁目4番地付近)にあったんですw

 家祖宗尹は元文2年(1737年)賄料を現米2万俵に改められ元文5年(1740年)一橋門内に宅地及び賄料1万俵を増して賜わり一橋家を興したんです!!延享3年(1746年)新規に賄料領知10万石を武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨・備中6ヶ国の内に賜わり高10万石となるけど領分は時期によって異動があって幕末期には武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中の8ヶ国22郡に散在してました…

 一橋家は御三卿の中でも唯一将軍を輩出し11代将軍家斉と15代将軍慶喜が一橋家の出身です!さらに田安徳川家2代目治察が早世し清水徳川家初代重好が実子を残さなかった結果…18世紀末以降のほとんどの将軍と御三卿当主が一橋徳川家宗尹の子孫で占められる事になっちゃってたんですよ…大政奉還後徳川宗家を相続した田安徳川家出身の徳川家達も宗尹の子孫です!でも…一橋家当主自身は短命で子を残せない者が多くて一橋徳川家9代目当主で15代将軍となった徳川慶喜は水戸徳川家からの養子です!

有馬 頼咸

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有馬頼咸は幕末の筑後国久留米藩の第11代目(最後)の藩主

文政11年(1828年)に第9代目藩主有馬頼徳の7男として誕生しますw

初め元服後に「慶頼」と名乗ってました!官位は正四位・中務大輔・左中将ですw

弘化3年(1846年)兄である第10代目藩主頼永が享年25歳で久留米城内にて逝去します…

その後を受け18歳で「頼咸」と改名し家督相続します!!

その際将軍徳川家慶より将軍家養女精姫(有栖川宮幟仁親王の姫サン)降嫁の内命が下りますw

大倹継続の令により兄頼永の施政方針を受け継ぐけどこれに関し藩邸で混乱が起きます!

弘化4年(1847年)に参政村上守太郎が“大倹約令遵守の意見書”を提出します!

嘉永2年(1849年)に精姫と正式に結婚したんですよw

その婚儀の時に参政の間で奢侈を促すカキツケが出回ります!

嘉永3年(1850年)に参政村上守太郎が江戸藩邸で乱心しちゃいます!!

でも…家老有馬主膳と同じく家老の有馬飛騨に斬られて死んじゃうんですよ…

連座して多数の藩士が罰せられる大事件となっちゃうんです…

でも…この一連の乱心事件は実は左幕派(保守派)の陰謀説もあるんです…

これ以後藩内では勤皇派(真木党)と公武合体派(村上党)両党派間の軋轢が増したんです!!

嘉永4年(1851年)に初めて帰国し久留米城入りするんです!

嘉永5年(1852年)に勤皇家である藩士真木和泉らが佐幕派(保守派)である藩内を憂い

執政層排除を計画するんだけど挫折しちゃいます…

真木自身も水田村大鳥居家に蟄居させられちゃうんですよ…
元治元年(1864年)7月19日に真木和泉は長州藩過激派と一緒に禁門の変(蛤御門の変)を起こしてちゃうんですよ!!そんで久坂玄瑞らと共に天王山で自害します…享年52歳でした…
慶応3年(1867年)大政奉還後の政変により真木党が藩政を担うようになります!!

でも藩論の大勢は佐幕派(保守派)だったんですよ!

慶応4年(1868年)よりの戊辰戦争が始まると新政府に恭順したんですよw

明治元年(1868年)には藩政一新の令を発布しますw

明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還では久留米藩知事となります!!

明治4年(1871年)には「辛未の藩難」が起こっちゃうんですよ!!

