『母を訪ねて3000円』

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名家のその後(幕末)

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本因坊 秀栄

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本因坊秀栄は幕末から明治の囲碁棋士(17&19世本因坊)

嘉永5年(1852年)土屋平次郎秀和の次男として江戸に誕生しますw

兄は15世本因坊秀悦で弟土屋百三郎は16および20世本因坊秀元です!!

文久2年(1862年)父12世林門入の養子となり「林秀栄」と改名します!!

慶応3年(1867年)10月29日16歳で家督を許され「林家13世」となりますw

明治3年(1870年)江戸本所相生町の本因坊邸全焼しちゃいます……

  囲碁4段の秀栄は伊藤松和7段と十番碁を打つんですよ!!
  明治5年(1872年)村瀬秀甫と一緒に美濃・尾張・伊勢を経て大阪を遊歴しますw
  明治9年(1876年)中川亀三郎と十番碁・小林鉄次郎と二十番碁・藤田方策と十番碁を打ちますw
  明治10年(1877年)黒田俊節と十番碁を打ちますw

明治12年(1879年)4月20日東京で本因坊家の門人で当時の棋界の第一人者村瀬秀甫7段と

中川亀三郎6段が中心となり方円社が「囲碁研究会」として発会されますw

これを記念した方円社発会記念対局に秀栄もまた安井算英5段などの家元側の棋士と参加!!

でもしばらくして家元の権威を認めない方円社のやり方に強く反発し方円社を脱会!!

方円社と村瀬秀甫に対抗するようになっちゃうんですよ……

明治12年(1879年)9月下旬に16世本因坊秀元・井上因碩らと謀り方円社社員である

門下の段位を剥奪しちゃって対立は決定的になったんです!!

明治17年(1884年)には林家を廃絶させ本因坊家に復帰してるんですよw

そんで弟本因坊秀元を隠居させ「十七世本因坊秀栄」を名乗るんですw

明治17年(1884年)12月21日村瀬秀甫と十番碁を開始します!!

明治19年(1886年)7月30日に秀栄は方円社と和解して村瀬秀甫の8段を正式に認め

同時に本因坊を秀甫に譲って自らは「土屋秀栄」を名乗るんです……

18世本因坊となり即日に5段だった秀栄に7段を贈るんですよw

その後小笠原島に渡りそこで「1万局の布石」を作って厳しい修行に明け暮れたといいます!!

明治19年(1886年)8月6日秀甫との十番碁は秀栄の先で打ち分けとなります!!

明治19年(1886年)10月14日に東京にて本因坊秀甫が享年49歳で死去します…

秀栄は再び本因坊家を継ぎ19世本因坊となるんです!!

明治25年(1892年)囲碁奨励会第1回手合を催してますw

明治27年(1894年)6月『定石・囲碁新法』(二巻:大倉書店)を出版しますw

明治29年(1896年)石井千治と明治30年(1897年)安井算英と十番碁を打ちますw

明治31年(1898年)3月に8段に進み明治33年(1900年)雁金準一と十番碁を打ちますw

明治38年(1905年)8月「日本囲棋会」を創設したんですよ!!

明治39(1906年)年6月には9段・名人となりましたw

この頃「お粥に湯を足して腹を膨らませた」という貧窮状態に健康を蝕まれてます!!

そんで喘息が悪化して(老人性結核とも)…………

明治40年(1907年)2月10日に東京にて享年56歳で死去します…

明治40年(1907年)9月「日本囲棋会」は解散します…
秀栄は跡目を定めなかったんで田村と雁金の間で本因坊継承問題が起こってます!!実力では田村が雁金を上回ってたけど秀栄は田村を嫌ってたからとされてます……誰にも文句を言わせぬ人望と棋力を持ってた秀栄が何の意思表示もしなかったのは「本因坊になりたければ実力で勝ち取ればいい」と思ってたのかもしれません……幕府の庇護を失った家元の権威を守るのは真に実力だけだというのを身に染みて知ってたのは秀栄自身だったのかもしれません……
本因坊家は江戸時代の囲碁の家元4家のうちのひとつです!!囲碁4家元・将棋方3家の中で絶えず筆頭の地位にあったんですw本因坊の名は日海(一世本因坊算砂)が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来するんですよ!!「本因坊」はもとは上方風にて「ほんにんぼう」と読んでたけど囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになったんですw

市川 團十郎

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9代目市川團十郎は幕末から明治に活躍した歌舞伎役者

天保9年10月13日(1838年11月29日)に7代目市川團十郎の5男として誕生しますw

本名を『堀越 秀』といい生後まもなく河原崎座の河原崎権之助の養子になります!!

