『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

幕末の名門旗本

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江戸幕府における旗本の中で主に公家の血筋を引く者・足利氏一門や旧守護などの家柄の者が選ばれ儀礼や朝廷への使者が任の「高家」と禄高が1万石以下なんだけど“大身旗本”として大名と同様に参勤交代することを許され大名と同等の待遇を受けた特別の由緒ある地方の豪族とか大名家の分家・改易された大名家の名跡を継ぐもの等がなった「交代寄合」をアップしてきまーすw
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筒井 政憲

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筒井政憲は幕末の大身旗本

戦国時代に「洞ヶ峠」の罵声を後世に残した筒井順慶の末裔ですよ!!
安永6年(1778年)旗本久世三四郎広景の次男として誕生します!!

寛政10年(1798年)旗本筒井正盈の養子となり後に戦国大名の末裔筒井氏を継ぎますw

官位は従五位下・伊賀守⇒和泉守⇒紀伊守⇒肥前守なんですよ!

柴野栗山に学問を学び昌平坂学問所で頭角をあらわしたんです!!

文化12年(1815年)目付⇒長崎奉行をつとめますw

文政4年(1821年)からは南町奉行を20年間務めます!!

天保年間(1830年〜43年)は政憲にとって不遇な期間でした……

但馬国出石藩の御家騒動「仙石騒動」に巻き込まれ南町奉行を免職され西丸留守居役に左遷されちゃい

さらに弘化2年(1845年)には南町奉行在任中の与力仁杉五郎左衛門の市中米買付に関係する不正

が暴露されて当時の責任者として責任を問われ留守居役を免ぜられ小普請に左遷されます…

でも学問に優れた政憲はこの間も“御儒役”として林大学頭に代わり将軍に進講したんですw

弘化4年(1847年)には老中首座阿部正弘の命で西丸留守居役に復職したんですよw

嘉永6年(1853年)7月にはロシアのプチャーチンが国書を携えて長崎に来航します!

そんでプチャーチンは樺太・千島の日露国境確定と交易開始の要望を幕府に呈したんです!!

幕府は政憲と公事方勘定奉行川路聖謨を交渉全権代表に任命して長崎に派遣しますw

「西丸留守居役」じゃ重みにかけるんで「儒役」はそのまま幕府内席次を「大目付格」に上げます!!

でも長崎での日露交渉は不調に終わりロシア側も船舶が故障したりクリミヤ戦争発生で

一時日本を離れたんだけど安政元年(1854年)再び下田に姿を見せるんです……

幕府は再び交渉役を長崎同様に政憲と聖謨とし補佐役として下田奉行伊沢美作守政義・目付松本十郎兵衛・勘定吟味役村垣淡路守定行・儒者古賀謹一郎の4人をつけるんですw

幕府も今回は本気で前回の2人じゃ役不足だったんですよね…

安政2年(1855年)12月12日苦労の甲斐あってついに下田長楽寺で日露和親条約が締結!

交渉は無事妥結し開港関係は日米和親条約を骨子とし千島列島の国境を択捉島・ウルップ島(得撫島)間と定めてロシア船の下田・箱館(現函館)への寄港・薪水食糧の発売を決めたんです!!
日本とロシアの間にある領有権問題(北方領土問題)の日本側の主張はここに根拠があるんですw
ちなみに樺太では国境をきめず両国人の雑居地としたんです!!

安政6年(1859年)に享年82歳で死去してます…

墓は東京都新宿区西新宿7−12−5にある常圓寺にあります…
 筒井氏は大神神社の神官大神氏の一族と言われてますw筒井氏は大和国添下郡筒井の土豪として大和に勢力を持ってたけど鎌倉時代以降大和国守護は興福寺が務めてます!!戦国時代に入ると興福寺の勢力が衰退し大和の国人筒井氏や越智氏の勢力が台頭してくるんですよw1467年の応仁の乱では河内国の守護大名畠山氏の抗争に巻き込まれて大和国内は混乱!!そんな中で筒井氏の当主順興は英明で大和国人衆の一人として興福寺に属しながら宿敵越智氏を討ち滅ぼして勢力を拡大し筒井氏を大和の戦国大名としてのし上げたんです!!1535年に順興は死去し嫡男順昭が後を継ぎます!!順昭も英明で信貴山城を本拠にして木沢長政と戦い遂には大和を統一し河内にもその勢力を伸ばし筒井氏の全盛期を築き上げました!

