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兄に山川浩・姉に山川二葉・妹に山川捨松(元帥大山巖公爵の妻)がいます!! 万延元年(1860年)父重固が病気で死去し兄浩が家督を継ぎます…慶応2年(1866年)兄浩は江戸幕府の使者と同行しロシアに渡航しますw慶応4年(1868年)の戊辰戦争では白虎隊に入隊して転戦してます! 会津若松落城後は猪苗代にて謹慎してたんですが… 越後に脱走しちゃって結局は長州藩士奥平謙輔の書生となるんです!! 明治3年(1970年)斗南藩再興で兄浩は大参事(家老職)となりますw この時妹捨松も岩倉使節団で女子留学生のひとりとして渡米しますw 明治8年(1875年)イェール大学で物理学の学位を取得し帰国します! 明治9年(1876年)東京開成学校(現東京大学)教授補になってます! そんでアメリカ人ピーテェル・ベダルの助手を務めたんですよ! 明治12年(1879年)日本人として初の物理学教授になりますw 明治14年(1881年)妹捨松が帰国し陸軍大将大山巖公爵と結婚します! 明治37年(1904年)勅選の貴族院議員となり男爵になるんです! 会津藩に対する「忠誠心」は壮年期以降は「愛国心」に転じます!!そんで同年勃発した日露戦 争の時には既に東大総長だったにも関わらず帝国陸軍参謀本部に『一兵卒として従軍させ ろ!!』と押し掛けちゃって人事担当者を困惑させたって言うエピソードもあるんですよ!明治38年(1905年)日露戦争後に新政府を非難した教授達が処分を受ける事件 (戸水事件)が起こりそれに連座して東大総長を辞任しちゃうんですよ… そんで明治40年(1907年)安川財閥の明治専門学校(現九州工業大学)の設立に 協力し同校の総長にもなってます! |
名家のその後(幕末)
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父は当時薩摩藩下級藩士だった大久保利通で母は満寿子で利和は3男として誕生しますw 幼名は「彦熊」とか「彦之進」なんですよw 文久元年(1861年)10月22日に次弟牧野伸顕が誕生しますw 慶応元年(1865年)4月13日に三弟利武(後の養子)が誕生しますw 明治4年(1871年)13歳の時父利通・次弟伸顕と一緒に岩倉遣欧使節団に加わり渡米w 帰国後は開成学校(後の東京大学)に入学してるんですよ! 明治10年(1877年)に勃発した西南戦争で父利通は新政府軍を指揮してます!! 明治11年(1878年)5月14日に父利通は紀尾井坂(現東京都千代田区紀尾井町)で石川県士族島田一郎らにより享年48歳で暗殺されちゃいました…これを「紀尾井坂の変」と言います…明治11年(1878年)12月父利通暗殺の7ヶ月後に母満寿子も死去します…父利通の死後は父利通の8千円もの借金が残ってたんです…借金のために利和ら遺族はすぐにでも屋敷を出なければならない状況だったんです… 新政府は協議の末に父利通が生前鹿児島県庁に学校費として寄付した8千円を回収し さらに8千円の募金を集めて計1万6千円で利和ら遺族を養うことになったんです! 明治14年(1881年)の日本鉄道株式会社の発足に23歳で関与しますw これがやがて政府管轄の東京〜横浜間も統合して大きくなり国鉄になり現在のJR各社に至るんです!!
その後沖縄に鉄道を敷く夢を持ち出すんですよ! 明治17年(1884年)7月の華族令施行で父利通の維新の功で候爵に叙されます! その後は大蔵省主計官・貴族院議員などを務めてますw 明治27年(1894年)沖縄鉄道として那覇〜首里〜与那原間の鉄道敷設を出願します! これが沖縄県内で初の運輸営業鉄道の計画なんですよ! 明治28年(1895年)には建設区間を那覇〜首里〜与那原〜佐敷間に拡大して再出願!! 明治29年(1896年)沖縄鉄道とは別に那覇〜首里間の電気鉄道敷設も出願しますw 明治30年(1897年)12月に「沖縄電気鉄道」は許可されたんです! 明治31年(1898年)に頑張ったんだけど「沖縄鉄道」は却下されちゃいます… 明治33年(1900年)9月資金難で着工できず「沖縄電気鉄道」の事業廃止を届け出ます… 明治39年(1906年)に那覇〜首里間の「電気鉄道敷設」を再び出願!! 続いて首里〜与那原間や那覇〜北谷間も出願しちゃうんですよw 明治40年(1907年)に許可されたけど資金不足のため免許も失効しちゃいます… その後沖縄には鉄道が敷かれる事なく約100年後である平成15年(2003年)8月の沖縄都市モノレールが運営する沖縄都市モノレール線(ゆいレール)が開業を待つ事になるんですよ!
