横井小楠は幕末の儒学者・思想家(熊本藩士)鎌倉幕府執権職を世襲した北条得宗家の第14代目執権北条高時の末裔ですよ!!文化6年8月13日(1809年9月20日)熊本藩士横井時直の次男として熊本城下に誕生w号は「小楠」で通称は「平四郎」で諱は「時存」なんですよ!! 正式な名のりは「平時存」「北条平四郎時存」「北条四郎平時存」なんですよw 天保8年(1837年)29歳で藩校「時習館」の居寮長(塾長)に抜擢されます!! 天保10年(1839年)江戸遊学を命じられてるんですよw その時には水戸藩士藤田東湖と面会して意見を闘わせたりもしてるんですw でも……お酒の席で失敗しちゃって熊本へ呼び戻されちゃうんです……熊本では研究会を主宰し文章や字句の解釈だけの熊本藩の儒学に対し現実に根ざした学問のあり方を示したりしてるんです……これが「実学党」の起こりなんです!! 嘉永5年(1852年)に福井藩の求めに応じ「学校問答書」という建白書を書きますw 吉田松陰は嘉永6年(1853年)には直接会いに熊本まで来てるんですよw 安政2年(1855年)沼山津に転居し私塾「四時軒」を開き多くの門弟を輩出しますw 文久2年(1862年)幕府の政事総裁松平慶永(春嶽)に政治顧問として招かれ江戸に出仕しますw 鎖国体制・幕藩体制を批判し新しい国家と社会の構想を「公共」と「交易」の立場から模索!! 「公共性」「公共圏」を実現するため「講習討論」「朋友講学」という身分階層を超えた討議を 政治運営のもっとも重要な営為として重視したんですよ!! 「交易」を重視する立場から外国との通商貿易をすすめ産業の振興をも「交易」として捉えて 国内の自律的な経済発展の方策を建議し幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いてます!! 福井藩の藩政改革や公武合体運動を推進して「雄藩連合」を構想したんですよ! でも……文久2年(1862年)12月に熊本藩江戸留守居役らと酒宴中に刺客に襲われて同僚の熊本藩士を見捨てて一目散に逃げ出しちゃってるんですよ……お酒での失敗が多いですね……そのため文久3年(1863年)に熊本藩士の資格を剥奪され一平民となりました……元治元年(1864年)には幕臣勝海舟の命により坂本龍馬が訪ねてきてます!! 坂本龍馬の他にも井上毅・元田永孚など維新の立役者や中枢の多くが訪問してるんですよw 慶応4年(1868年)には新政府に参与として出仕しますw
明治2年1月5日(1869年2月15日)参内の帰途で十津川郷士らにより暗殺されます…享年61歳……殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしてる」…………全く事実無根なものだったんですよね……京都南禅寺天授庵に埋葬されました……横井家は桓武平氏北条氏嫡流(北条得宗家)に発するんですよ!!第14代目執権北条高時の遺児北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し時行の4世孫にあたる横江時利の子横江時永が「横井姓」に改めたのがはじまりなんですwその子孫は時勝・時延・時泰・時安〜と続いたんですよ!!そんでもって執権北条氏の子孫として代々祖先の通字だった「時」の字を名乗りに用いたんです!!家紋は「丸に三つ鱗」なんですよw |
名家のその後(幕末)