「辛未の藩難」とは明治4年(1871年)長州藩氾濫脱徒の奇兵隊首魁大楽源太郎(新政府の欧化政策に憤り山口で奇兵隊と一緒に政庁を襲撃したけど失敗して同志を頼って久留米藩に落ち延びたところを筑後川畔で暗殺されちゃってます…)を契機とした元変応隊による反政府挙兵計画が行われるんですよ…そんで新政府はこれを礫断した後に頼咸に嫌疑をかけ上京を命じ弾正台にて取り調べをして結局頼咸自身も謹慎処分になっちゃったんです…ちなみに水野正名・小河真文以下の多くの有望な人物が死刑やそれに準じた刑に罰せられて久留米藩は多数の人材を失う事になったんです…

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw

久留米藩は久留米県となり後に三潴県を経て福岡県に編入されたんですよ!

明治15年(1882年)に東京にて享年54歳で死去します…

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により嫡男頼万は伯爵に叙されます!


 久留米藩有馬家の祖は室町時代の四職だった守護赤松則祐(円光)の孫で赤松則祐5男義祐で有馬温泉の摂津有馬郡の地頭となって「有馬姓」を称したんですよ!!肥前有馬のキリシタン大名有馬晴信の丸岡藩有馬家とは全く関係ないんです!他流の有馬家とは区別して『摂津有馬氏』とか『赤松有馬氏』とも呼ばれてるんですよ!

 久留米は関ヶ原の戦いまで毛利元就の庶子で毛利輝元に実子ができるまで毛利家の世継ぎだった毛利秀包が別家を立てて所領としてました!関ヶ原の戦いで西軍が敗れ毛利家が除封された後に豊臣恩顧だった有馬豊氏(関ヶ原の戦い時は東軍)が入ったんですwあまり目立たない大名家だけど21万石は大封で秋田藩佐竹家盛岡藩南部家よりも大きく全国20位の大藩なんですよ!

 第8代目藩主頼貴は天明3年(1783年)に学問所(藩校)を開き文教の興隆を計ります!天明7年(1787年)には学問所は「修道館」と名付けられたけど寛政6年(1794年)に焼失します…寛政8年(1796年)藩校を再建し新たに「明善堂」と名付けたんですよ!「明善堂」は現在の「福岡県立明善高等学校」の前身なんですよ!!

 ちなみに孫頼寧の孫は衆議院議員亀井久興サンなんですよ!そんで亀井家自体も旧津和野藩主(伯爵)だったんですよ!

上画像は現在の久留米城址で下画像は明治5年(1872年)に破却される前の久留米城です!

堀 之美

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堀之美は幕末の越後国椎谷藩の第13代目(最後)の藩主

弘化3年12月12日(1847年1月28日)に第12代目藩主堀之敏の次男として誕生w

幼名は「外之助」で奥サン(正室)は老中である磐城平藩主安藤信正の娘サンですw

官位は従五位下・備中守・右京亮なんですよ!

嘉永2年(1849年)に父之敏は奏者番となりますw

安政7年(1860年)に父之敏は若年寄を務め幕末の幕政に参与したんですよ!

嘉永4年(1851年)に家老斎藤八百四郎が父之敏の暗殺未遂を企てる事件が勃発!

父之敏は無事だったけど藩政は安定しなかったんです…

文久3年(1863年)12月8日に父之敏が享年43歳で死去します…

その死により16歳で家督を相続し第13代目椎谷藩主となりますw

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早々に新政府に恭順してますw

ちなみに…同族の村松藩堀家は新政府に敵対する奥羽列藩同盟に参加しちゃったんですよ…

藩領は北越戦争の水戸藩と新政府軍による激戦の舞台となり

戦禍による多大な大被害を受けちゃうんですよ…

その後は会津藩米沢藩にも進軍したんですよ!

明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還により22歳で椎谷藩知事となります!!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw

椎谷藩は椎谷県となりその後は新潟県となったんですよ!

明治15年(1882年)8月27日に東京にて享年35歳で死去してます…

子供がいなかったんで同族の旧村松藩堀家から堀直紹を養子に迎えて後を継ぎますw

明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により養子直紹は子爵に叙されます!

