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明治3年(1870年)東京遷都に伴い一家で東京に引越します! 明治4年(1871年)父實則は明治天皇の侍従となります! 訓蒙学舎・学習院・学農舎などに勉強しますw 明治9年(1876年)11歳の頃から小石川薬園(現東京大学小石川植物園)や御成門の 開拓使博物館に通って動植物への興味を持つようになるんですよ!! 明治10年(1877年)に学習院に入学します! そんで昆虫の標本作りに熱中するんですよ!! 博物学を志して神田の共立学校(現開成中学校・高等学校)に通います! そんで大学予備門への入学を目指してたんですw 明治12年(1879年)に母嘉年子が死去します…明治16年(1883年)父實則の勧めで英彦山神社座主高千穂家を継ぐ事になります…だから学業を中断して18歳で英彦山神社の宮司となるんです!明治17年(1884年)6月13日の華族令施行により男爵に叙されます! ちなみに…進学を断念してけど豊かな彦山の大自然は宣麿を満足させますw 宣麿は連日連夜彦山の生物の採集と観察に熱中したんですよ! 明治33年(1900年)英彦山神社の社務所付近に高千穂昆虫学実験所を設立! 明治35年(1902年)コーネル大学留学を終えた桑名伊之吉を迎えます!! 明治37年(1904年)2月6日から日露戦争が勃発します!そんで「高千穂昆虫学実験所」を「九州昆虫学研究所」と改称するんです!明治39年(1906年)1月7日叔父西園寺公望が内閣総理大臣に就任しますw明治40年(1907年)貴族院議員に選ばれ東京に引越します!大正2年(1913年)東京帝室博物館(現東京国立博物館)天産部で昆虫標本を整理! 大正7年(1918年)迄農商務省農事試験場で桑名達と害虫の飼育研究を行います! 大正8年(1919年)6月4日に東京にて父實則が享年81歳で死去します…大正12年(1923年)9月1日午前11時58分関東大震災が起きます!!大正14年(1925年)60歳の時に彦山に戻るんですw昭和9年(1935年)研究所の全てをを九州帝国大学(現九州大学)に寄付します! そんで「九州昆虫学研究所」を「九州帝国大学彦山生物学研究所」と改称します! そこで宣麿自身も研究所で嘱託として勤務したんですよw 昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋事件が起り日中戦争が勃発!昭和16年(1941年)12月8日真珠湾攻撃で日本がアメリカに宣戦布告!昭和21年(1946年)8月15日に日本が連合国に無条件降伏!昭和22年(1947年)5月3日日本国憲法が施行されます!それに伴い「華族令」が即日廃止されて男爵じゃなくなります…
昭和25年(1950年)12月23日に英彦山にて享年85歳で死去します…英彦山神宮は福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社です!日本有数の修験道の霊場として栄えたんですよ!!「天忍穂耳尊」を主祭神として「伊佐奈伎尊」・「伊佐奈美尊」を配祀してるんです!「英彦山」という山名は社伝では天照大神の御子天忍穂耳尊を祀ったんで「日子山」と呼ばれるようになったとされてますw弘仁10年(819年)に僧法蓮が山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と書かれてるのを見て当山を再興し「日子山」を「彦山」に改めたと伝わってます…その後12世紀より天台宗に属し西国修験道の一大拠点として栄えました!元弘3年(1333年)後伏見天皇の第8皇子長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えて以降座主は世襲制となり社家高千穂家はその末裔なんです!! |
名家のその後(幕末)