 でも順昭は1550年に28歳の若さで死去し嫡男でわずか2歳で後に「洞ヶ峠」の罵声を後世に残した「筒井順慶」が後を継ぐこととなるんですよ!!でも順慶は1584年に36歳の若さで死去!!嗣子が無いため後を養嗣子定次が継ぎます……でも……これまでの筒井氏当主の中では暗愚な人物で1608年幕命により改易され身柄は鳥居忠政預かりとされちゃうんですよ……ちなみに改易の理由は定次が酒色に溺れて政務を顧みなかったとかキリシタンだったことなどのほかに筒井氏のような外様大名を畿内に置いておくのは危険と考えた幕府の有力外様大名取り潰し政策の一環とも伝えられてるんです……そして1615年定次は大坂冬の陣で内通したから幕命により息子順定とともに自害を命じられちゃうんです……

 筒井順慶のもう1人の養子筒井定慶は家康の協力もあり定次改易後に筒井家を相続し大和郡山城1万石を領したけど元和元年(1615年)4月に大阪夏の陣が勃発し豊臣方の大野治房軍が来襲し定慶は敵わずと見て城を捨ててその後逃亡を恥じての切腹しちゃうんですよ……
 その子孫が1千石の旗本となり「筒井政憲」はその末裔なんですよ!!

竹中 重固

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竹中重固は幕末の交代寄合(大身旗本)

戦国時代に豊臣秀吉に仕えた軍師竹中半兵衛重治の嫡流子孫ですよ!!
竹中半兵衛重治から数えて14代目の当主ですw
文政11年(1828年)竹中家分家竹中彦八郎元幸の長男として誕生します!!

父元幸死後に竹中家分家の家督を相続したけど本家交代寄合竹中重明の養子となります!!

官位は従五位下・遠江守(後に丹後守)です!!

元治元年(1864年)に陸軍奉行に就任し翌年からは若年寄を兼任してるんですよ!

慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦いでは会津藩軍を率いて京へ進撃しようします!!

でも……激戦の末に官軍に敗れちゃったんで免職の上で登城禁止となってます……

純忠隊を結成し彰義隊と行動を共にするけど5月15日の官軍攻撃により壊滅します……

その後明治元年(1868年)からの戌辰戦争では二本松仙台と転戦するんですよw

仙台で榎本武揚と一緒に箱館へ向かい蝦夷共和国では海陸裁判所頭取となるんですよ!!

明治2年(1869年)箱館戦争終結前に外国船で東京へ向うけどもう戦う術もなかったんです…

結局は明治2年(1869年)5月28日養父重明の薦めで箱館で新政府軍に投降しちゃいます…

その後は除族のうえ領地を没収され家禄を失って没落します…

後に養父重明預りとなり明治4年(1871年)養父重明が北海道に入植する際一緒に同道!!

明治5年(1872年)士族の困窮を憂い北海道殖産事業の建白書を新政府に提出しますw

明治6年(1873年)一切の罪を許され東京府に召還され新政府に出仕するんですよ!!

明治8年(1875年)には辞職しちゃうんですよ……

その後は実弟竹中元賀サンが経営する「蓬英社」に入社し殖産事業に尽力したんです!

明治24年(1891年)東京にて享年63歳で死去します…菩提寺は高輪泉岳寺です…

竹中家は竹中半兵衛重治の嫡子重門が1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで当初西軍に属して大山城の石川氏を援助するけど井伊直政の仲立ちにより東軍に加わるんですよ!!そんで9月19日には伊吹山中で小西行長を捕らえる功を挙げて関ヶ原の地が竹中家の領地だった事も合わせて美濃国岩出5千石を安堵されたんですよ!さらに寛永2年(1625年)には美濃国不破や河内国数郡を与えられ6千石に加増されたんですwちなみに豊後国府内藩2万石で後に2代で改易されちゃった竹中家はこの系統じゃなくて竹中半兵衛重治の従弟竹中重利の系統なんですよ!!寛永11年(1634年)2月22日に重利の子重義が密貿易など職務上の不正を訴えられ改易・廃絶となっちゃったんです……

今川 範叙

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/3e/6c/me468646/folder/1188778/img_1188778_23138764_0?20060606011417

今川範叙は幕末の高家旗本

戦国時代に「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元公の嫡流子孫ですよ!!
今川義元公から数えて13代目にして今川宗家24代目にして最後の当主ですw
文政12年(1829年)高家旗本今川義順の3男として誕生します!!