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近藤勇五郎は幕末の天然理心流剣術の第5代目宗家幕末を駈け抜けた新選組局長近藤勇の甥であり婿養子なんですよ!!嘉永4年(1851年)に新選組局長近藤勇の実兄宮川音五郎の次男として武州上石原村に誕生w旧姓は「宮川」で諱は「信休」なんですよw 叔父近藤勇の天然理心流剣術に入門し宮川家の道場で稽古します!! 文久3年(1863年)近藤勇が京都へ出立する際に勇の一人娘たまの許嫁となります!! その後は松井つね・たま母子と共に生活してたんですよw 慶応4年(1868年)戊辰戦争時に勇処刑の知らせを聞いた勇五郎は板橋で処刑を目撃!! すぐさま郷里へ立ち帰り実父宮川音五郎と共に板橋処刑場に赴き泣く泣く勇の遺体を 掘り出して持ち帰り宮川家の菩提寺である龍源寺に埋葬したんですよ…… その後つね・たま母子と共に本郷村成願寺に身を隠してたんですよw 明治9年(1876年)近藤たまと結婚して剣術道場「撥雲館」を新設します! 明治16年(1883年)長男久太郎が誕生しますw でも……3年後の明治19年(1886年)6月28日に妻たまが享年25歳で死去します…その後国分寺のたよサンと再婚するけど姑つねとの相性が悪くて2年半程で離婚しちゃいます!!次にかしサンと結婚したんですよ!……なんと「X3」なんです!! 明治38年(1905年)に長男久太郎が日露戦争で享年22歳で戦死します…昭和初期に小説家子母澤寛(本名:梅谷松太郎)の取材を受けて幕末当時の回顧談を語ってますwちなみに子母澤寛(本名:梅谷松太郎)は北海道出身で祖父は彰義隊員だったんですよ! 明治2年(1869年)の箱館戦争に敗れてからそのまま梅谷家は北海道に定住してたんですw
昭和8年(1933年)2月23日に享年83歳で死去してます…天然理心流は遠江国の近藤内蔵之助が寛政年間頃に創始し江戸に道場を構えたのがはじまりです!!第2代目三助が江戸はもとより現在の多摩地方や埼玉・神奈川まで広範囲に普及させたんですよ!!江戸時代後期に第3代目近藤周助の養子である第4代目宗家近藤勇が京都で新選組を結成した事で知名度を上げたんですw剣術の他に居合術・柔術・棍棒術・気合術を含む総合武術であり技量に応じて入門から切紙・目録・中極意目録・免許と進み指南免許を得ると門人を集め道場を開く事が出来るんですよ!!現在は近藤勇や勇五郎の生家宮川家の子孫宮川清蔵サンが第9代目宗家道統を継いでます!! 天然理心流公式ホームページ |
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佐倉藩御典医で順天堂を営む佐藤泰然の次男で実弟には外務大臣林董がいますw ちなみに父泰然が営む蘭医塾「順天堂」は「順天堂大学」の前身なんですよw 幼名は「佐藤順之助」で嘉永3年(1850年)に幕医松本良甫の養子となります!! 安政4年(1857年)に長崎でオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトに 医学伝習で医学等のいろいろと蘭学を学んじゃうんですよw ちなみに良順が学んだ「長崎医学伝習」は「長崎大学医学部」の前身なんですよw 文久3年(1863年)緒方洪庵が死去し後任として西洋医学所頭取になります!! ちなみに良順が頭取となった「西洋医学所」は「東京大学医学部」の前身なんですよw 元治元年(1864年)新隊士募集の為に江戸にいた新選組の局長近藤勇が良順の屋敷を訪れますw 慶応元年(1865年)には新選組西本願寺屯所を訪ねて近藤勇と再会してるんですよ!! そんな事で会津藩の下に京都の治安維持の為に活動してた近藤勇とは親交があったんですw そんなこんなで新選組隊士の診療も行ってます!! 慶応2年(1866年)幕府軍は長州征伐で敗退しちゃってます… この時大阪城で将軍御典医として将軍徳川家茂の治療をしその臨終を見取ってます!! 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では奥羽列藩同盟軍の軍医になります!! そんで会津藩校「日新館」を病院とし負傷者の治療に尽しますw そのまま戦後は一時投獄されちゃうけどその後間も無く赦免されます!! 明治4年(1871年)に従五位を受けてからは「松本順」と名乗りますw そんで陸軍大輔山県有朋などの薦めで明治6年(1873年)初代陸軍軍医総監となりますw 牛乳や海水浴などの普及なんかも行ってたんですよ!! 明治18年(1885年)には日本最初の海水浴場が神奈川県大磯照ケ崎に開かれますw 明治23年(1890年)貴族院の勅撰議員なども務めたんですよ!! 明治38年(1905年)には男爵に叙されます! 隠居してから号を「蘭疇」とか「楽痴」とも称してますw ちなみに著作には『蘭疇』『通俗医療便法』などがありますw |
