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その後長州下関稲荷の芸者屋「いろは楼」の養女となり芸者見習いで“小梅”と名乗りますw 慶応元年(1865年)伊藤俊輔(博文)との出会います!! 長州藩の攘夷派の刺客に追われた伊藤俊輔(博文)は下関亀山八幡宮の境内に逃げ込みます! そこでお茶子をしてた娘〜お梅こと梅子に助けられるんですよ! 博文25歳・お梅18歳の春だったんですよw でも…お梅は芸者屋に身売りされちゃうんですよ… 事情を知った博文は嘗ての恩に報いるためお梅の身請けをします! そんでめでたく2人は夫婦となりますw 結婚後は夫博文を盛り立てて慎ましやかながら堅忍不抜の精神を貫き通したんです! 夫博文は『酔うては枕す美人の膝 醒めては握る堂々天下の権』という自作の詩のまんまの人生で好色の元勲だったけど梅子は良妻賢母の鏡として木戸孝允の妻木戸松子サンと並び称されました!
両親への孝養や子女への教育にも真剣でした!! そんで自己の修養も怠らず「習字」や「和歌」「英語」の習得にも励みました! でも…生活はとっても質素で節約したものだったんですよ! 明治17年(1884年)7月8日の華族令施行により夫博文は伯爵に叙されます! 明治18年(1885年)に内閣制度が創設され夫博文は初代内閣総理大臣に就任します! 明治38年(1905年)11月韓国統監府が設置され夫博文は韓国統監府初代統監に就任! 明治40年(1907年)9月21日に夫博文は公爵に叙されます! 明治42年(1909年)10月26日ハルビン駅にて夫博文が韓国民族運動家に狙撃され享年68歳で暗殺されます…大韓帝国高宗はその悲報に際し「日本に政治家多しといえども伊藤のように世界の大勢を見て東洋の平和を念じた者はいない…実に伊藤はわが国の慈父である」と言いました! 夫博文が横死した時も家中をよく纏めたんです! そんで「国のため光をそへてゆきましし君とし思へどかなしかりけり」と詠んでますw 日本初のファーストレディとなったのが伊藤梅子だったんですwちなみに…現衆議院議員で元防衛庁長官松本剛明サンは玄孫にあたるんですよ!
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幕末の女性
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父長兵衛はまさが生まれる前に死去しちゃいます… 慶応元年(1865年)に17歳で新選組十番隊長原田左之助と結婚しますw 夫左之助と結婚したのは新撰組の屯所が西本願寺に移った頃なんですよ! 夫左之助は少々キレやすい性格だったけど愛妻家でかなりの美男子だったんですw夫左之助がある 武士と喧嘩をして「腹を切る作法も知らぬ下司め」と言われ腹を切って見せます!!傷は浅かったんで命 に別状は無かったんですよ…でもその傷から“死損ね左之助”と新撰組隊内でアダ名されたみたいで す…お腹に一文字の傷が残ったけど天気の良い日には傷を日に晒しながら「てめぇ達のようなヤワな奴 とは違うんだ!!俺の腹は金物の味を知ってるんだぜ」と言ってます!これを元に原田家の家紋を『○に 切腹傷の一文字』を入れた形にしたんですw新撰組二番隊組長永倉新八とは仲が良かったんですよw そんな新婚生活は本願寺筋釜屋町七条下ルでの借家住いからのスタートでしたw まもなく待望の長男茂を出産します!! 長男茂を産んだ時には夫左之助もとっても喜んでんですよ! そんで「こいつを立派な武士に仕立てよう!」と意気込んでたみたいですw この茂という名は14代征夷大将軍徳川家茂から一文字賜ったと言われてますw そんな幸せな新婚生活は夫左之助の立場上長続きせず2年で終わりを迎えるんですよ… 慶応3年(1867年)12月11日に夫左之助と最後の言葉を交わします… この時まさは妊娠中だったんですよ! 慶応3年(1867年)12月17日に2人目の男子を出産します!! でも…1週間で早世しちゃうんですよ…戒名は「禅雪童子」です…慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いから始まる一連の戊辰戦争ではまさは夫左之助の行方も安否もしれぬまま暮らします… 鳥羽・伏見の戦い後に夫左之助は甲陽鎮撫隊まで新選組として戦ってました! その後永倉新八と共に甲陽鎮撫隊を脱隊し靖兵隊結成するんですよ! でも愛妻家の夫左之助は妻子に会いたいって理由から隊を離れ京都へ戻ろうとするんですw でも…何故か彰義隊に加わり上野戦争を戦います!!その時に負った傷が癒えず… 明治元年(1868年)5月17日に夫左之助は享年29歳で死亡します…でも…何故か彰義隊の名簿には夫左之助の名前は無いんです…夫左之助の死亡報告を受けまさは21歳で未亡人となっちゃったんです… でも夫左之助は死んでなかったって噂もあったんですよ! 日清戦争の時に昔語りをする老軍人がいて「私は原田左之助だ」と名乗ったって話もあります!!