天保12年(1841年)8月4日父義順の死去により家督を相続しますw

嘉永3年(1855年)10月28日高家職に就任します!!

幕末時の当主今川範叙は高家でありながら最後には若年寄にもなってます!

官位官職は従五位下侍従兼刑部大輔ですw

高家として徳川家と官軍との講和や江戸城の無血開城に尽力します!

慶応4年(1868年)3月27日に新政府東征軍に対し徳川家の助命嘆願書を提出してますw

明治元年(1868年)5月28日に旧高家ということで中大夫となり触頭に就任します!!

明治2年(1869年)2月18日新政府の命令により神田橋の屋敷を上知するんですw

明治2年(1869年)3月24日屋敷の上知にともない新政府から500両を賜るんです!!

明治3年(1870年)11月には家臣らに暇を出しちゃうんですよ…

明治4年(1871年)2月病気のために触頭を解任されます…そんで家禄を失って没落します…

明治5年(1872年)6月22日には嫡子今川淑人にも先立たれちゃってます…

明治8年(1875年)1月28日に観音寺住職から義捐金20円を受け取ってますw

こうして明治20年(1887年)11月3日範叙の死によって今川家は断絶しちゃいます…

転載元転載元: 『母を訪ねて3000円』

武田 崇信

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武田崇信は幕末の高家旗本

戦国時代に諸国大名から畏怖された武田信玄の次男海野信親が祖の武田家嫡流子孫ですよ!!
武田信玄から数えて11代目の当主ですw
文政10年(1827年)実父は武田信典として誕生します!!

養父は武田信之で通称は「采女」といい官位は従五位下侍従・大膳大夫なんですよ!!

嘉永元年(1848年)11月28日将軍徳川家慶に御目見しますw

安政4年(1857年)8月12日部屋住ながら高家見習に召し出されます!

安政4年(1857年)9月28日従五位下侍従・安芸守に叙任し後に大膳大夫に改めますw

安政4年(1857年)10月28日高家職に就くんですよw

安政5年(1858年)11月24日養父信之の隠居により武田宗家の家督を相続しますw

慶応4年(1868年)3月11日には高家職を辞任しちゃうんですよ……

明治維新後に家禄を失って没落します…没年もなんもかんもが不詳で謎なんですよ!!

大正期に下橋敬長の語った高家旗本の話で明治維新後に没落し「他所の二階におるというような」事例であげられてる「武田大膳大夫正四位上左近衛少将」が“武田崇信”と推測されるんです……でも実父信典の官位と崇信の通称を混同しちゃってますwなお崇信は養子信任を迎え武田宗家を存続させたんですよ!
 武田信玄の次男竜芳(海野信親)は盲目で出家してたんで武田家滅亡の難を逃れたんですよwその子孫は竜芳の子武田信道が大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流罪する不幸もあったけどその子信正の代で許されて元禄14年(1700年)に幕臣となり高家として仕えたんですよ!その後大正3年(1914年)大正天皇御大典を期に武田信玄が従三位に叙せられた際に海野信親系の当時の当主信保に信玄の位記宣命が渡されてるんですよw以後この家系が信玄に最も近い正統とされ現当主武田昌信サンへ受け継がれ現在に至ってるんですよ!!
 ちなみに……武田信玄の5男の仁科盛信の長男信基と次男信貞の家系も徳川旗本として江戸時代を乗り切り2系とも現在も存続してます!!武田信玄の7男の安田信清は姉婿上杉景勝の下へ逃れ後に武田姓に復し代々上杉家に仕えたんですよ!!武田信玄の弟川窪信実の子信俊は家康に仕え旗本となり後に武田姓に復してるんですよ!!!
画像は……武田家にちなんで躑躅ヶ崎館跡です……

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