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7人兄弟姉妹の末っ子で幼名は「お七」って言うんですよw 明治6年(1873年)14歳の時に家族揃って東京に引っ越します! そんで麹町にある女学校に入学するんですw ちなみに…この女学校は明治の内に廃校となって現在は存在しないんです… 明治10年(1877年)に西南戦争が勃発します!! 明治12年(1879年)に薩摩藩出身の陸軍中将伊地知幸介らの勧めで躊躇しながら20歳で 当時陸軍少佐だった30歳の乃木希典と結婚しますw …躊躇したって…静子サン…好きな人でもいたんでしょうか?… 明治12年(1879年)8月28日に長男勝典が誕生しますw 明治14年(1881年)12月16日に次男保典が誕生しますw その上に姑寿子との確執もあって苦労続で1年半ほど勝典・保典を連れて別居してます… 明治27年(1894年)に日清戦争が勃発して夫希典と2人の子供が出征します!! その際に静子は出征する3人に東京銀座の高級化粧品店資生堂で買い求めた香水を贈りますw これはもし戦死した時に遺体から異臭が放つと不敏との哀しい迄の家族への愛の表現でした… でも…静子の想いとは裏腹に3人は無事に戻って来ますw 明治28年(1895年)8月20日に夫希典が男爵に叙されますw 明治37年(1904年)日露戦争の開戦で再び夫と息子達が出征します! 明治37年(1904年)5月27日に長男勝典が享年25歳で戦死します…長男勝典の戦死報告を聞いて深い哀しみに暮れ3日未晩泣き続けたんです…明治37年(1904年)9月21日に夫希典が伯爵に叙されますw 明治37年(1904年)11月30日には次男保典が享年23歳で戦死します…これは夫希典と児玉源太郎大将の戦略で203高地侵攻中の出来事だったんです…でも…不思議な事に次男保典の戦死報告を聞いた時に何故か長男勝典が戦死した時のようには 泣き崩れず落ち着いた様子で戦死の事実を受け入れたと言うんです… 一説には次男保典が戦死する事を予め知ってたんじゃないかって噂もありました… 息子達を先に亡くしショックから放心状態だったとも言われてるんですよ… 夫希典は東郷平八郎と共に日露戦争の英雄とされ「聖将」「軍神」として崇敬されたんです! 晩年は盆栽等を僅かな楽しみとして穏やかに過ごしてたんですw 明治40年(1907年)夫希典は退役し学習院院長となります! 明治45年(1912年)7月30日に明治天皇が糖尿病により59歳で逝去されます…大正元年(1912年)9月13日に明治天皇大葬の夜に夫希典と享年54歳で自刃します…夫希典はこの時享年62歳でした…夫希典の遺書には「殉死」で「西南戦争時に連隊旗を奪われた事を償う為の死」と書いてました…長姉馬場貞子が希典・静子夫妻の遺体を発見したんです…墓所は港区青山霊園にあります… 辞世の句は『出でまして かへります日の なしときく けふの御幸に 逢ふぞかなしき』 【乃木神社】は東京都港区赤坂の乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地にある神社です!!乃木希典将軍とその妻静子夫人が祀られています!大正2年(1913年)に当時の東京市長阪谷芳郎が中心となって夫希典を敬慕する人々によって中央乃木会を設立されますwそんで大正8年(1919年)当社の創建を申請・許可されて大正12年(1923年)11月1日に鎮座祭が行われたんです!
乃木伯爵家は息子を2人とも日露戦争で戦死しちゃったんで戦死後に乃木家の戸籍に入ってた義弟集作を他家に養子に出してたんで嗣子がいまかったんです…山縣有朋や寺内正毅らは養子を立てて乃木伯爵家を相続させようと画策したけど夫希典の遺言により廃絶してるんです…でも乃木夫妻の死からちょうど3年後にあたる大正4年(1915年)9月13日に乃木家の旧主にあたる旧長府藩主毛利子爵家の次男元智が伯爵に叙爵されたのを機に姓を「乃木姓」に改めた上で『新乃木伯爵家』を創設したけど批判の声が強くて元智は昭和9年(1934年)9月に爵位を返上し姓も「毛利姓」に戻したんです… |
幕末の女性
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父はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトですw 母はシーボルトの世話をしてた芸者楠本瀧なんですよ! ちなみに…元々父シーボルトが来日した理由はプロイセン政府から日本の内情探索を 命じられたからだとする説もあるんですよ!…簡単に言うと【スパイ】です! ちなみに…来日は文政6年(1823年)4月なんですよw オランダ人と思われがちなんだけど…正真正銘・生粋のドイツ人です! ちなみに…父シーボルトが江戸で多くの蘭学者らと面会した時に… 「貴方の仕事は何ですか?」と聞かれて…