それとか夫左之助は上野⇒新潟⇒下関⇒釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったって話も… 明治40年(1908年)頃の新聞で実際に報じられたけど真偽は不明なんですよ! まさは従兄井上新兵衛の元へ身を寄せたけど度々新政府軍の尋問を受けてます… |
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義姉大谷籌子裏方(大谷光瑞夫人)を助けて仏教婦人会を創設しますw 明治42年(1909年)男爵家出身で正金銀行勤務の九条良致と22歳で結婚しますw 夫良到の実家は九条公爵家の分家筋なんですよw 夫良致自身は生涯正式な華族制度に基づく襲爵手続きをしていないんです…一般人… 大谷家の代々の宗主の娘で僧籍のない者に嫁いだのは武子が最初といわれてるんですよ! 武子は結婚後良致の勤務先兼留学先(ケンブリッジ大学)・ロンドンに随行してますw でも…渡英1年半で武子が先に帰国し良致は英国滞在という別居状態が10数年続きます…美貌・教養・家柄(実家の大谷家は伯爵位)の誉れ高き武子に良致が馴染めなかったからじゃないかとか夫婦不和の憶測もあったけど武子は離婚どころか浮いた話一つ無かったんですよ! 明治44年(1911年)に義姉籌子が30歳の若さで死去の際は本部長に就任したんです! そんで24歳で仏教婦人会運営の重責を果たしたんですよw 仏教主義に基づく京都女子専門学校(現京都女子学園・京都女子大学)を設立します!! 歌人で国文学者の佐佐木信綱に師事し和歌にも長けてたんですw 歌人としても『金鈴』『薫染』などの歌集を出版してるんです! 才色兼備ぶりは柳原白蓮(大正天皇生母柳原愛子の姪)と江木欣々らと【大正三美人】と称されますw大正9年(1920年)年末に良致が帰国し夫婦同居がやっと実現したんですよwなお武子と良致の間には子供はいなかったんです!! 大正12年(1923年)9月1日に起った関東大震災で武子自身も被災し一命を取りとめます…そんで全壊した築地本願寺再建や震災による負傷者・孤児の救援活動等様々な事業を推進!「あそか病院」などの設立もしたんですよw 昭和2年(1927年)7月に出版された随筆『無憂華』の中に愛唱されてる仏教讃歌の「聖夜」が収められてるんですよ!!「聖夜」の作曲は作曲家中山晋平(1887〜1952年)なんです!歌詞は七五調で構成されてて夜空に輝く美しい数多の星のようにおわする仏達に護られて生きてる事の歓喜と安らぎが表現されてますw
昭和3年(1928年)2月7日に東京にて享年42歳の若さで死去します…震災復興事業での奔走の無理がたたり敗血症発症に罹って念仏のうちに往生しました…宗門では九条武子の命日を“如月忌”と呼んでるんですよ!! 関東大震災を経て自身の死まで武子は貞操・家庭を守ったんですよw
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「薙刀」が上手かったと言われてます!! そんで「剣術」・「馬術」・「弓術」・「水泳」等の武芸とか… 「琴」・「三味線」・「舞踊」・「謡曲」・「経書」・「和歌」等の文芸も上手だったんですw まさに“文武両道”の女性だったんですよ! ちなみに身長は5尺8寸(約174cm)もあって体重は30貫(約112kg)もあったんです!! 当時(今でも…○○かも…)としてはかなーり大柄な女性だったんですよ… 弘化3年(1846年)に母幸が亡くなった後は龍馬の母親代わりを務めてますw そんで龍馬に「書道」・「和歌」・「剣術」等を教えてたんですよ! 安政3年(1856年)に典医岡上樹庵と結婚して一男一女(赦太郎・菊栄)をもうけますw 慶応2年(1866年)には弟龍馬が“楢崎龍”こと「お龍」と結婚しますw でも…乙女自身は岡上家と坂本家の家風の相違とか夫樹庵のDV(暴力)・浮気等が原因で… 慶応3年(1867年)に離婚し実家に戻っちゃってます! そんで龍馬の良き理解者として相談に乗ったり励ましたりしてたんですよw でも…慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都にある醤油商「近江屋」の母屋の2階で盟友中岡慎太郎と弟坂本龍馬が暗殺されちゃいます…享年32歳だったんですよ……その後は弟龍馬の妻お龍を引き取るけど…お龍はどっかに行っちゃってます…『竜馬が常に言ってました…俺は若いとき親に死に別れてから乙女姉サンの世話になって育ったんで親の恩より姉サンの恩が太いってねw大変お姉サンと仲良しで何時でも長い長い手紙を寄こしてました……』――― 妻お龍も後年そう語り残してるんですよw晩年は「乙女」から「独」と改名して養子坂本直寛と共に暮らしたんですよw 養子直寛は後に北海道北見市の開拓に従事し「乙女」改め「独」も同行してます! |
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弘化3年(1846年)に井上(後の沖田)林太郎房政と結婚して家督を存続させます! 嘉永6年(1853年)1月に長男芳次郎を出産するんですよw 文久3年(1863年)夫林太郎は近藤勇・沖田総司とともに浪士組に参加しますw そんで3番組(小頭新見錦)に属して京へ上ったんですよ!! その後近藤勇ら天然理心流一門は京に残留したけど夫林太郎は参加せず江戸へ帰ります! 近藤勇らは壬生浪士組を経て“新撰組”を結成するんですよw 後に浪士組は新徴組に改編されて庄内藩御預りとなり江戸市中警護に当たってます! 夫林太郎は新徴組で組頭を務めてるんです! 慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発すると江戸へ撤退してきた新撰組から 結核を患ってた弟総司の看病を任されてたみたいなんですよ… 慶応4年(1868年)3月江戸幕府が消滅すると庄内藩主酒井忠篤は帰国します!! それにともない夫林太郎や家族と共に江戸を脱出して庄内藩へ移るんですよ… 慶応4年(1868年)5月30日に江戸にて弟総司が享年26歳で病死します…明治元年(1868年)9月に庄内藩は新政府軍に全面降伏しちゃいます… |






