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ちなみに母は後藤言中の娘松島サンですw 和歌や書道・謡曲・歌詞などに堪能な趣味人としても知られてるんですよ! 嘉永元年(1848年)に従五位下に叙任しますw 嘉永2年(1849年)には従五位上になって嘉永3年(1850年)正五位下になりますw 嘉永4年(1851年)従四位下になって嘉永5年(1852年)従四位上・侍従になりますw 嘉永6年(1853年)正四位下に叙され安政元年(1854年)元服し左権少将となりますw 嘉永8年(1855年)御遷幸に左少将朝臣として参加したんですよ!! 安政4年(1857年)右権中将になって安政6年(1859年)従三位に昇進しますw 安政7年(1860年)正三位になって万延元年(1860年)踏歌外弁になりますw 慶応3年(1867年)権中納言となるんですよ! 慶応4年(1868年)1月に鳥羽伏見の戦いが起っちゃいます… その後王政復古後に新政府参与に就任します! 慶応4年(1868年)2月に権大納言・大和国鎮撫惣督となりますw 明治元年(1868年)7月には東北遊撃軍将となり旧幕軍の追討にあたります!! 奥羽列藩同盟を征し東北平定するんですよ! 明治元年(1868年)11月には東京に凱旋し三等陸軍将となりますw 明治2年(1869年)3月には箱館軍の内地侵入を防ぐため鎮撫惣督として 仙台藩に至り騒擾を鎮定しちゃいますw 明治2年(1869年)7月陸軍少将となり明治2年(1869年)11月兵部少輔に就任! その後元老院議官などを歴任したんですよw 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により侯爵に叙されます! その後は宮中顧問官や東京府知事・宗秩寮総裁などを歴任してますw 明治36年(1903年)6月には従一位に叙されてるんですよw
大正14年(1925年)1月10日に東京にて享年85歳で死去しました…妻凭子サンは東本願寺の大谷伯爵のお姉サンなんですよ!長女儀子サンは大谷勝道に次女節子サンは伯爵松浦靖サンに3女静子サンは男爵津守國榮サンに4女富久子サンは園基建サンにお嫁に行ったんですw長男久我常通が家督を継いで次男久我通保は分家して男爵の位を授けられてますw3男俊通は壱岐幸存の養子となってます! 久我家は村上源氏流の清華家の家格を有した公家で堂上10家のひとつなんですよ!村上天皇の皇子具平親王の子師房が寛仁4年(1020年)に源姓を賜わりその孫源雅実が祖となるんですよ!!「久我」という家名は源師房の代より伝えられ山城国愛宕郡久我に構えた「久我水閣」が由来ですw鎌倉時代前期の久我通親は内大臣となって権勢を振るい「源 博陸(関白の異名)」と称されたんですよ…その後の久我家は室町幕府第3代目将軍足利義満の代までは“源氏長者”を輩出し『源氏の嫡流』として淳和院・奨学院の別当を務めてたんです!一般的には久我通親の子通光の子孫をもって久我家と呼ばれる場合が多いんですw当道座の本所だったんです!!家紋は「五つ竜胆車」で庶流には中院家・北畠家・六条家などがあるんですよw女優の久我美子サンは久我家の末裔なんですよ!曹洞宗の開祖である道元も久我家の出身とする説があります…
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幕末の公家サン
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少壮の公家として幕末の朝廷で尊皇攘夷を唱え活躍しましたw 安政5年(1858年)日米修好通商条約締結に勅許に反対し廷臣八十八卿列参事件参加!! 8月18日の政変によりの政変で朝廷の実権が尊皇攘夷派から公武合体派に移ると長州藩兵に 守られて船で長州へ逃れちゃいます……このことを世に「七卿落ち」というんですよ!! そん時に一緒だったのは三条実美・三条西季知・澤宣嘉・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳…… その後は長州藩から更に太宰府に移されちゃってるんですよ…… 慶応3年(1867年)王政復古の後に復権を果たし新政府に仕官します! その後は外国事務総督・神奈川府知事・開拓使長官・侍従長などを歴任しますw 明治4年(1871年)岩倉具視を全権とする岩倉使節団に随行し見聞を広めますw 明治15年(1882年)には元老院副議長になってますw 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により伯爵に叙されます! 明治21年(1888年)枢密顧問官になります!! 明治23年(1890年)貴族院副議長になったんですよw 上画像は晩年ので下画像は若い時のなんですよw
