『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

幕末の名門旗本

[ リスト | 詳細 ]

江戸幕府における旗本の中で主に公家の血筋を引く者・足利氏一門や旧守護などの家柄の者が選ばれ儀礼や朝廷への使者が任の「高家」と禄高が1万石以下なんだけど“大身旗本”として大名と同様に参勤交代することを許され大名と同等の待遇を受けた特別の由緒ある地方の豪族とか大名家の分家・改易された大名家の名跡を継ぐもの等がなった「交代寄合」をアップしてきまーすw
http://history.blogmura.com/his_bakumatsu/img/his_bakumatsu88_31.gif
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ(文字をクリック)
記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

長谷川 宣茂

イメージ 1

長谷川宣茂は幕末の旗本

「鬼平犯科帳」で有名な鬼平こと長谷川平蔵の嫡孫なんですよw

幼名は「雄太郎」だけどいつ生まれたのか…わかんないんですよ…

文政8年(1825年)に西丸小納戸となってます!!

天保8年(1837年)には本丸小納戸となって天保10年(1839年)には御船手に就任!

上手く出世街道に乗ってこのまま行けば「組頭」になってたんですよw

でも…順調な出世街道を踏み外しちゃうんですよ…

天保14年(1843年)3月29日…

「組之者不届之儀有之…兼々心附方不宜不行届之儀…不埒至御役召放小普請入閉門」

御船手役の同僚熊倉小野右衛門と一緒に何かしでかしちゃったみたいなんですよ…

御船手役を辞めさせられちゃって小普請役に降格処分をくらっちゃうんですよ…

おまけに閉門にもなっちゃうんです…伝わってないけど…何やっちゃったんでしょ……

でも「前から思慮に欠けてる」的に言われてたんで評判の良い人ではなかったみたい…

嘉永5年(1852年)に江戸で死去しました…

嘉永5年(1852年)に出された江戸切絵図で既に「長谷川邸」は「遠山邸」となってます…

降格から死去まで9年…いつ家の所有が変わったのかはわかんないけど

この事件が家を手放す原因になったみたいです…以降の長谷川家の住居は不明なんです…


ちなみに…宣茂の子なんかもっと悲惨なんですよ…

名前すらわかんないし…石高400石は変わらないけど父宣茂のせいで家は失い

家督を継いでも“ちょい役”の小普請役からのスタートだったんです…

それでも安政5年(1858年)には頑張って「書院番」になってます!

でも時は幕末…わずか10年後には幕府は消滅し降格どころか武家でもなくなります…

そんなこんなでいつ亡くなったかもわかんないんですよ……あぁ……

長谷川家は三方ヶ原の戦いで武田軍の前に華々しく散った長谷川正長にたどり着くんですよ!!以来長谷川家は断絶する事なく徳川家旗本として様々な任務を受け持つ事となるんですwこれら先代の苦労があって「鬼平犯科帳」がこの世に生まれたんですwでも…その後の長谷川家は“鬼平”の華やかさとはちょっと結びつかない結構大変な目に遭ってたんですよ…
ちなみに鬼平こと長谷川平蔵宣以の父宣雄が『平蔵』を名乗ったのに始まり以後の長谷川家当主はみんな『平蔵』を名乗ってるんですよ!

日野 資敬

イメージ 1

日野資敬は幕末の高家旗本(大身旗本)

応仁の乱の発端となった室町幕府第8代将軍足利義政の奥サン日野富子の実家の末裔です!
正直いつ生まれたのかわかんないんですよ…

実父は丹波篠山藩主青山忠裕で通称は「鑑之助」「主税」なんですよw

そんで高家旗本日野資邦の養子になりますw官位は従五位下侍従・若狭守ですw

実兄に青山忠良とか青山幸哉らがいます!

天保8年(1837年)5月4日養父資邦の死去で家督を相続したんです!!

正室は養父資邦の娘サンで養父資邦の長男資訓を養子に迎えてますw

天保14年(1843年)8月15日将軍徳川家慶に御目見しますw

安政3年(1856年)11月15日高家職に就き従五位下侍従・若狭守に叙任しますw

万延元年(1860年)12月26日には辞職しちゃいます…

文久元年5月26日(1861年7月3日)に江戸にて死去します…

日野家は藤原氏北家流の名家の家格を有した公家ですw儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えてました!藤原内麻呂の子真夏の孫藤原家宗が伝領地である山城国宇治郡日野(京都府京都市伏見区)に弘仁13年(822年)に法家寺を建立して薬師如来の小像を祀ってます!代々この薬師如来を伝承し永承6年(1051年)子孫日野資業が薬師堂を建立し法界寺を建立!!これを氏寺とし寺は日野薬師とも言われるようになりやがて地名を家号としたのが始まりなんですよw
承安3年(1173年)に生まれた浄土真宗開祖の親鸞は一族の日野有範の子であるとされてます!!日野富子は8代将軍足利義政の室となり富子の兄勝光も政治的影響力を持ってました!富子は義政の兄弟義視の次期将軍が決まってたけど実子義尚の将軍就任を望み実家の日野家も応援し足利将軍家の家督相続争いが畠山氏や斯波氏の争いと連動して「応仁の乱」の一因となっちゃったんですよね…

宮原 義直

イメージ 1

宮原義直は幕末の高家旗本(大身旗本)

清和源氏足利流で古河公方足利高基の長男晴直の子孫なんですよ!!

いつ生まれたかわかんないんだけど高家旗本宮原義周の子として誕生しますw

通称は「勘五郎」で官位は従四位下侍従・摂津守なんですよ!!

