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そんですぐに正五位下侍従中御門資文の養嗣子となんですよw 文政6年(1823年)7月に2歳で従五位下に叙します!! 天保2年(1831年)12月には元服して10歳で昇殿を許されてますw 嘉永元年(1848年)5月には侍従に任じられてますw 安政5年(1858年)3月に通商条約勅許問題が起こっちゃうんですよ 日米通商条約勅許に反対して88人の反対グループ(廷臣八十八卿)に参加します! 文久3年(1863年)4月に孝明天皇の石清水八幡宮行幸のお共をしてます!! 元治元年(1864年)3月には参議となり10月には従三位に叙せられてるんですよw でもその後に義兄である岩倉具視と手を結んで討幕派公卿の一人となってるんですよ!! 慶応2年(1866年)には佐幕派の関白二条斉敬と中川宮朝彦親王を弾劾しちゃいます!!! でも……このため親王を厚く信任してた孝明天皇の怒りを買っちゃい閉門処分になります… 慶応3年(1867年)3月孝明天皇が崩御後に罪を許されて復帰するんです! その後は岩倉具視・中山忠能・正親町三条実愛らの廷臣と薩長藩士大久保利通・品川弥二郎らと 慶応3年(1867年)11月9日に15代将軍徳川慶喜が二条城で大政奉還をしていますw 慶応3年(1867年)12月9日王政復古とともに三職制が設置されて議定に任ぜられます!! 明治元年(1868年)1月に会計事務総督を兼ねて2月には会計事務局督になりますw 明治元年(1868年)閏4月権中納言となりますw 明治2年(1869年)2月造幣局掛等を5月内廷職知事に7月には留守長官を歴任します!! 明治2年(1869年)9月には維新の功で賞典禄1500石を永世下賜されますw 明治2年(1869年)11月に大納言に任ぜられてます!! 明治3年(1870年)12月に病で留守長官を辞し「麝香間祇候」となりますw そんで華族会館創設の計画協議などに当たったんですよ!! 明治13年(1880年)勲一等旭日大綬章を受けてますw 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により伯爵に叙されます! 明治21年(1888年)1月17日には侯爵に陞爵してますw 明治24年(1891年)8月に病篤きに及び特旨をもって従一位に叙せらました!!
明治24年(1891年)8月27日に東京にて享年72歳で死去しました…墓所は東京都港区の善光寺(画像)なんですよ…中御門家は「名家(堂上公家)」の家格を有する公家サンで藤原北家勧修寺流の勧修寺庶流なんですよ!!鎌倉時代中期に勧修寺経俊(吉田經俊)の4男經継により創設されたんですw家紋は「竹に雀」なんですよwちなみに經俊の弟である吉田為經の子經任も「中御門」の家名を名乗ってますw後嵯峨天皇の腹心だった經任在世中は經継系よりも羽振りが良かったけど政敵も多くて南北朝時代初期頃に断絶しちゃってるんですよ…經継系は江戸時代の家禄は260石だったんだけど幕末には200石に減ちゃってます…經之の死後にその子經明には嗣子が無くって奥サンである萬千子サンが中御門家を相続して戸主となったんで侯爵位を返上したけど分家から經恭を養子に迎えて改めて旧に復したんですよw |
幕末の公家サン
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尊皇攘夷派の公卿として活躍してるんですよ!! 妻サンは土佐藩主山内豊資の娘嘉年子サンです!! 嘉永4年(1851年)3月侍従に任ぜられその後右近衛権少将・左近衛権中将を歴任w 文久2年(1862年)4月権中納言に任ぜられますw 文久2年(1862年)国事御用掛に文久3年(1863年)議奏となりますw でも…文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」に関与し謹慎となっちゃいます… 慶応4年(1868年)1月に新政府の参与・議定として内国事務総督を兼ねます!! 慶応4年(1868年)2月には内国事務局督になりますw 明治2年(1869年)内廷職知事ちなり大納言にもなっちゃいます!! 明治24年(1891年)2月内大臣兼侍従長となりますw そんで明治天皇の側近として天皇が崩御されるまで補佐したんですよ!! 明治天皇の政治関与には強く反対し枢密顧問官元田永孚らが侍補制度を定めて 天皇親政運動を行った折にはその阻止に動いたんですよ!! そんで自らの政治的関与も強く戒めて侍従長在任中は政界に転じた実弟西園寺公望とは 公的の場所以外では会話しなかったと言われてるんですよ…… 明治24年(1891年)5月先帝御事蹟取調掛長として「孝明天皇紀」の編修を主宰しますw 明治39年(1906年)4月大勲位菊花大授章を授けられてますw 明治39年(1906年)12月に「孝明天皇紀」を完成させますw 明治44年(1911年)4月21日に公爵に昇格します!