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お父サンは森鴎外でお母サンは海軍中将赤松則良男爵の娘登志子サンで長男として誕生しますw でも…両親はそのあとすぐに離婚しちゃうんですよ… 明治24年(1891年)8月に父鴎外が医学博士の学位を授与されます! 明治26年(1893年)11月父鴎外が陸軍一等軍医正になり軍医学校長になります!! 明治27年(1894年)から翌年まで日清戦争に軍医部長として父鴎外は出征します… 明治32年(1899年)6月父鴎外が第十二師団軍医部長になり九州小倉に赴任します! 実は…これは「左遷」だったんです… 明治35年(1902年)1月に父鴎外が裁判官判事荒木博臣の長女志げサンと再婚しますw 継母志けサンも小説家なんですよ! 明治36年(1903年)1月に異母妹茉莉が誕生します! 異母妹茉莉サンも父鴎外と同じ小説家となってますw 明治40年(1907年)8月に異母弟不律が誕生します! 明治42年(1909年)5月には異母妹杏奴が誕生します! 明治44年(1911年)2月には…異母弟類が誕生してるんですよw ちなみに…杏奴サンも類サンも文学の世界に進んでるんですよ! でも…於菟は父鴎外の医学者としての素質を受け継いでたんです!! 特に解剖学を専門としてとてもよく勉強したんです!! 大正8年(1919年)に長男真章(実際は片仮名表記でマックス)が誕生しますw 昭和20年(1945年)の終戦迄台北帝国大学(現台湾大学)の医学部教授を勤めるんです! 下画像の左側が10歳の時の森於菟サンですw
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旧名は「後藤五三郎」とその後山田家に養子入りして「吉利」と改名したんです! 養父である先代浅右衛門吉兼の隠居に伴い「第7世山田朝右衛門」を襲名します!! 弘化4年(1847年)に養父吉兼が出家しているので襲名はその前だと思います! 安政5年(1858年)4月から大老井伊直弼による『安政の大獄』が始まります!!そんで多くの尊皇攘夷派・一橋派等の反対派が弾圧されたんです…吉利はこの頃ある意味で大忙しだったんです… 安政6年(1859年)10月7日に小塚原刑場で橋本左内を斬首します!! 同じ日に儒学者頼三樹三郎も小塚原刑場で斬首してます!! 安政6年(1859年)10月27日に江戸伝馬町の獄で吉田松陰を斬首します!! この頃には「死刑執行人」を兼ねるようになってたんです… そんで人々からは「首切り朝右衛門」とも呼ばれてたんです… 吉利は据物斬り以外にも刀剣鑑定に優れてたんですよw だから公儀御用の他に御三家御用とか公儀腰物拝見役も拝命したんです! 公儀腰物拝見役なんて徳川幕府開幕以来【本阿弥家】のみの専任だったんで 先例格式を重んじる当時でも極めて珍しい稀な特例だったんです!! こんな事は歴代山田朝右衛門達にはなかった事で凄く名誉な事でした! だから家譜(「源姓山田家系譜」)に『先祖に先例無き特典なり』と添書きしてますw そんで吉利はこれに伴う扶持米を「先祖より浪人の分にて」と辞退するんです… 元々「公儀御様御用」は幕府公式の役職じゃないんですよ… だから幕府から知行を得てもなかったんで身分はあくまでも【浪人】なんです! 慶応3年(1867年)に大政奉還により本当の【浪人】になっちゃいます… 明治元年(1868年)5月27日市政裁判所から「市政裁判所附」を命じられます! 明治2年(1869年)山田家伝来の名刀「備前長船景光」を宮内省に献上します!} これは楠木正成の帯剣という「楠籠龍ノ太刀」の異名のある稀代の名刀です! 宮内省は奇特な行為として500円を下賜したんですよ! {現在で言うと1000万円程の大金なんですよ! だから献上じゃなくて明治天皇による買い上げと見る説もあるんです!! 明治2年(1869年)に隠居し家督を長男浅雄に譲りますw そんで麹町平河町(現東京都千代田区)の本宅から清水谷上の隠宅へ引越しますw 明治3年(1870年)4月15日新政府は山田家家伝製薬「山田丸」等の販売を禁止!人間の肝臓は人胆丸という高価な漢方薬で専売権を代々許可されてたんです!この副業は本業以上の収益をあげてたんですよ!! 実は…死刑執行そのもので利益を得る事って無かったんですよ…報酬は刀剣の鑑定に対するもので死刑執行は刀剣の鑑定や切れ味の見極めに必要な試し切りと言う位置づけだったんですよ!それに…その刑死体を手に入れる事が出来ればその刑死体で試し斬りが出来るし試し切り1回で死刑執行の代金の10倍以上もの礼金を手にする事が出来たんです!!公儀御様御用は年に1〜2回程度で刀につき10両(現在の26万円程)の手当が支給され年に50両(現在の130万円程)以内だったんですwちなみに刀剣鑑定の手数料は1刀につき金100疋内外(現在の3円程)だったけど後に手数料から礼金へと性質が変わって諸候・旗本・庶民の富豪愛刀家から大きな収入を得てたけど…やっぱし「山田丸(人胆)」の収入が殆どで【浪人】の身でありながら4万石程の大名に匹敵する程裕福だったんです!!
