幕末の名門旗本
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江戸幕府における旗本の中で主に公家の血筋を引く者・足利氏一門や旧守護などの家柄の者が選ばれ儀礼や朝廷への使者が任の「高家」と禄高が1万石以下なんだけど“大身旗本”として大名と同様に参勤交代することを許され大名と同等の待遇を受けた特別の由緒ある地方の豪族とか大名家の分家・改易された大名家の名跡を継ぐもの等がなった「交代寄合」をアップしてきまーすw

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通称は「勘五郎」で官位は従四位下侍従・摂津守なんですよ!! 文政10年(1827年)12月15日に将軍徳川家斉に御目見しますw 文政11年(1828年)11月4日部屋住ながらも高家見習に召し出されます!! 文政11年(1828年)12月16日に従五位下侍従・摂津守に叙任します!! 後に従四位下に昇進するんですよw 安政元年(1854年)9月27日に高家肝煎に就任しますw 安政2年(1855年)11月16日父義周の隠居により家督を相続しますw 慶応4年(1868年)3月11日には高家肝煎を辞職しちゃいます…… その後の義直の消息を……誰も知らないんですよ……あぁ……子女として確認できるのは……次男足利聡氏(喜連川縄氏の養子で後に復籍)だけです!!養子は義敬(実父島津忠徹)・義以(実父細川利和)・義路(実父岡部備後守)の3人です!!
宮原家は清和源氏足利流で古河公方足利高基の長男晴直の子孫なんですよ!!喜連川家とは別系統なんですよw石高は1040石なんですwなお喜連川藩主として氏春や聡氏が喜連川家に養子入りしてますw |
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幼名は「市三郎」といい「一翁」は隠居したときの名でそれまでは「忠寛」と呼ばれてますw 12代将軍徳川家斉の小姓を勤めて天保13年(1842年)に家督を相続しますw 嘉永7年(1854年)に老中阿部正弘に登用されて目付海防掛となります!! 意見書を提出してた幕臣勝海舟を訪問してスカウトしてるんですよw 安政3年(1856年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調書頭取などを歴任しますw 駿河奉行とか京都町奉行なども務めてるんですよw 幕閣では13代将軍家定の後継を巡る将軍継嗣問題で対立がおこっちゃいます!! 大老阿部正弘死後に大老となった井伊直弼がはじめた一橋派の弾圧「安政の大獄」では京都に おける志士の逮捕を命じられ直弼の処分に反対したんで直弼に疎まれるようになります…… 一翁が志士の逮捕を担当してた部下の横暴を処分したのを志士の逮捕を怠ってるって理由で そんで外国奉行・大目付・側御用取次などの要職を歴任します!! 政事総裁職となった福井藩主松平慶永らと交友し14代将軍徳川家茂にも仕えてるんですよw そんで幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し政権を朝廷に返還する事を提案します!! 15代将軍徳川慶喜に大政奉還と諸大名(雄藩)を中心とした議会政治や公武合体を推進しますw 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後に若年寄・会計総裁に選出されますw その後新政府軍が江戸に向かって進撃してくると勝海舟や山岡鉄舟らと共に 江戸城の無血開城に尽力したんで「幕府の三人柱」と称されたんですよ!! 明治元年(1868年)5月に徳川家達に従って駿河に移住しますw 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で東京へ引越しますw 新政府では東京府の第5代知事並びに政府の議会政治樹立などに協力したんです!! もとは幕臣だったんで新政府とは常に距離を置いてたんですよ!! 明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により子爵に叙されます! |