大正8年(1919年)6月4日に東京にて享年81歳で死去しました…徳大寺家は清華家の家格を有する公家で藤原氏北家の閑院流で西園寺家や三条家とは兄弟筋にあたるんですよ!!家紋は「木瓜花菱浮線綾」を使用して「笛」を家業としたんですw藤原公実の4男実能を祖としますw平安時代末期に左大臣だった実能が衣笠山の西南麓を所有した山荘を営みその中に持仏堂を建て「徳大寺(得大寺)」と命名したのが後に家名となったんですよ!! ちなみに……「虎の子渡しの庭」で有名な龍安寺(画像)はもとは徳大寺家の別荘だったんですよw宝徳2年(1450年)に細川勝元が譲り受けて寺地とし禅寺として創建したものなんですw応仁の乱や江戸時代の火災で元々の方丈などは焼失してて現在ある方丈は西源院から移築したものなんですよ!!この寺には有名な枯山水の庭園「虎の子渡しの庭」や銭形のつくばいがあります!!また境内全体が深い緑に覆われてて非常に落ち着いた空気が流れてますw世界遺産に登録されてますねw
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父は従一位左大臣近衛基前で母は尾張藩主徳川宗睦の娘琴姫サンですw 正室は薩摩藩主島津斉興の養女興子サンです!! そんなことで薩摩藩と関係が深く公武合体派として活動したんですw ちなみに4男忠房の正室は薩摩藩主島津斉彬の養女貞姫サンなんですよ!! そんで娘の信姫サンは第12代目(最後)弘前藩の藩主津軽承昭の奥サンなんですよw 安政4年(1857年)に49歳で左大臣となりますw でも将軍後継者争いで一橋派に属したんで安政の大獄で失脚し落飾謹慎するんです… 文久2年(1862年)に復帰し関白内覧を務め4男忠房は国事御用掛を務めます!! 文久3年(1863年)8月18日の政変で4男忠房と共に薩摩藩に協力して 長州藩の勢力を京都から追放することに尽力したんですよ!! 文久3年(1863年)尊王攘夷派の台頭により関白を辞しちゃいます… 慶応2年(1866年)第2次長州征伐が起こった際4男忠房は長州征討を強行する幕府と このころには家督を4男忠房に譲って「翠山」と号し隠居します!! でも……明治6年(1873年)9月に4男忠房は東京にて享年36歳で死去します…これにより4男忠房の長男篤麿(下画像)を養子とし10歳で家督を継がせますw明治17年(1884年)の華族令施行により養子篤麿は公爵に叙されます! 明治18年(1885年)養子篤麿はヨーロッパに渡りボン大学・ライプツィヒ大学に入学!! 明治23年(1890年)に養子篤麿は帰国し貴族院議員となりますw 明治25年(1892年)〜明治37年(1904年)まで養子篤麿は貴族院議長を務めます!! 養子篤麿は歴代の藩閥政府には常に批判的で他方では政党に対しても批判を加えるのを 忘れず政党が猟官主義に走る単なる「徒党」と化すのを嘆いてたんです… 明治28年(1895年)に養子篤麿は学習院院長にもなり華族の子弟の教育に力を注ぎますw 立派に育った孫(養子篤麿)の活躍をとっても嬉しく思ってたでしょうねw
明治31年(1898年)3月18日に東京にて享年89歳で死去してます…でも……将来を嘱望されてた養子篤麿も中国渡航中に感染した伝染病が原因で……明治37年(1904年)1月1日に東京にて享年42歳で死去してます…養子篤麿の長男が第2次大戦期(昭和初期)の内閣総理大臣近衛文麿なんですよw近衛家は五摂家の筆頭の公家です!!本姓は「藤原氏」で藤原北家の嫡流にあたるんですw藤原忠通の長男藤原基実が祖で子基通が京都近衛の北・室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことが由来なんです!!家紋は近衛牡丹で江戸時代には家領約3千石を拝し菩提寺は京都の大徳寺ですw鎌倉時代中ごろに近衛家実の4男兼平により「鷹司家」が分かれてます!!また南北朝時代には一時期分裂してたけど江戸時代初期には後陽成天皇の皇子信尋が養嗣子となってます!! |