だから「山田丸」等の販売を禁止は山田家の経済面で大打撃だったんです… 明治5年(1872年)の新政府の戸籍編成に際して吉利は隠居のまんま一家を 新たに興して販売禁止の「山田丸」のみを吉利の家へと分けたんですよ! やっぱし大きな収入源を失う事な痛いですよね… でもその金を死んでった人達の供養や貧民の救済等に惜しみなく使ったんですw また代々の山田朝右衛門達が建立した寺院は現在も東京に幾つか残存してますw 麹町区の「除籍簿」には「平民」と記載されてるんですw 明治11年(1878年)紀尾井坂(現東京都千代田区紀尾井町)で大久保利通卿を 暗殺した犯人達の処刑を行ってます!! これを最後に養子吉亮に「第8世山田朝右衛門」を襲名させるんですよ! 明治12年(1879年)1月31日に高橋お伝が養子吉亮に斬処刑されます!! これが結果として『日本最後の斬首刑』となったんです! それと東京都港区白金2丁目7−19にある「正源寺」にもあります… 遺言で葬儀は「勝興寺」で行い遺体は「正源寺」としたからなんです… ちなみに…「正源寺」は実家である後藤家の菩提寺だったんです… 戒名は「天寿院慶心和水居士」です… 「山田朝右衛門」は江戸時代に公儀御様御用という刀剣の試し斬り役を務めてた山田家の当主が代々名乗った名前です!後には死刑執行人(斬首役)を兼ねるようになったんです!山田家では実子でも剣の腕のない者には「山田朝右衛門」の名跡を継がさず養子を立てたんです!!ちなみに…公儀御様御用は幕府の公式の役職じゃないから幕府から知行を得てもなかったんで身分は正式な幕臣じゃなくてあくまでも【浪人】です!! |
観世清孝は幕末から明治期の能楽師で観世流22世宗家天保8年(1837年)に観世流21世宗家観世左近清長の子として誕生しますw天保13年(1842年)に父清長が死去します…その後を受けわずか5歳で家督を継ぎ観世流22世宗家観世左近を襲名します!慶応3年(1867年)に長男清廉(後の観世流23世宗家)が誕生しますw 明治2年(1869年)徳川家達に随従して静岡に移り住むんです! 元々旧幕府の儀式芸能となってた「能」は維新後廃絶の危機に瀕したんです!! 明治5年(1872年)に能・狂言の「皇上ヲ模擬シ上ヲ猥涜」すると禁止されます… そんな訳で生活は貧困を極めてたんですよ… 明治6年(1873年)に次男元義(後の7代片山九郎右衛門)が誕生しますw そんな中で新政府の岩倉具視らは日本にも外国要人を持成す為の西洋のオペラのようなものが必要と考えて「能」を復興させる事にしたんですよ!!