藩祖は名臣として名高い堀直政の4男直之です!元和2年(1616年)7月直之は大坂の陣による軍功が認められて越後国沼垂郡に55百石を与えられ椎谷に陣屋を置いたんですよ!!直之の子直景の時代に関東の地に1万石を与えられ大名となったんです!!元禄11年(1698年)第4代目藩主直宥が越後の沼垂・三島・蒲原三郡内において1万石を領し椎谷に居住したのが正式な椎谷藩の始まりなんですwでも…歴代藩主は江戸定府が常だったんです!

松平 頼之

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松平頼之は幕末の陸奥国守山藩(松川藩)の第7代目(最後)の藩主

安政5年6月1日(1858年7月11日)水戸藩主徳川斉昭の22男として誕生しますw

元治元年(1864年)武田耕雲斎ら天狗党の乱の時に守山藩でも乱に参加した者がいたんで

乱後に多くの藩士が処罰されちゃってます…

慶応4年(1868年)の戊辰戦争で守山藩は水戸藩に習い新政府に恭順しちゃいますw

明治2年(1869年)6月24日に版籍奉還で第6代目藩主頼升が守山藩知事となります!!

明治2年(1869年)守山藩主頼升の隠居により養子となって11歳で家督を相続します!

明治3年(1870年)藩庁を常陸国松川に移したんで「守山藩」は「松川藩」と改められます!!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw

松川藩は松川県となりその後に白河県⇒磐前県を経て福島県に編入されたんですよw

明治6年(1873年)8月11日に東京にて享年15歳で死去しました…

会津藩との養子縁組を解消してた実兄喜徳(水戸藩主徳川斉昭の19男)が後を継いでます…

明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により実兄喜徳は子爵に叙されます!

守山藩は徳川御三家の一つ水戸藩祖徳川頼房の4男で“水戸黄門”で有名な徳川光圀の異母弟である松平頼元が寛文元年(1661年)9月に常陸国額田に2万石を分与された事から立藩してますw正式な守山藩の始まりは第2代目藩主頼貞の代である元禄13年(1700年)9月25日に第5代将軍徳川綱吉の命により新知行地として守山に2万石を与えられた時なんですよ!歴代藩主は江戸小石川の藩邸に定住し参勤交代を行なうことは無かったんです…藩政においても本家である水戸藩の監督を受ける立場にあったんですよ!!

小笠原 貞正

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小笠原貞正は幕末の豊前国小倉新田藩(千束藩)の第9代目(最後)の藩主

天保11年(1840年)10月27日旗本小笠原信学の次男として江戸で誕生しますw

幼名は「錦次郎」でお母サンは柳本藩主織田信陽の娘サンなんですよ!!

安政3年(1856年)6月に第8代目藩主小笠原貞寧が隠居します!

そんでその養子となって16歳で家督を継ぎ第9代目藩主となりました!

安政3年(1856年)12月に従五位下・近江守に叙任しますw

奥サンは旗本小笠原啓吉の娘サンなんですw

文久元年(1861年)7月9日に大番頭に任じられますw

文久3年(1863年)4月19日には大坂の警備を任じられるけど…

文久3年(1863年)9月4日に辞任しちゃいます!

慶応元年(1865年)に本家小倉藩主小笠原忠幹が早世しその嫡男忠忱が幼少だったんで

貞正がその後見人として補佐を務めてたんですよw

明治2年(1869年)6月陣屋を上毛郡千束(現福岡県豊前市)に移し「千束藩」となります!

明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還により千束藩知事となります!!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw

千束藩は千束県となり後に小倉県を経て福岡県に編入されたんですよw

明治5年(1872年)5月に養子武吉に家督を譲って隠居したんです…

その後には官位も返上しちゃったんですよ!

明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により養子武吉は子爵に叙されます!

明治39年(1906年)3月21日に東京にて享年67歳で死去してます…


千束藩は小倉藩の支藩です!寛文7年(1667年)第2代目小倉藩主小笠原忠雄の藩主就任時に弟真方が1万石を領内に分与され立藩したのが始まりで藩主家は参勤交代を行わない江戸定府の大名です!

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