昭和3年(1926年)6月5日後継ぎがなかったんで三弟利武を養子とし家督を譲りますw この10日後に侯爵位も譲り67歳で隠居したんですよw その後は悠々自適に余生を過したんですよw |
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兄に徳大寺實則公爵(宮内大臣)・西園寺公望公爵(第12・14代内閣総理大臣)がいて 住友友純男爵(15代住友吉左衛門〜住友財閥総帥)もいたんですよw 弟には中院通規伯爵がいますw 初め兄公望がフランスに留学する事が決まった際に遠い異国で公望の身に何かが 起こらないとは限らないと憂慮した父公純の命で兄公望の養子に入ります! だけど若年で名門西園寺家の後継者となったんで素行が悪く父公純や兄達の怒りを 買って廃嫡されて母方の末弘家を継ぐことになり民籍に下って末弘姓を名乗ったんです… その後は奮起して学問に励み茨城県官僚から朝日生命の監事として財界に籍を置きます! 明治33年(1900年)貴族院議員中川小十郎が開設した京都法政学校(現・立命館大学)の 会計監事に就任します!! ちなみに…中川小十郎は兄西園寺公望公爵の秘書官だったんですよw その後財団法人立命館の設立者として学園理事となりますw
大正8年(1919年)6月4日に兄徳大寺實則公爵が東京にて享年81歳で死去しました…昭和2年(1927年)8月に京都にて享年67歳で死去しました…在職中に死去するまで学園の運営に尽力してたんですよw |
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幕末の長崎で蘭学を学んだんですよw 文久2年(1862年)の幕府派遣オランダ留学生(榎本武揚ら)に伊東玄伯と共に 随行して直接オランダで医学を学んだりもしてるんですよ!! 慶応3年(1867年)に妹たつと先に帰国してた榎本武揚が結婚してますw 明治元年(1868年)12月榎本ら海軍留学生らとは約1年9ヶ月遅れてに帰国します!! でも…江戸幕府が既に崩壊してしちゃってたんで新政府に出仕します! 'そんで大日本帝国陸軍軍医本部長に就任したんですよ!! 明治15年(1882年)有栖川宮熾仁親王に従ってロシア帝国のアレクサンドル3世の 息子若吉(若樹)は医学の道に進まなかったけど「江戸学の開拓者」として知られてますw そんで三田村鳶魚・三村竹清と並んで「江戸通の三大人」と呼ばれたんですよw
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幼名は「里之介」とか「鉄之介」「直之進」なんですよw 元服し家督を継いだ折は「四郎左衛門」を襲名します!! 母方の叔父には戸田忠太夫・安島帯刀とか水戸藩の重臣がいたんですよ! 従弟には戸田銀次郎がいました!他に同母妹・異母兄弟もいたんですよw 天保9年(1838年)水戸藩主徳川斉昭により新設された床机廻に任ぜられます!! 天保12年(1841年)5月に大番組となりますw 弘化元年(1844年)には小納戸役に昇任したんですよw 嘉永3年(1850年)には武芸指南の功で白銀を賜ってます! 安政元年(1854年)家督を継いで「四郎左衛門」を襲名したんですよ! そんで町奉行を拝命し尊皇攘夷派に与する様になったんです… 安政元年(1854年)4月米国船舶の横浜入港時に床机廻を率いて江戸の水戸藩邸を守衛!! 文久元年(1861年)東禅寺事件に際して領内取締不行届きで免職しちゃいます…文久2年(1862年)6月に歩行頭として復活するんです!元治元年(1864年)天狗党の乱が起きた際には水戸藩主徳川慶篤が乱の鎮定のため 支藩である宍戸藩主松平頼徳を目代として派遣したけどこれに尊王派が従軍したんで 水戸城に拠る諸生党が宍戸藩主松平頼徳の入城を拒否しちゃうんです! 親賢は天狗党の総督だった榊原新左衛門の幕下として宍戸藩主頼徳一行に従軍してたけど 水戸城下についた時に入城拒否が発端で『頼徳&天狗党』と『諸生党』との間で 神勢館の乱が起こるけど幕府軍が諸生党に加担したんで頼徳は幕府に降伏します… 天狗党の大将榊原新左衛門も「幕府軍と戦うのは本意ではない」と降伏しこれに従います… 親賢はその後古河藩に預けられたんです… この時父親長は水戸城の東の栗崎村の民家に隠れてたけど諸生党の追手に見つかり切腹して果てたんですよ…享年71歳だったんです…慶応元年(1865年)4月5日(1865年4月29日)に享年51歳で切腹となります…墓地は父親長同様に栃木県水戸市松本町常盤共有墓地です…明治24年(1891年)には贈正五位を受けてるんですよ!
里見八犬伝で有名な安房里見氏当主である里見義成の次男義直の家系に出羽国に移住して勢力を築いた一流があるんですよ!南北朝時代に出羽国成生庄に扶植した里見義景には子がいなくて同じ源義国の家系で足利氏の一門斯波家兼の3男義宗を養子としたんですw里見義宗は家督を継ぐと「天童氏」と称し里見氏の一門を家臣団として編成して勢力を拡大していったんですよ!こうして新田系の家系ながら足利氏の血をひく事となった天童氏は上之山氏・東根氏・鷹巣氏という庶流を領内各地に移住させて支配権を確立してったんです!!南北朝時代から室町時代にかけての出羽国南部は斯波家兼の次男最上兼頼にはじまる最上氏が国人を統合し支配圏を固めてて兼頼実弟の養子入りした天童氏に対しても従属化を求める様になるんです…でも天童氏は斯波氏から養子をとっただけで家系は新田氏の一門であるんで一定の独立を維持してたんですよ!天童氏は延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生家らとともに最上八楯を形成し最上氏や出羽に侵攻をたくらむ伊達氏と対抗していってたんですよ!最上義光が羽州探題として勢力を拡大していくにつれ天童氏にも従属化を求めるけど天童氏がこれに従わなかったんで最上と天童の間で戦さが起こっちゃいます…そんで停戦に及んだ最上義光は天童氏との講和を結び天童氏の娘サンと結婚して縁戚となり油断をさせて天童氏を滅ぼしちゃってその家臣団をも吸収したんですよ… 以後天童氏の一門や配下は最上家臣として最上家の覇道に貢献してゆく事になるんです…宗家「天童氏」の滅亡により最上家臣となった里見一族は最上家の勢力拡大に貢献するけど最上家親の代に御家騒動が勃発し幕府の命により改易しちゃいます…最上家臣だった里見義親は改易で一時松平筑前守に再仕官するけど主筋の山野辺義忠が水戸藩に仕官したのにともない自らも水戸藩に仕官する事となったんです!
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