明治10年(1877年)東京での能楽再評価の流れに合わせて上京します!! しばらくは湯島天神下の知り合いの元に身を寄せてたんです… でも…この間初世梅若実・5世観世銕之丞(観世紅雪)らが東京で能の復興に尽力してたんです!この為に免状発行権を巡って紛争が生じちゃうんですよ…この紛争は結局ドロ沼化しちゃうんですよ… 長男清廉はまだ若かったんで以前免状で揉めた観世紅雪が後見に立つんですw 芸祖は【観阿弥】です!!その子の世阿弥が室町幕府3代将軍足利義満の寵愛を受けて「能」を大成したんです!流内の名家としては観世宗家・分家観世鉄之丞家(鉄仙会を主宰)・さらにその分家である観世喜之家(九皐会を主宰)・梅若六郎家(本家)・梅若万三郎家(分家)・江戸期以来禁裏御用の能楽師として盛名を馳せた片山九郎右衛門家・家元直系でありつつ観世流の古風を残す橋岡家等が挙げられます! |
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幕府御用鉄砲鍛冶職8代目国友藤兵衛重倫がお父サンなんですよ! 幼名は「藤一」で号は「一貫斎」「眠龍」です! 天明7年(1787年)に9歳で父重倫に代わって「藤兵衛」と名乗ります! 寛政7年(1795年)17歳で鉄砲鍛治の年寄脇の職を継ぐんです! 文化8年(1811年)彦根藩の御用掛となります!! そんで二百目玉筒を受注する事になったんですw 受注金額は450両…現在の金額で約1700万円だったんです! でも国友村の年寄4家は自分達を差し置いての取引に異議を申し立てます! そんで長ーい抗争(彦根事件)に発展しちゃうですよ… 重恭は江戸に召喚され奉行所で取り調べを受ける事にもなっちゃいます… この頃に江戸で反射望遠鏡を見る機会がありましたw 文政元年(1818年)でも重恭の高い技術力が認められ年寄側に勝訴しますw そんで41歳で年寄格に進み幕府御用国友鉄砲鍛冶集団の総代となったんですw 文政2年(1819年)オランダから伝わった風砲(おもちゃの空気銃)を元に実用の威力を 持つ強力な空気銃「気砲」を製作するんですよ! その解説書として「気砲記」を著し後には20連発の早打気砲を完成させます! その後家督を嫡男元俶に譲って天体望遠鏡の製作と天体観測に勤しんでますw 天保3年(1832年)頃からグレゴリー式反射望遠鏡の製作を開始します!! 当時日本で作られてた屈折望遠鏡よりも優れた性能の望遠鏡でした! 口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡だったんですw 同時代の英製同形式望遠鏡の2倍の倍力を持ち像も鮮明と言う高評価を得てたんですよw 後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人の為に大名家等に売却されたんです… 国内に4台現存し上田市立博物館や彦根城博物館等に保管されてるんですよw その他に玉燈(照明器具)や御懐中筆(万年筆・毛筆ペン)とか鋼弩・神鏡(魔鏡)など数々の物を 発明し作り出したんですよw 天保6年(1835年)に自作の望遠鏡で太陽黒点観測をかなーり長期に渡って行い 他にも月や土星とかのスケッチも残してます!! 日本の天文学者の先駆けの一人なんです!
天保11年(1840年)12月3日に国友村にて享年63歳で死去します…ちなみに…明治に入り直孫11代目国友藤平能恭以降は鉄砲鍛冶を廃業しました…【国友藤兵衛家】は戦国時代より日本有数の鉄砲の一大産地となってた近江国国友村(現滋賀県長浜市国友町)で年寄脇(年寄の次席)を勤める御用鉄砲鍛冶の家の一つなんですよ!「辻村家」とも言いますw初代辻村(国友)藤内は美濃国の鍛冶師の出身で永正年間に近江国国友村に移り住んだと言われてます!その跡を継いだ2代目以降の当主の多くが「国友藤兵衛」を名乗ってます!!他の国友鍛冶職人は『重當』の銘を用いるのが通例だけど藤兵衛家のみ『能當』の銘を用いてたんですよ!
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