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お母サンは松本藩主松平光年の娘サンで号は「成翁」「子成」「真成」「叟」とかあるんですよ!! 文政5年(1822年)4月に従五位下に叙しますw 文政10年(1827年)4月には侍従に任じられてから右少将・右中将を歴任しますw 嘉永元年(1848年)3月に参議に任じ5月には従三位に叙せられます!! その後は権中納言・右衛門督・検非違使別当を歴任してるんですよ!! 安政5年(1858年)幕府が通商条約締結の勅許を求めてきたときに これに反対する廷臣八十八卿の一人となるんですよ!! 安政6年(1859年)に権大納言を経て万延元年(1860年)議奏となりますw 文久2年(1862年)には国事御用掛となるんですよ!! 文久2年4月13日(1862年5月9日)長州藩士長井雅楽に藩主上京の内旨を伝えます!! 薩摩藩主島津久光ら公武合体運動を支持し長井雅楽の「航海遠略策」に賛同しますw そんで朝廷への建白を促したんで過激な尊皇攘夷派から敵視されちゃいます… 文久3年(1863年)にそんなこんなで議奏を辞職の上で失脚しちゃいます…文久3年(1863年)8月18日の政変で復帰すると薩摩藩と交流を持ちながら討幕派公卿の一人として幕末を立ち回るんですよ! 文久3年(1863年)12月には議奏に復任します! ちなみに薩摩藩への「討幕の密勅」の日付は前日13日になってたんですよ! そんでもって薩摩藩宛は実愛が長州藩宛は中御門經之が書いたと言われてるんですよw でも……同じ日に徳川慶喜が大政奉還をしちゃいます!!慶応3年10月15日(1867年11月10日)に朝廷で承認されたんで政局が混乱!!この6日後には薩長両藩に対し討幕の実行延期の沙汰書が出されたんですよ!! 明治維新後は議定・内国事務総督・刑部卿・教部卿等を歴任してますw 明治2年(1870年)9月維新の功績により賞典禄1千石を永世下賜されますw 明治3年(1871年)に姓を「嵯峨」と改めてます!! 明治13年(1880年)には勲一等旭日大綬章を受けてますw 明治14年(1881年)4月に隠居し息子公勝が後を継いだんですw 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により伯爵に叙されます! でも…「侯爵が欲しい!」……陞爵への凄まじい迄の執念がありました…嵯峨家は代々大臣家だったんで平堂上家と同じ伯爵では我慢ならなかったんですよ!でも…「侯爵が欲しい!」……息子公勝にも陞爵への凄まじい迄の執念がありました…でも…息子公勝の陞爵への理由は実愛と全く違ってたんですよ…それは…伯爵以下は貴族院議員に選挙で選出され歳費と旅費が支給されるんだけど公爵と侯爵は世襲で無給なんですよ!!公爵は金禄公債と合わせ約10万円になるように家門永続資金を 下賜されてたけど侯爵はなかったんで息子公勝を侯爵への爵禄要求へと駆り立てたんです!! 当時巡査の初任給が6円の時代に嵯峨家は年3千円の固定収入だったんで同情の余地は無し!! 明治21年(1888年)1月17日についに息子公勝が侯爵に陞爵してますw明治32年(1899年)7月には高齢により宮中にて杖を許されたんです!!明治42年(1909年)10月20日に東京にて享年90歳で死去します…死去後に明治天皇は棺前に勅使を遣わし御沙汰書を宣読せしめてその功を賞したんです!!墓所は東京都文京区にある麟祥院にあります…
藤原氏北家閑院流三条家の分流で太政大臣三条実重の2男公氏を祖とします!!この正親町三条家からさらに分かれた三条西家も大臣家として存続したんですよw家紋は「正親町連翹」で江戸時代の禄高は355石なんですよ!!ちなみに……清朝最後の皇帝である宣統帝(愛親覚羅溥儀サン)の実弟溥傑サンと結婚し「流転の王妃」とよばれた浩サンは実愛の曾孫なんですよ!! |
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5男として京都に誕生して幼称は「常丸」で正三位大原重成の養子なるんですよw 文化9年(1809年)に光格天皇の侍童となりますw 文化12年(1815年)に宮中に昇り大和権介・従五位上に叙せられたんですよ!! 天保元年(1830年)4月には右近衛権少将に叙せられますw 天保2年(1831年)9月には右近衛権中将・従三位に叙せられたんですよw 孝明天皇即位後には重用されて安政元年(1854年)勅命で内裏炎上後の造営を差配しますw 安政5年(1858年)に日米修好通商条約の調印の勅許を求めて堀田正睦が上洛すると… 岩倉具視・中山忠能らと廷臣八十八卿に加わり反対して謹慎させられちゃうんですよ…文久2年(1862年)薩摩藩の島津久光は藩兵を率いて上洛します!!久光は「公武合体」の立場から朝廷に建策し幕府に五大老の設置等「三事の幕政改革」を 迫ることに決すると赦免された重徳は岩倉の推薦で勅使として薩摩藩兵に警備されて 江戸へ赴くことになるんですよw 江戸では幕府に対する攘夷の決行や一橋(徳川)慶喜の将軍後継職任命・福井藩主松平慶永の 長州藩世子毛利定広が持参して朝廷に献策してた勅書については…… 京都に戻ると特旨をもって直衣を許され国事御用掛などを務めてますw 文久3年(1863年)に長州藩世子毛利定広が持参した勅書改竄の罪を問われて辞職・落飾!元治元年(1864年)に赦免され復飾(還俗)して出仕したんですよ!!慶応2年(1866年)には佐幕派の関白二条斉敬と中川宮朝彦親王を弾劾しちゃいます!!! でも……失敗しちゃって孝明天皇の怒りを買っちゃい幽門させられちゃいます…慶応3年(1867年)3月に許され9月には参議に任じられ従二位に叙されますw慶応4年(1868年)1月の王政復古で参与となります!! 明治元年(1868年)閏4月には権中納言となり議定など新政府の役職を務めたんですよw 明治2年(1869年)9月には維新の功で賞典禄1000石を永世下賜されますw ちなみに死去の翌々日に生前の功労を追賞して新政府より正二位を贈られたんですよw 明治17年(1884年)の華族令施行により大原家は伯爵に叙されてます!
大原家は宇多源氏の流れを引く堂上公家(羽林家)です!!江戸時代に従一位権大納言庭田重条の養子である正三位左近衛中将大原栄敦を祖とするんですよ!!栄敦の子重度以降は権中納言を極官としたんですw家業は「神楽」で江戸時代の家禄は30石3人扶持だったんですw |