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文政7年(1824年)に家督を継いで6歳で水戸藩の重臣となりますw 天保4年(1833年)からは水戸藩主徳川斉昭の小姓となってます!! 斉昭からは水戸藩の若年寄や御勝手改正掛に任じられてるんですよw 天保13年(1842年)からは24歳で水戸藩執政(家老)となるんです! 当初は人物聡明にして主君徳川斉昭や天狗の一派からも好感を受けてたんですw でも……名門中の名門に生まれた寅寿は育ちは良くて陰湿な人物じゃないけど…… 名門に生まれたが故の誇りから生来保守的な性格の持ち主だったんです…… 加えて持ち前の聡明さから上士層により形成された佐幕派の保守層の支持を受けちゃって 次第に台頭して藩内に「結城派」なる一派を形成するほどの勢力を築いちゃうんですよ!! そもそも水戸藩では上士層を中心に左幕の「諸生派」と尊皇の「天狗派」にわかれてて 代々藩内で闘争を繰り返してたんですよ!! 第8代目藩主徳川斉脩の死後に諸生党では幕府との関係を親密にするために将軍徳川家斉の 庶子を養子に迎えようとするけど中下士層を中心とした一派が先代斉脩の弟斉昭を推したんで 斉昭が藩主に就任したという経緯があったんです!! だから上士層は水戸藩主の抵抗勢力となってたんですよね…… でも斉昭はその聡明さから上士・中士や下士でも優秀な人材を積極的に登用したんですよw 寅寿は有力上士の一人として天狗派の跋扈する水戸藩政に反発し保守層の勢力挽回のため 革新的な政策をとる斉昭やその腹心たる藤田東湖・戸田忠太夫らをはじめとした尊皇派と 次第に対立を深めてっちゃうんですよ…… 寅寿は中士・下士層を中心に形成された尊皇派の台頭を防いで藩内の親幕府勢力を回復するため 藩士そして斉昭と改革派の失脚を実現させて水戸藩の実権を掌握し斉昭の後を継いだ徳川慶篤の もとでは専横の限りを尽くしたんです!……それはダメです!! でも弘化3年(1847年)幕府の介入で寅寿も失脚し隠居処分に処せられます……でもかつて失脚してた斉昭や改革派の恨みは凄まじく斉昭や改革派がやがて復帰すると嘉永6年(1853年)寅寿は拘禁されちゃうんですよ…… でも……寅寿は水戸藩の支藩高松藩の藩主で幕府内においては彦根藩主井伊直弼(大老)ら 保守派との関係が深い松平頼胤が宗家の家督を欲しているのを知って徳川慶篤の暗殺を図り 頼胤を藩主に迎えようと画策するんですxxx でも暗殺計画が露見しちゃって寅寿はその3年後に死罪に処せられたんです…… 安政3年(1856年)4月に享年39歳で死罪で亡くなったんです……寅寿の子種徳も拘禁されてて絶食のために獄死してます……結城氏はこれで藩士としては滅亡の憂き目を見ることになっちゃいます……ちなみに……その後の結城氏は水戸藩士大森氏から養子を迎えるんですよw そんで水戸藩領内の久慈郡においてその名門の家系を伝えたんです!!
結城氏は鎌倉〜室町時代から続く関東の名家であり同じく古くから関東に栄えた小田氏などとともに「水戸藩の御三家」と並び称された家柄ですw結城氏が水戸藩士として仕官した後は歴代の重役を務める1千石の知行を以って遇されその格式を保ってたんです!!結城秀康は結城宗家であり水戸結城氏は庶流となる白河結城氏の末裔なんですよw白河結城氏嫡流の末裔は秋田藩士として幕末まで存続したんですw |




