名家のその後(幕末)
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文久元年(1861年)叔父山縣有朋の養子となり山縣家を継ぎますw 元治元年(1864年)禁門(蛤御門)の変が起こり長州藩は朝敵となり長州征討の勅命が!!! 慶応2年(1866年)の第2次長州征伐が起きます! 慶応4年(1868年)の戊辰戦争が起こります! 明治4年(1871年)に長州より上京します! そんで岩倉遣外使節団に随行してドイツに留学するんですよw 帰国後法制局参事官に任じます!! のちに愛知県や東京府の書記官を経て徳島や三重の県知事になるんです!! 明治22年(1889年)に義父山縣有朋が内閣総理大臣に就任します!逓信省管船局長・内務省地方局長・内務省総務長官・内務次官なども歴任したんです!!明治31年(1898年)に第2次山縣内閣が発足します! 明治39年(1906年)〜明治41年(1908年)第一次西園寺内閣の逓信相を務めてます! 明治41年(1908年)辞任して貴族院議員となりますw そんで韓国副統監や朝鮮中枢院議長にもなってるんですよw 大正9年(1920年)には関東(満州)長官になってます! 大正11年(1922年)に枢密顧問官に任じられますw 大正11年(1922年)2月1日に東京にて養父有朋が享年84歳で死去します…維新の元勲として国葬が行われたけど義父有朋の人気は生前からとっても低かったんで参列したのは陸軍や警察の関係者がほとんどで一般の参列はあんましなかったんです… それを受けて65歳で家督を相続し公爵に叙されます! 大正14年(1925年)答礼使として仏領印度支那に派遣され日仏国交のためにつくしますw |
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お母サンは伏見宮邦家親王の4女嘉枝宮和子女王なんですよ! 明治3年(1870年)東本願寺が新政府から請け負った北海道開拓事業の責任者として 父厳如の指示により百数十名の随員を従え北海道へ渡り本願寺道路の建設などの 開拓を推進するんですよ! 明治4年(1871年)に本願寺道路が開通しました! ちなみに…【本願寺道路】とは現在の北海道札幌市豊平区平岸〜北海道伊達市長和の間を結ぶ道路で現在の国道230号線の基礎となったんですよ!途中「定山渓温泉」を経由してます!まるこ的には『石山通り』って通称がしっくりきますwまた布教の拠点として東本願寺札幌別院を建立してます! 明治5年(1872年)9月から明治6年(1873年)7月の間にかけてヨーロッパ各国を 歴訪し宗教事情を視察し教団の近代化に寄与します! 明治12年(1879年)に父厳如は“禁門の変(元治元年(1864年))”で焼失した 東本願寺の堂宇の再建を発願し再建工事の着工を表明します! 明治22年(1889年)に父厳如が隠居し37歳で家督を継ぎますw 明治27年(1894年)1月15日に父が享年78歳で死去します…明治29年(1896年)には華族令により神職・僧職中で最高位の伯爵に叙されます!親鸞聖人を祖とする浄土真宗は戦国時代に天下布武を目指す織田信長と軍事的・政治的決戦である「石山合戦(石山10年戦争)」を繰り広げた戦国時代の最大宗教的武装勢力である石山本願寺の第11世門主顕如と不仲だったその長男教如に代わって次男准如が第12世門主に立てられたのをきっかけに教如が独立して「東本願寺」を建立したんです!!そのため准如の本願寺(西本願寺)と教如の東本願寺とに分裂しちゃって東本願寺側を真宗大谷派と旧来の本願寺(西本願寺)側を浄土真宗本願寺派と呼ぶようになったんです!!
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本名は「佐久間恪二郎」なんですよ! ちなみに「三浦姓」は義母順(勝海舟の妹)の姓なんですよ!! 元治元年(1864年)に父象山に随身して入洛します! 元治元年(1864年)7月11日に父象山が京都で享年53歳で暗殺されちゃいます…この時父象山の門弟山本覚馬に仇討ちを勧められ新選組へ入隊します!!入隊後は局長近藤勇の側近となり他の平隊士よりも丁重に扱われたんですw でも…次第に父譲りの傲慢さが露わになるんですよ… そんで芦谷昇達と共に粗暴を働くようになるんです… だから副長土方歳三や沖田総司からは終始目を付けられちゃうんですよ… 慶応2〜3年(1866〜67年)頃に芦谷と共に新選組を脱走しちゃいます! でも…それ以前に土方が松代藩への帰藩を促した事もあったんです! だけど啓之助自身は松代藩への帰藩を拒否してます!! 明治維新後に「恪」と改名します! そんで「象山の息子」だって事を利用して司法省に出仕します!『親の七光り』です!! でも…警察と喧嘩を起こしちゃって免職となるんです… |
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幼名は「勇吉」なんですよw 維新の功労者伊藤博文と梅子夫妻の養嗣子となります! ドイツに留学したりして一生懸命勉強しますw 明治18年(1885年)に養父博文が初代内閣総理大臣に就任します! 明治20年(1887年)4月20日養父博文夫妻主催で仮装舞踏会が行われます! 明治25年(1892年)に帰国して宮内省に出仕します!! そんで式部次長・主馬頭・式部長官を歴任します! 明治37年(1905年)11月の第二次日韓協約で養父博文が初代韓国統監に就任します! 明治39年(1907年)9月21日これまでの功績で養父博文が公爵となります! 明治42年(1909年)10月26日にハルビン駅で養父博文が享年69歳で暗殺されます…明治43年(1910年)11月4日に養父博文の国葬が営まれます…そんでその後を受けて家督を相続し公爵になり貴族院議員にもなったんです! 貴族院議員を辞職後は日本銀行監事・生活改善同盟会長・厳島保勝会総裁を歴任しますw 大正13年(1924年)東京にて養母梅子が享年76歳で死去してます…昭和3年(1928年)11月京都御所にて昭和天皇の「即位の大礼」が行われます!その際に式部長官として奉仕しますw 昭和4年(1929年)に宮内庁を退官します!39年間に渡り宮中で奉職しましたw
昭和6年(1931年)に東京にて享年62歳で死去します…昭和14年(1939年)からの3年間常陸宮正仁親王殿下や清宮貴子内親王(現島津貴子サン)も伊藤公爵家の別荘独楽荘(画像)で冬期を過ごされ試験場にも来られミカンを転がして遊んだんですよ!第二次大戦後は本宅が空襲で焼失したんで暫く伊藤家の面々はここで生活をされたみたいですw
林家は越智氏の流れを汲むと称してます!江戸時代に林家は代々農業を営んでたんですよ!伊藤博文の父十蔵が伊藤家の養子に入ったんで「伊藤姓」を称するようになったんです!!また『日本の上流社会と閨閥』には「元々伊藤の家は水呑百姓で父親十蔵は馬車ひき等をしてたけど食い詰めて長州藩の伊藤という仲間の家に下僕として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った!博文は幼名を利助と言い捨て子だったという説もある!!それが武士の端くれから明治の指導者に出世すると家系が気になり出したのか孝霊天皇の息子伊予皇子の3男小千王子が祖先とか河野通有の子孫とか言い出した!…偉くなってからの彼は故郷へは殆ど帰らなかった…昔の素性を知る者には頭が上がらないからである…」と記されてるんですよ! |




