|
幼名は「歓宮」で号は「泰山」で後に「霞堂」と名乗りますw 公武合体策の一環で和宮が徳川家茂と結婚することになり婚約は破棄されちゃいます…… この事もあり新政府の成立に至るまで朝廷の反幕府・尊王攘夷派の急先鋒だったんです!!「禁門の変」の2ヶ月前である元治元年(1864年)5月9日に国事御用掛に父幟仁親王とともに任命されて朝政に参画し攘夷派の立場から京都守護職松平容保ら 幕臣たちと対立しちゃうんですよ!! 一方で「八月十八日の政変」以降に宮家出入りの商人だった枡屋喜右衛門こと古高俊太郎を通し 桂小五郎や久坂玄瑞ら勤王派の長州藩士達が藤井希璞・粟津義風・前川茂行ら有栖川宮家の 諸太夫や家臣達と複数回にわたり接触してるんですよ!! 「禁門の変」が発生した際に佐幕派から真っ先に長州藩との関係を糾弾されちゃいます!! 諸太夫の粟津が長州藩兵を扇動した容疑で京都奉行所に逮捕・拘禁されてます…… 熾仁親王自身も孝明天皇の怒りを買い父とともに解任されて謹慎蟄居を申し渡されます!! 慶応3年(1867年)1月に明治天皇が践祚すると父とともに謹慎を解かれましたw 明治天皇の信任と倒幕派の人望が篤い熾仁親王は新政府が樹立され総裁・議定・参与の 三職が新たに設けられると最高職である総裁に就任しますw その直後の慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いがおこり戊辰戦争が勃発しますw このとき賊軍の首領された徳川慶喜は熾仁親王にとって父の従弟だったんです!! そのため血縁者が朝敵となった事を恥じて自ら東征大総督となる事を志願し許可されます!! 参謀西郷隆盛に補佐され官軍は一度の戦闘もなく江戸に到着し江戸城を無血開城させます! この無血開城に勝海舟と共に尽力したのがかつての婚約者静寛院宮(和宮)だったんですw江戸滞在中に太政官制度が発足し三職は廃されて総裁職は解任されます!明治2年(1869年)に欧州を視察し明治3年(1870年)帰国し兵部卿に就任しますw 明治4年(1871年)には福岡藩知事を勤めてます!! 明治9年(1876年)に元老院議長に就任してるんですよw 明治10年(1877年)西南戦争では征討大総督に就任し共に官軍を指揮してますw 西南戦争における功により同年10月10日に陸軍大将に任命されるんですよw 明治10年(1877年)11月2日に大勲位菊花大綬章を受章してます!! 明治15年(1882年)ロシア帝国のアレクサンドル3世の即位式に出席してます!! 明治の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けてたんですよw明治15年(1882年)随行の林研海が腎臓炎で途中フランスにて享年39歳で急病死…明治27年(1894年)日清戦争が勃発すると広島大本営に下るけど……明治28年(1895年)1月15日に有栖川宮舞子別邸で享年61歳で薨去します…その前日に大勲位菊花章頸飾が贈られ薨去後に功二級金鵄勲章が贈られます!!葬儀は国葬とされ豊島ヶ岡御陵内の有栖川宮家墓所に埋葬されました…… 王子女がなく異母弟の威仁親王が有栖川宮家を継いでます……
陸軍の軍人らしく趣味は馬術と狩猟・刀剣の蒐集です!!そのほか園芸・陶芸・竹細工の製作も好んだんです!!また書道・歌道も歴代当主同様に名人とされて父幟仁親王より「有栖川流書道」の奥義相伝を受けてるんですwまた粗食家で偏食がなく酒量も少なかったんで体重は18貫(約68kg)を下回ることはなかったんですよ!!熾仁親王の薨去後に大山巌・山県有朋・西郷従道などが親王の銅像を建立することを提唱し陸海軍人や一般から資金を募って東京三宅坂の参謀本部の正門前に親王の騎馬像が建立されたんです!!この像は太平洋戦争終戦後に東京都港区の有栖川宮記念公園(上画像)に移設されてますw |
幕末の公家サン
[ リスト | 詳細 ]
|
明治天皇に仕え大正天皇の生母である柳原愛子は前光の妹ですw そんで白蓮事件で有名になった歌人の柳原白蓮サン(画像)は前光の次女なんですよ!! 前光の長女信子サンは入江為守子爵に嫁いでますw 昭和天皇の侍従長でエッセイストとしても有名だった入江相政サンは前光の孫にあたるんですw 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では東海道鎮撫副総督を務めてます!! 明治維新後は外務省に入省して外務大丞として日清修好条規を締結するんですw 明治10年(1877年)西南戦争では勅使として鹿児島入りし島津忠義・珍彦と会見してますw 明治17年(1884年)の華族令施行により伯爵に叙されます! その後元老院議官となり刑法・治罪法審議に従事してるんですよ!! また駐露公使・賞勲局総裁・元老院議長をも務めるんですw |
|
安政5年(1858年)正月に数え10歳にして従三位に叙せられたんですよ!! 安政5年(1858年)9月には権中納言・左衛門督となるんですよ!! 文久2年(1862年)正月には左近衛権中将を兼務してるんですよw 文久3年(1863年)2月には権大納言となってます!! 元治元年(1864年)2月には正三位に叙せられるんですw 元治元年(1864年)5月には16歳の若さで国事御用掛に任命されるけど…… 斡旋しようとしたんで孝明天皇の不興を買い参朝を停止されちゃうんですよ…… でも元治元年(1864年)8月には謹慎を解かれ廟堂に復帰するんです!! 慶応2年(1866年)8月には従二位に進みますw 慶応3年(1867年)3月には山陵使長官となったんですよw 慶応3年(1867年)5月12日に第15代目将軍徳川慶喜が主催した兵庫開港勅許問題を議する朝議に参加した際には会議の長さに辟易した摂政二条斉敬が散会を提案したのに対し堂々と「天皇も摂政も将軍も良しとする勅許をこの会議で決められないようでは朝廷も今日限りと存ずる」と発言しちゃうんですよ!!そんで父輔煕にたしなめられるけどこの発言がきっかけとなり慶喜の思惑通り勅許問題は解決!!慶応3年(1867年)9月11日に享年19歳の若さで急死しちゃいます……長州藩寄りだったんで左幕派による暗殺とかいろんな噂があったんですよ!!ちなみに輔政の急死で九条煕通が父輔煕の養嗣子となり家督を継いだんですw 明治17年(1884年)の華族令施行により鷹司家は公爵に叙されます!