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幼称は「煕宮(ひろのみや)」で諱は「統仁(おさひと)」 で諡を持つ最後の天皇なんですよ!! 正妃は関白左大臣九条尚忠の娘で左大臣九条道孝の実姉夙子サン(英照皇太后)ですw 明治天皇(母は権大納言中山忠能の次女で天誅組主将中山忠光の同母姉慶子サン)は次男です!! 天保11年(1840年)に9歳で立太子してますw 弘化3年(1846年)2月13日の父帝仁孝天皇の崩御により15歳で即位しましたw 父帝同様に学問好きでその遺志を継ぎ公家の学問所「学習院(後の学習院大学)」を創立します!! 嘉永6年(1853年)のペリー来航以来は幕政に発言力を持ってたんですよ!! 幕府大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶと不信を示し一時譲位を表明したんです! 攘夷の意思が激しく文久2年(1862年)妹和宮内親王を第14代将軍徳川家茂に嫁がせたりとか 「公武合体運動」を推進しあくまで親幕府側の立場を取り鎖国を望んだんですよ! 文久3年(1863年)2月将軍警護の名目で集まった200名余りの浪士達で浪士組が誕生! 義弟家茂が上洛した時は攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸してますw 京都守護職の会津藩主松平容保への信任は特に厚かったんですよ!! でも元治2年(1865年)孝明帝を攘夷運動の首謀者と見た諸外国海軍は艦隊を 大坂湾に入れて孝明帝に条約の勅許を要求してくんですよー!! 孝明帝も事態の深刻さを悟って条約の勅許が出される事となったんです…… 元治元年(1864年)8月2日には第1次長州征伐が開始されてます!! 元治2年(1865年)に西洋医学の禁止を命じたり保守的な姿勢は崩さなかったんです!! でも実際には宮中のみに留まったんです…… 慶応2年(1867年)6月7日には第2次長州征伐(幕長戦争)を開始されますが…… 慶応2年(1866年)7月20日に義弟将軍家茂は大坂城で享年21歳で病死します…その後……義弟第14代征夷大将軍徳川家茂の後を追うように……慶応2年12月25日(1867年1月30日)に享年36歳で崩御します………陵墓は従来の仏式葬の石塔から古式に改められ歴代天皇墓所の泉涌寺内に円墳を模した後月輪東山陵が築かれました……平安京最初の天皇である桓武天皇を祀る平安神宮に昭和15年(1940年・皇紀2600年)に平安京最後の天皇として孝明帝が合祀されてるんですよ!!
ちなみに……孝明帝の死因は「疱瘡」による病死と言われてるけど……あまりにも突然の急死だったんで倒幕派による暗殺説もあるんです!!孝明帝は保守的な人物で倒幕の意思が無かったんで倒幕派の首謀者岩倉具視などから存在を疎まれて暗殺されたというんですよ……「毒殺説」と「刺殺説」があるんです……
どっちにしても幕府の存在に深く理解を示してた孝明帝の崩御は「禁門の変」で鳴りを潜めた長州藩をはじめとする勤王倒幕派の勢力復活と佐幕派の衰退を招いて幕末史の大きな転換点となったんですよ!! |