天保13年(1842年)父(7代目團十郎)が「天保の改革」に触れて江戸10里四方追放に…

嘉永7年(1854年)8月6日に兄(8代目團十郎)が享年36歳で自殺しちゃいます……

安政6年(1859年)3月23日父(7代目團十郎)が享年69歳で死去しちゃいます……

そんなこんなで「團十郎」を継ぐことを期待されてました!!

明治7年(1874年)についに「市川團十郎」を襲名するんです!!

文明開化の時代にあって従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志しますw

明治10年代(1877〜86年)には時代考証を重視した劇に取り組んだんですよw

それは生きた歴史の意味で「活歴」と呼ばれてたんですよw

活歴の興行的失敗で古典的な江戸歌舞伎に回帰し地方のドサ回りに身を落とす体験もしてます…

でも明治20年(1887年)に明治天皇の御前で歌舞伎を演ずる栄誉に浴します!!

外務大臣井上馨邸で行われた史上初の「天覧歌舞伎」で勧進帳などを演じたんです!!

これによって俳優の社会的地位の向上にもつながったんですよw

 https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/3e/6c/me468646/folder/1025983/img_1025983_30044990_10?20060811002336.jpg 歌舞伎座

明治22年(1889年)に東京都中央区銀座4丁目に歌舞伎座が開場されますw

そんで5代目尾上菊五郎と初代市川左團次らとに大いに劇界を盛り上げ「團菊左時代」を築きます!!

歌舞伎の近代化に努め「劇聖」とも呼ばれたんですよw

同時代に名狂言作者河竹黙阿弥を得て数多くの名作を残してるんですよw

5代目尾上菊五郎は明治36年(1903年)2月18日に享年59歳で死去してます…

尾上菊五郎と同年の明治36年(1903年)9月13日に享年64歳で死去してます…

その後「市川團十郎」の名跡はしばらく継がれなかったんですよ……

長女実子の夫5代目市川三升は中年を過ぎてから銀行員から役者に転じたんで芸は大成せず

本人もそのことをよくわきまえてたけど市川宗家をよく守ったんですよ!!

そんで「解脱」「不破」「象引」「押戻」「嫐」「七つ面」「蛇柳」等の廃絶してた歌舞伎十八番を

復活上演するなど意欲的な活動を行ってるんです!!

5代目市川三升が昭和31年(1956年)2月1日に享年71歳で死去します…

その告別式で9代目市川海老蔵が「10代目團十郎」を追贈したんですw
「市川團十郎」は歌舞伎役者の名跡のひとつで市川團十郎家の当主名なんですよw屋号は「成田屋」で定紋は「三升」「杏葉牡丹」なんですよw当代で12代目を数え歌舞伎の名跡のうちではもっとも権威のあるもののひとつとされ全市川姓および歌舞伎市川流の宗家とされてます!!通常は新之助・海老蔵を経て團十郎を襲名することが多いんですw市川家の祖は重蔵の子初代市川團十郎で祖先は甲州武士の出身で後北条家の家臣とされてます!!後北条家の滅亡後は下総国で郷士となり重蔵の代に土地を処分し江戸へ出たみたいなんですよw「面疵の重蔵」・「菰の重蔵」の異名をもつんですよ!!でも……重蔵が非人出身とする説もあってその意味での「お菰(乞食・コジキ)」・「菰の重蔵」と呼ばれたともいわれてんですよ!!

大正8年(1919年)江戸歌舞伎ゆかりの地である東京都台東区浅草の浅草寺境内に「劇聖」と謳われた9代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像がありますwこの銅像は近代彫塑の先駆者である新海竹太郎サンの傑作で歌舞伎の象徴として全国の人々から親しまれてます!!

千家 尊福

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千家尊福は幕末の出雲大社大宮司(第80代出雲国造)

弘化2年(1845年)8月6日出雲大社の祭主家である出雲国造家に生まれましたw

明治5年(1872年)出雲大社大宮司となります!!

でもこのとき「大教正」の職を兼ね神道西部管長に補せられたんです!!

明治6年(1873年)各地にあった出雲大社の信仰集団である出雲講や甲子講などを統合して

「出雲大社敬神講」を組織し「出雲大社教会」と改称しちゃいますw

そんで「御巡教」と呼ばれる布教活動を積極的に全国各地に展開するんですw

明治11年(1878年)には出雲国造第80代を継ぎます!!