「コンデンスポンデーヴォルデ」と答えたと田原藩家老渡辺崋山が書いてるんです… 「コンデンスポンデーヴォルデ」とは「内情探索官(スパイ)」の事なんですよ!!!!! でも…身分を明かしちゃうのもどーだか… 文政11年(1828年)にシーボルト事件が起き父が国外追放処分となります… ドイツ人と日本人のハーフとして差別を受けながら懸命に生きたんです! 弘化2年(1845年)から父の弟子石井宗謙の元で産科修行をするんです! 嘉永5年(1852年)は石井の元を去り長崎で長女高子を25歳で出産します!! ちなみに…イネは生涯独身だったんで「石井サンに無理矢理…説」もあるんです… だから石井宗謙はその後同門門下達から破門に近い社会的制裁を受けます! 安政2年(1855年)に父の弟子二宮敬作に宇和島藩士村田蔵六を紹介されますw 村田蔵六は後に新政府陸軍創始者となる大村益次郎なんですよ! その後の二人はなかなか良い仲でしたwww 安政5年(1858年)日蘭修好通商条約で父シーボルトの追放処分が取消され 父シーボルトは再び来日してるんですよ! この時に異母兄アレクサンダーも来日しイギリス通訳として活躍しますw 父シーボルトやその弟子二宮敬作から西洋医学をさらに学びますw 村田蔵六からはオランダ語を学んだんです! 文久元年(1861年)に父シーボルトは幕府の対外交渉顧問になります! 文久2年(1862年)に辞して帰国しちゃうんですよ… 村田蔵六の斡旋で宇和島藩主伊達家から厚遇されてたんですよ! 慶応2年(1866年)10月18日ドイツで父シーボルトが享年70歳で死去します…慶応2年(1866年)長女高子が父シーボルト門下の医師三瀬諸淵と14歳で結婚しますwちなみに…は娘婿三瀬諸淵は二宮敬作の甥なんですよw 明治3年(1871年)東京築地に病院を開業しますw その後医学技術は高く評価され宮内省御用掛にもなってるんですよ! 明治8年(1875年)に医術開業試験制度が始まるんですよ! でも…女性には受験資格が無かったんで病院を閉鎖して郷里長崎に戻るんです… 明治10年(1877年)に娘婿三瀬諸淵が胃腸カタルで享年39歳で死去します…明治15年(1882年)長女高子が医師山脇泰助と再婚しますw明治17年(1884年)医術開業試験が女性も受けれるようになりますw でも既に57歳になってんで合格の望みは薄いと判断します!! そんでその後は「産婆(助産師)」として開業しますw 明治22年(1889年)に娘高子一家と同居の為に助産院を閉鎖し再上京! 完全に医療の世界から卒業したんです… 以後は異母弟ヘンリーの世話となり余生を送ったんです… 墓所は長崎県長崎市の皓台寺にあります… |
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嘉永元年(1848年)河津城主向井将監の愛妾村山せんの養女となります! そんで琴や三味線を習うんですよ♪ 嘉永6年(1853年)7月8日浦賀沖に『黒船来航』! 安政2年(1855年)に14歳で芸者となり「お吉」と名乗ります! きちはデビュー間もなく下田で人気ナンバーワン芸者となるんですよ! 安政5年(1858年)に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺(上画像)の領事館で 精力的に日米外交を行ってる最中に慣れない異国暮らしで体調を崩しダウンします… 困った通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に 頼むんですよね! でも…当時の日本には「看護婦」と言う職業も概念も無かったんですよ… どんなもんだかも知らない役人は【妾の斡旋依頼】だと誤解しちゃいます!! そんで候補に挙がったのが人気ナンバーワン芸者「お吉」だったんです! 当時の日本人は外国人に偏見を持ってて外国人に身を任せる事を恥とする風潮があって 幼馴染の婚約者もいたんできちは嫌がったけど役人の執拗な説得に折れてハリスの下へ 赴く事になったんです…お役人様には逆らえません… 初めの内人々はきちに同情的な目を向けてたけど羽振りの良くなってくきちに対し次第に「嫉妬」と「侮蔑」の目を向けるようになるんです!
慶応4年(1868年)に芸者を引退し幼馴染と横浜で同棲を始めますw 明治3年(1871年)に下田に戻り髪結業(理容室)を開業します!! だけど周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかったんです… そんなこんなでますます酒に溺れるようになっちゃいます… そのため婚約者と同棲を解消し三島で芸者として再デビューします!! だけど人気は今いちで故郷の下田に戻り芸者を続けるんですよ… そんな中できちを哀れんだ船主の後援で小料理屋を開業します! でも…アルコール依存症となってたきちは年中酒臭い状態でした… 度々酔って暴れたりしてお客サンとトラブる事も… 明治5年(1873年)には小料理屋を廃業すちゃいます… 斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否してます… 哀れに思った宝福寺の住職が境内の一角に葬ったんですよ…
平成10年(1998年)発売のサザンオールスターズのアルバム『さくら』に収録された『唐人物語 (ラシャメンのうた)』は斎藤きちをモデルにした曲なんですよ! |
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元々人の世話をする事が大好きだったんですよねw だから坂本龍馬をはじめ幕府から睨まれてた尊皇攘夷派の志士達を保護したんです!! このため幕府から一時は危険人物と見なされて牢に入れられそうになった事もあるんです! 文久3年(1863年)寺田屋事件が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった後に使用人に 命じて即座に畳や襖を取り替えて翌日には営業できるようにしたんです!! 坂本龍馬の紹介でお龍(後の龍馬婦人)を雇ってますw その後は龍馬や尊皇攘夷の志士をたびたび匿ってもいるんですよ!
慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都にある醤油商「近江屋」の母屋の2階で盟友中岡慎太郎と坂本龍馬が暗殺されちゃいます…享年32歳だったんです…盟友中岡は29歳でした…その後時代の激動の渦の中で明治維新に向け突き進んでいくんですw明治10年(1877年)9月7日に京都にて享年48歳位で死去しました…坂本龍馬と一説では愛人関係にあったと言われてるけど彼女は龍馬より10歳以上年上だったみたいで疑わしいとこです…現在龍馬が彼女に宛てた手紙の多くには彼女に頼み事や泣き草を聞いてもらうようなものが多く生母を12歳の時に失った龍馬にとっては母親代わりの存在だったかもしれません… |
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安政6年(1859年)には吉田松陰が安政の大獄で捕らえられ処刑されてます… 万延元年(1860年)長州藩士高杉晋作と15歳で結婚しますw この頃は「防長一の美人」と言われてたんですよ! 文久元年(1861年)3月に夫晋作は海軍修練のため藩所蔵軍艦丙辰丸に乗船し江戸へ渡りますw 文久元年(1861年)8月に夫晋作は東北遊学を行い佐久間象山や横井小楠と交友します! 文久2年(1862年)12月12日に夫晋作は同志と一緒に品川御殿山に建設中の イギリス公使館焼き討ちを行っちゃうんですよ!! 文久3年(1863年)5月10日幕府が朝廷から要請され制定した攘夷期限が過ぎると 関門海峡において外国船砲撃を行い夫晋作は下関の防衛を任せられるんですw 文久3年(1863年)6月に夫晋作は廻船問屋白石正一郎邸で身分に因らない志願兵に よる奇兵隊を結成し赤間神宮を本拠とするんですよ! 長州藩が追放されちゃいます… 元治元年(1864年)1月夫晋作は京都進発を主張する急進派来島又兵衛を説得するけど拒否されます…そんで夫晋作は脱藩して京都へ潜伏するんです…でも桂小五郎(木戸孝允)の説得で翌月には帰郷するけど脱藩の罪で野山獄に投獄され6月には出所して謹慎処分となるんです…
元治元年(1864年)に長男梅之進が誕生しますw 尊攘運動に奔走する夫晋作から離れて暮らしたけどよく養父母の世話をしたんですw 元治元年(1864年)7月19日長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となっちゃいます…元治元年(1864年)8月にはイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃し一方的な艦砲射撃の末に砲台を占拠しちゃうんですよ…慶応元年(1865年)3月に夫晋作は俗論派首魁椋梨藤太らを排斥して藩論を統一!! そんで海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するけど反対されます! 慶応元年(1865年)4月夫晋作は下関開港を推し進めたんで攘夷派等に命を狙われます! 夫晋作は愛人おうのと一緒に四国へ逃れ日柳燕石を頼るんです! 慶応元年(1865年)6月に桂小五郎(木戸孝允)の斡旋により夫晋作は帰郷します! 慶応2年(1866年)1月桂小五郎(木戸孝允)らと共に土佐藩の坂本龍馬を仲介とした 薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を結ぶんです! 慶応2年(1866年)5月には伊藤俊介(伊藤博文)と一緒に薩摩行きを命じられます! そんで長崎で丙寅丸を単独購入します! 慶応2年(1866年)6月の第二次長州征伐で夫晋作は海軍総督として幕府艦隊を退け 周防大島を奪還して小倉方面の戦闘指揮では序盤攻勢に出るけど小倉城手前で肥後藩の 猛攻に合い一時小康状態となるんですよ… でも…幕府軍総督小笠原長行の指揮が悪くて幕府軍諸藩は随時撤兵しちゃいます! 慶応2年(1866年)7月将軍家茂の死去の報を受けた小笠原長行も戦線を離脱します! そんで事実上幕府軍の敗北に終わり幕府の権威は大きく失墜したんですw その直後に夫晋作は直後肺結核のため桜山で療養するんです…国事に奔走する夫晋作と一緒に暮らしたのは7年の結婚生活の内でわずか1年半位…夫晋作がようやく1ヶ所に落ち着いたのは皮肉にも病気で動けなくなった時だったんです… 慶応3年(1867)4月14日夫晋作は商家林算九郎邸にて享年27歳で死去します…慶応3年(1867)11月の大政奉還を見る事は出来ませんでした…夫晋作の墓所は山口県下関市にあり靖国神社にも祀られてるんですよ… |