鷹司家は五摂家のひとつで鎌倉時代中頃の藤原氏北家嫡流の近衛家実の4男兼平が祖となります!!京都鷹司室町に邸宅があったのが家名の由来なんですよ!!家紋は「牡丹」ですw戦国時代には鷹司忠冬を最後に一度断絶したけど江戸時代初期に二条晴良の子信房が鷹司家を再興し近代まで続くんですw |
|
安政5年12月元服して昇殿を許されて従五位上に叙されるんですよ! 文久2年9月には侍従に任じられ慶応2年1月正四位下に昇進します!! 王政復古の後は明治元年4月蝦夷地開拓のため箱館裁判所が設置されると 同所総督仁和寺宮嘉彰親王のもとに副総督とって閏4月総督に昇任するんですよ! ついで裁判所の箱館府改称に伴ない同月知事となってます! でも…1869年10月榎本武揚率いる旧幕府軍が箱館に来襲するに及び海路青森に撤退し11月青森口総督を兼任して旧幕府軍の攻撃に備えて同地方の政府軍を指揮するんですよ!!また反撃の諸軍を統括して参瘁したんです!そのため平定後は軍功により賞賜に与ってます!明治2年7月に蝦夷地開拓使次官に任ぜられたけど3ヶ月で辞しちゃうんです…その後は専ら学問にいそしみ大阪開成所等で研鑚を積み明治4年10月ロシアへ留学します! |
|
仁孝天皇猶子として11歳で親王宣下を受け能久親王と名乗り出家得度し青蓮院門跡を相続! 慶応3年(1867年)江戸に下って上野の寛永寺に入り日光輪王寺門跡天台座主になります!! この頃の名を『輪王寺宮公現法親王』と言うんですよw 彰義隊に擁され彰義隊は徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点に江戸治安維持活動を展開!! 輪王寺宮は1868年戊辰戦争で上野戦争を避けて東北に逃れ仙台藩に迎えられ奥羽越列藩同盟の名目上の盟主に擁立されちゃうんですよ!!お飾りワッショイ!!仙台藩が新政府軍に降伏した後は京都で蟄居を申し付けられるけど明治3年(1870年)許されて伏見宮家に復帰し“伏見満宮”と呼ばれたんです!弟北白川宮智成親王の遺言により還俗して北白川宮家を相続し『北白川宮能久親王』と呼ばれましたw還俗後は陸軍に入りドイツに留学します!帰国後は陸軍少将⇒陸軍中将に昇進してます!!また獨逸学協会の初代総裁となり後に獨逸学協会学校設立に尽力したんですよ! 日清戦争で日本に割譲された台湾平定に向かい第1師団長として出征中の台南にて… 明治28年(1895年)10月28日に享年48歳で薨去なされました…政府はマラリアによる戦病死と発表したけど抗日ゲリラによる“暗殺”だったとの説があります…いずれにせよ皇族としては初めての外地における戦没者なんです… 陸軍大将に特進後に国葬となり豊島岡墓地に葬られました!また国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり台北に台湾神社(のち台湾神宮)・終焉の地に台南神社が創建されました!敗戦後には台湾神宮と台南神社は廃社となったんで現在はその御霊は靖国神社にて祀られてます…
一時は朝敵奥羽列藩同盟の盟主となりまた台湾平定の英雄とされ不運の死を
とげた数奇な人生は日本武尊に喩えられてるんですよ… 戊辰戦争中の明治元年(1868年)奥羽越列藩同盟が仙台藩に迎えた輪王寺宮公現法親王を『東武皇帝』又は『東武天皇』と称し即位させたとする説があるんですよ(逸見英夫『東武皇帝 戊辰戦争に消えたもう一人の天皇』等)!でも佐々木克説によると奥羽列藩同盟の盟主となった輪王寺宮を天皇に推戴し年号を「大政元年」とする構想があっただけみたいです…中山吉弘説によると輪王寺宮は即位して『東武天皇』と称されてたと言うんです!!そんで年号は「延寿元年」だったと言います…この説は北東北戊辰戦争に従軍した山本八十吉の話(『大館戊辰戦史』93頁)斬殺された仙台使節の罪状書きに「尊氏の悪例」と書かれてた(『仙台戊辰史』)ことを根拠にしてるんです! |