明治13年(1880年)高潮に達し神道界を二分した祭神論争では当時の大教宣布運動の拠点であり神道の布教の中心的機関だった神道事務局神殿に大国主大神の表明合祀をめぐって尊福を中心とする「出雲派」はその合祀を主張するけど結果的には認められなかったんですよ…更には政府により明治15年(1882年)1月に神官と教導職が分離され神官の葬祭関与が禁止されちゃって尊福は神道の布教の重要性を意識し出雲大社宮司としての神徳布教の不可能を察知し自由な立場で宗教活動を展開するんです!!

明治15年(1882年)には出雲大社宮司を弟尊紀に譲っちゃうんですよ……

一派特立の認可を得て神道大社派と教名を改め「大社教初代管長」として神道のため尽力しますw

以後「神道大社教出雲大社教」・「出雲大社教」と教名を改称し現在に至るんです!!

そんなこんなで「大社教管長」は千家国造家が襲職してるんですよw

明治17年(1884年)華族令施行で男爵になってます!

明治21年(1888年)には大社教初代管長も辞めて元老院議官となりますw

明治23年(1890年)には貴族院議員に選ばれその後4回も当選してるんですよ!!

その間文部省普通学務局長を務めたり埼玉・静岡県知事・東京府知事など任じますw

明治39年(1906年)日露戦争の戦役中の功で勲一等旭日大授章を授けられますw

その後明治41年(1908年)西園寺内閣の司法大臣になってるんですよw

大正7年(1918年)1月3日に東京にて享年74歳で死去してます…

大正7年(1918年)特旨により正二位に進められたんですw
神話では出雲氏の始祖は「天穂日命」であり大国主命が国譲りをした際に自らを祀る出雲大社の創建を条件とし出雲氏の祖先が奉仕するようになったといわれてますw実際は大化改新の以後に出雲国東部(意宇郡)への世俗的支配権を失った出雲氏が律令制下で宗教面を管理する役職となり国造に改めて任命されて出雲大社をその支配下におくようになったと考えられてます!!その後現在に至るまで出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が世襲してるんですwなお出雲国造家は南北朝時代以降は「千家氏」と「北島氏」の2家に分かれそれぞれ出雲国造を名乗り幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担してます!!現在では千家氏は「出雲大社教」を北島氏は「出雲教」とそれぞれ宗教法人を主宰してます!!出雲大社自体は神社本庁の傘下であり宮司は千家氏が担ってるんですよ!!
映画『陰陽師2』で安倍晴明(野村萬斎)と戦う術師幻角(中井貴一)は元出雲国造との設定ですね!!

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千 瑞翁

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千瑞翁は幕末の茶道表千家の第11代目家元

天保7年(1837年)第10代目茶道表千家家元千吸江斎の子として誕生しますw

号は「碌々斎瑞翁宗左」で幼名を「与太郎」で後に「宗員」を名のり別に「碧雲軒」の号があるんです!

安政2年(1855年)父吸江斎の隠居により18歳で家元となり「宗左」と名のります!!

襲名の後まもなく明治維新をむかえ紀州藩主の禄をはなれまた茶道も衰微しちゃうんですよ…

裏千家の玄々斎・官休庵の一指斎とも力を合わせ千利休以来の家元を守るべく尽力しますw

茶道の復興目指して社寺における献茶奉仕の道をひくんですよw

明治13年(1880年)北野天満宮・北野御旅所において茶会を催してるんです!!

また「明恵小人650年忌」の献茶を栂尾高山寺で催してるんですよw

これらは今日盛んに催される献茶のさきがけだったんですよーw

明治20年(1887年)には京都御所で明治天皇にお茶を差し上げてなす!!

明治20年(1887年)を過ぎる頃から茶道への関心も次第に起こるんですよーw

明治23年(1890年)には「利休居士300年忌」を催したんですよw

明治25年(1892年)に隠居し長男宗員(惺斎)に家督を譲り「宗旦」と名のり

長男第12代目家元惺斎とともに協力して今日の表千家の基礎を作ったんですよ!!

明治39年(1906年)に70歳の時に家元の一部を消失しちゃいます……

明治42年(1909年)には社中や職家の懸命の努力により残月亭などを復興したんです!!

