朝倉景行は幕末の志士(水戸藩士)天保7年(1836年)父水戸藩士朝倉源七郎広政と母山田吉忠の姉の長男として誕生!!越前国を支配し織田信長と対立し滅ぼされた戦国大名朝倉氏の末裔ですよ!!本姓は「日下部氏」で通称は「源太郎・源太衛門」ですw安政4年(1857年)尊皇志士として国事に奔走しつつ床机廻に抜擢されてます!! 文久3年(1863年)2月に藩主徳川慶篤が上洛すると扈従し孝明天皇の賀茂神社行幸や 石清水八幡宮行幸に随行し文久3年(1863年)4月に江戸に帰府してますw 元治元年(1864年)1月には水戸藩歩行目付に任ぜられてるんですよ!! 元治元年(1864年)3月に水戸藩内で「水戸天狗党の乱」がおこります…… 元治元年(1864年)6月景行は水戸藩内の親幕勢力「諸生党」を排除しようと有志とともに 大挙して江戸にのぼり小金に同志とともに集結するんです!!! 沈静化するために下向するとこれに随って頼徳の命を受けない諸生党と戦うんですよ!! でも幕府は親幕府勢力である諸生党に味方し藩主名代頼徳はおろか尊皇攘夷派を賊軍とみなされて討伐の対象とされちゃうんですよ……元治元年(1864年)10月23日に天狗党主力部隊の大将榊原新左衛門が幕府軍に降伏する中で景行は潮来勢を率いて戦い続けて武田耕雲斎・田丸稲之衛門・藤田小四郎らと 合流し水戸天狗党として志士たちと運命をともにすることにしちゃうんです…… でも水戸天狗党は越前国敦賀において加賀藩軍に降伏しちゃうんです……
慶応元年2月4日(1865年3月1日)に景行は志士3百余名らと処刑されます…享年29歳…敦賀で処刑された志士たちは多くは故郷水戸に墓が建立されたんだけど……奇しくも景行は祖先朝倉氏が大名として治め滅びた越前国の地で静かに眠るんですよ!!墓所は福井県敦賀市松原にあり位階は贈正五位なんですよ…家系は戦国大名朝倉氏10代当主朝倉孝景の6男朝倉時景(11代当主朝倉義景の弟)が父孝景と対立し没落しちゃってその子之景が関東の雄後北条氏の家臣となるんですよ!!天正元年8月20日(1573年9月16日)朝倉宗家は織田信長により滅亡しちゃいます!!のちに後北条氏も滅亡しちゃって子孫は備前国に移住した者と後に水戸藩に仕官した家とに分かれますw景行の家系は水戸藩士となった家です!! |
名家のその後(幕末)
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尼子久贇は幕末の志士(水戸藩士)弘化3年(1846年)父水戸藩士尼子長三郎久恒と母神戸信重の女の長男として誕生!!戦国時代に山陰地方に覇を唱えた戦国大名尼子氏の末裔ですよ!!本姓は「源氏」で通称は「久次郎・長蔵」ですw武勇に秀で神発流砲術に長けてて尊皇志士として国事に奔走してるんですよ!! 元治元年(1864年)3月水戸藩の尊皇攘夷派が守旧勢力の諸生派を打倒するため 田丸稲之衛門・藤田小四郎を大将に挙兵しちゃうとこれに呼応するんですよ!! これが「水戸天狗党の乱」のはじまりなんですw 久次郎は高道祖原や水戸の藤柄口にて諸生党と合戦に及ぶんですw 久次郎ら天狗党も頼徳軍を援護して戦ったんですよw
でも久次郎は部田野原の戦いで負傷し元治元年(1864年)10月23日に天狗党の将榊原新左衛門が幕府軍に降伏すると久次郎もこれに従ったんですよ……久次郎は久留里藩に禁固となっちゃうんですよ……元治元年12月17日(1865年1月14日)戦傷のために享年19歳で獄中に亡くなったんです……墓所は茨城県水戸市常磐共有墓地です……位階は贈従五位なんです……尼子氏は宇多天皇を祖とする宇多源氏の家系で佐々木氏の支流京極氏の一族で重臣でもあったんですよ!!佐々木高秀の次男高久の代に「尼子」を称するようになったんですw尼子氏は永く京極氏の分家筋という地位から京極家の重臣として重きをなし京極氏の領地である北近江半国と出雲国のうち詮久が北近江半国をその弟持久が出雲国に住し京極家の領国支配を支えるようになってます!!尼子氏の成長は持久の子守護代尼子清定が山名氏の出雲国侵攻軍を撃退したことによるんですwこれで能美郡奉行職と美保関代官職を与えられ大きな軍事的・経済的基盤を形成する端緒となりますw……でもあくまで清定は京極氏の守護代でその任を忠実に果たしてるんです…… でも清定の子経久が4代目として家督を継承すると経久は出雲国内の荘園を横領したんで主君京極政経に追放されちゃうんですよ!!経久は翌年無頼の徒を率いてわずかな手勢で謀叛し月山富田城を奪取し京極政経を追放して出雲一国を領国化しちゃうんですwこの下克上に対して当初は京極氏の残党が尼子氏に対抗したけど知略に優れる経久の敵ではなかったんです!! 経久の嫡男詮久が遠征中に国人桜井氏を攻めてる最中に陣中にて笛をふいてたところを矢で射殺されちゃう一大事も発生するけど経久の孫晴久が後継となったんです……尼子氏は経久の代に11ケ国の領国支配を固め孫晴久に家督を譲る際には出雲守護職に補任され守護を追放した守護代としての名分から脱することも出来たんです!!でも晴久には経久ほどの才はなく3万もの大軍で安芸国の国人毛利氏を攻めるけど大内義隆軍を率いた陶晴賢と毛利氏の連合軍の前に破れ逃走しちゃいます…… 以降尼子氏は勢力を弱めるんです……程なく晴久は病死し家督を継いだ子義久の代となると大内氏の所領をも吸収した毛利氏に攻められて滅亡しちゃうんです……一族は毛利氏に下ったものや浪人したものなど散り散りとなってます……そのうちの一族が水戸徳川家に仕官し代々水戸藩に仕えてたんですよ!! |