文政10年(1827年)12月15日に将軍徳川家斉に御目見しますw

文政11年(1828年)11月4日部屋住ながらも高家見習に召し出されます!!

文政11年(1828年)12月16日に従五位下侍従・摂津守に叙任します!!

後に従四位下に昇進するんですよw

安政元年(1854年)9月27日に高家肝煎に就任しますw

安政2年(1855年)11月16日父義周の隠居により家督を相続しますw

慶応4年(1868年)3月11日には高家肝煎を辞職しちゃいます……

その後の義直の消息を……誰も知らないんですよ……あぁ……

子女として確認できるのは……次男足利聡氏(喜連川縄氏の養子で後に復籍)だけです!!

養子は義敬(実父島津忠徹)・義以(実父細川利和)・義路(実父岡部備後守)の3人です!!
宮原家は清和源氏足利流で古河公方足利高基の長男晴直の子孫なんですよ!!喜連川家とは別系統なんですよw石高は1040石なんですwなお喜連川藩主として氏春や聡氏が喜連川家に養子入りしてますw

大久保 一翁

イメージ 1

大久保一翁は幕末の旗本

文化14年11月29日(1818年1月5日)旗本大久保忠尚の子として誕生しますw

幼名は「市三郎」といい「一翁」は隠居したときの名でそれまでは「忠寛」と呼ばれてますw

12代将軍徳川家斉の小姓を勤めて天保13年(1842年)に家督を相続しますw

嘉永7年(1854年)に老中阿部正弘に登用されて目付海防掛となります!!

意見書を提出してた幕臣勝海舟を訪問してスカウトしてるんですよw

安政3年(1856年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調書頭取などを歴任しますw

駿河奉行とか京都町奉行なども務めてるんですよw

幕閣では13代将軍家定の後継を巡る将軍継嗣問題で対立がおこっちゃいます!!

大老阿部正弘死後に大老となった井伊直弼がはじめた一橋派の弾圧「安政の大獄」では京都に

おける志士の逮捕を命じられ直弼の処分に反対したんで直弼に疎まれるようになります……

一翁が志士の逮捕を担当してた部下の横暴を処分したのを志士の逮捕を怠ってるって理由で

されて罷免されちゃうんですよ……

安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変が起き大老井伊直弼が暗殺されます!!

万延2年(1861年)幕府に復帰を許されて再び幕政に参与しますw

そんで外国奉行・大目付・側御用取次などの要職を歴任します!!

政事総裁職となった福井藩主松平慶永らと交友し14代将軍徳川家茂にも仕えてるんですよw

そんで幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し政権を朝廷に返還する事を提案します!!

15代将軍徳川慶喜に大政奉還と諸大名(雄藩)を中心とした議会政治や公武合体を推進しますw

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後に若年寄・会計総裁に選出されますw

その後新政府軍が江戸に向かって進撃してくると勝海舟や山岡鉄舟らと共に

江戸城の無血開城に尽力したんで「幕府の三人柱」と称されたんですよ!!

明治元年(1868年)5月に徳川家達に従って駿河に移住しますw

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で東京へ引越しますw

新政府では東京府の第5代知事並びに政府の議会政治樹立などに協力したんです!!

もとは幕臣だったんで新政府とは常に距離を置いてたんですよ!!

明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により子爵に叙されます!

その後は元老院議官も務めてるんですよw

明治21年(1888年)7月31日に東京にて享年72歳で死去します…

低身分から出世した一翁は実力ある官僚と評価され松平慶永や勝海舟ですら敬服したと言われてるんですよ!!勝海舟の出世の方途を開いたのが一翁で元々は海舟の上司に当たるんですよwそんなんで海舟にとっては敬服というよりも恩義があり後は幕末時に共に政局混乱終息に動いた数少ない同志としての思いが強いんです!!でも…海舟のほうが重要な政局に当たったんで「一翁」の名は「海舟」ほど売れてないんです…

六角 広泰

イメージ 1

六角広泰は幕末の高家旗本(大身旗本)

大納言烏丸光広の次男広賢の子孫なんですよ!!

いつ生まれたかわかんないんだけど高家旗本六角広体の子として誕生しますw

通称は「帯刀」で官位は従五位下侍従・越前守なんですよw

弘化3年(1846年)3月29日父広体の隠居により家督を相続します!!

弘化3年(1846年)6月1日将軍徳川家慶に御目見してますw

嘉永元年(1848年)12月20日高家職に就任し従五位下侍従・越前守に叙任しますw

慶応元年(1865年)12月26日息子広運が家督を相続してるんですよね……

そんなこんなで慶応元年(1865年)に死去したみたいなんですよ……

とことん【謎】に包まれた人生なんですよね……

この六角氏は後水尾天皇の3男守澄法親王が日光山輪王寺門跡となった際に大納言烏丸光広の次男広賢が随従したまま京都に戻らず後に江戸幕府に仕えて高家に列した際に京都の六角堂に屋敷を構えたから「六角院」と名乗ったんですよ!!そんでその子孫がこれを略して「六角」家と名乗るようになったんですw江戸時代の旗本には宇多源氏佐々木氏の違う系統(織田信長と無謀にも戦って滅亡した近江の守護(戦国)大名六角家)と中御門家分家の園家の園益通を初代とする系統のものが並存してるんですよ!!幕末期に所領のあった下野国内で圧制を強いて衆議院議員田中正造ら地元住民に激しく抵抗された事でも知られてますw世に言う「足尾銅山鉱毒事件」なんですよ!!

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.

ブログバナー

まるこ
まるこ
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

歴 史!!!

標ブ

71♪

ブログのお勉強

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事