明治43年(1910年)1月に享年74歳で死去します…

 茶の湯の大成者である千利休の没後に千家は第2代目千少庵・第3代目千宗旦と続きます!!第3代目宗旦の息子江岑宗左は第3代目宗旦の隠居に伴い継嗣として不審菴を継承しますw第4代目宗左は千家の直系を継いだんだけど第3代目宗旦は千家の屋敷の裏に「今日庵」を建てて隠居所としたんですよ!!第3代目宗旦の死後に「今日庵」を仙叟宗室が受け継いで独立して“裏千家”が成立したんです!!後にさらに分かれて現在は「三千家」となり今日に至ってるんですよw

 江戸時代には紀州藩の庇護を受けてて第4代目宗左は茶の湯に造詣が深く利休の直系である第4代目宗左を重用した初代紀州藩主徳川頼宣の招きで紀州徳川家に仕えたんですよ!!以後歴代家元は代々紀州藩主に使えたけど第9代目了々斎は化政文化の時代に「数寄の殿様」と呼ばれ風雅を愛し一流の文化人を紀州和歌山に招いた従一位大納言徳川治宝に用いられたんですよw治宝は利休茶道の皆伝を受けるほどで第9代目了々斎の晩年には治宝を家元とし茶事を催したりもしてるんですよ!!現在の表千家表門はこの頃紀州徳川家が建てたものなんですよ!!治宝は第9代目了々斎の後を継いだ第10代目吸江斎に第9代目了々斎から預かってた皆伝を授けたんですよwちなみに紀州で表千家の茶道は藩主から庶民にまで広がり現在でも和歌山県では表千家の茶道が盛んなんだそーですw

大谷 光尊

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大谷光尊は幕末の浄土真宗本願寺派(西本願寺)の第21世門主

嘉永3年(1850年)2月4日に第20世門主広如上人の5男として誕生しますw

安政4年(1857年)には関白九条尚忠の養子となりますw

万延元年(1860年)に11歳の時に剃髪して新門跡(次期門主)の兄光威(徳如)の付弟となり

新々門跡(次々期門主)と称し即日法眼に叙せられ大僧正に任じたんですよ!!

法名は「明如」です!!

父光沢(広如)や兄光威(徳如)を助けて国事に努めてますw

元冶元年(1864年)3月に朝命により亀山帝の山陵修復をします!!

またしばしば朝廷に献金するなど一門末徒に対して常に尊王を諭してたんです!

元治2年(1865年)禁門の変で傷ついた長州藩兵をかくまい反幕の疑いをかけられるんです!!

そんでもって監視も含めて慶応元年(1865年)4月から慶応3年(1867年)頃までの間

不動堂村に移るまで本願寺は「新撰組」の屯所だったこともあるんですよ!!

ちなみに新撰組が不動堂村に屯所を移す費用は本願寺が全額負担したんです!!

慶応3年(1867年)には賀茂川荒神口に新橋を架けてるんですよw

明治元年(1868年)3月に明治天皇が大坂に行幸すると先発して行宮を護衛します!!

明治4年(1871年)8月に父光沢(広如)が死去しちゃいます…

明治4年(1871年)には養父九条尚忠も享年74歳で死去してます…

そんで明治4年(1871年)10月に22歳で家督を相続し法主となります!!

明治6年(1873年)には真宗四派管長の職に就きますw

明治9年(1876年)12月27日に長男光瑞(第22世門主鏡如)が誕生しますw

神仏分離令に端を発した全国に広まった廃仏毀釈(排仏)運動には念仏者として教部省に反抗!!

いち早く海外の宗教事情を視察させて議会制確立など本山改革や宗制・寺法の改定・宗門教学の

振興や国内外での布教・慈善活動に献身して生涯皇室と密接な関係を持ったんですよw

西欧の三権分立をまね立法(宗会)・行政(宗務所)による施策決定システムを持ったんです!!

これはのちに明治新政府の構築のモデルともなったんですよw

明治29年(1896年)には華族令により神職・僧職中で最高位の伯爵に叙されます!

明治35年(1902年)長男光瑞は教団活動の一環として西域探検のためインドに渡ります!!

明治36年(1903年)1月18日に享年54歳で死去されてます…


親鸞聖人を祖とする浄土真宗は戦国時代に天下布武を目指す織田信長と軍事的・政治的決戦である「石山合戦(石山10年戦争)」を繰り広げた戦国時代の最大宗教的武装勢力である石山本願寺の第11世門主顕如と不仲だったその長男教如に代わって次男准如が第12世門主に立てられたのをきっかけに教如が独立して「東本願寺」を建立したんです!!そのため准如の本願寺(西本願寺)と教如の東本願寺とに分裂しちゃって東本願寺側を真宗大谷派と旧来の本願寺(西本願寺)側を浄土真宗本願寺派と呼ぶようになったんです!!

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