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名は「延」で実名は「省子」といいますw 嘉永6年(1853年)5月従一位左大臣一条忠香の養女になるんですよw 嘉永6年(1853年)慶喜と婚約して嘉永7年(1854年)「美賀子」と改名します!! 養父忠香には実の娘千代姫がいたんですよ…… 千代姫は天然痘にかかり醜い姿になったんで千代姫の代わりに慶喜と婚約したんです… 黒船来航や将軍家慶の死・皇居炎上・安政の大獄と続く変事で慶喜との結婚は 安政2年(1855年)12月に延びちゃいます…… 既に結婚した時には10人近くの側室を持ってた慶喜だけど彼が将軍職につけば 美賀子は大奥に入らなくてはならずその気苦労は察しがついたんですよね…… そんでもって何度か妊娠したんだけど結局みな早世して子宝に恵まれなかったのは 「千代姫の呪い」という噂まで立てられてたんですよ…… 慶応2年(1866年)12月5日ついに慶喜が15代征夷大将軍となりますw でも美賀子は大奥入りはしなかったんですよw 慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦いで慶喜は朝敵となっちゃうんですよ!! 慶応4年(1868年)2月12日慶喜は江戸城を出て上野寛永寺に蟄居謹慎します…… 美賀子は実家のつてで朝廷に徳川家と将軍慶喜の助命嘆願に尽すんです!! 江戸開城に当り美賀子は小石川梅の御殿に移りそののち旧久世大和守下屋敷に移居しますw 慶喜は水戸藩に移居して弘道館で謹慎してます!! 慶応4年(1868年)7月19日慶喜は駿府に移居して宝台院で謹慎します…… この間美賀子は江戸にいて慶喜とずっと別居してます…… 明治2年(1869年)9月慶喜の謹慎が解除され慶喜とともに駿府に向いますw 二人は宝台院に1年程住み紺屋町の元代官屋敷の閑居に移ってますw 明治24年(1891年)5月19日高松凌雲の執刀により乳ガンの手術します…… 明治27年(1894年)5月19日上京して肺水腫を併発してちゃってます…… 明治27年(1894年)7月9日に東京にて享年60歳で死去します…華やかな立場よりも激動の時代を静かに生きることを選択したんですよねw |
幕末の女性
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文政6年(1823年)に16歳で大奥に上がりますw その後才覚が認められて大奥総取締に任じられ実権を握るようになります!! 13代将軍家定・14代将軍家茂・15代将軍慶喜の3代の将軍のもと大奥総取締を務めますw 14代将軍継嗣問題の際には南紀派に属して上臈御年寄歌橋や13代将軍家定の母本寿院らと 共に一橋派と対立して一橋慶喜(後の15代将軍)の擁立に反対します!! ちなみに……南紀派の親分は彦根藩主で大老として有名な井伊直弼なんです!! 慶応4年(1868年)4月に江戸幕府は新政府軍に江戸城を明渡すことになっちゃいます… 当初は大奥の立ち退きに反対もしてたんですよw でも結局は大奥総取締である瀧山はそれに伴い奥女中たちに年功に合わせて拝領物を与え 奥女中たちを城外に去らせたんですよ! 大奥に残ってた本寿院(13代将軍生母)と天璋院(13代将軍御台所)は一橋家の屋敷へ 静寛院宮(和宮親子内親王)は西ノ丸にいた実成院(14代将軍生母)とともに田安屋敷へ それぞれ移り城の明け渡しに備えます…… 慶応4年(1868年)4月11日に東征大総督有栖川宮熾仁親王が江戸城に入ります…… このときの人数は約800名ほどだったみたいです…… 江戸城開城により春日局が定めた「大奥法度」も廃止となっちゃいます…… 「大奥法度」の制定からちょうど250年目で瀧山が63歳のときだったんです…… 江戸城開城後は自分に仕えてた年寄の生家を頼り現在の埼玉県川口市で過ごしますw 明治9年(1876年)に埼玉県川口市にて享年72歳で死去してます…法名は「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」でお墓は埼玉県川口市にある錫杖寺です…画像は光明寺ですwTVドラマ『大奥』で江戸城の大奥の風景として登場しましたw 大奥は江戸城の御殿における将軍の母や正夫人(御台所)とか側室の居所のことですw将軍の居所は基本的に本丸御殿だったんで大奥は本丸御殿にあったけど西の丸御殿や二の丸御殿にも大奥に相当する区画があって将軍や大御所が西の丸や二の丸に居したときはそれぞれが大奥として機能したんですよ!!2代将軍徳川秀忠の正室お江与が創立し3代徳川家光の時代に家光の乳母で権勢を振るった春日局が元和4年(1618年)大奥法度を定め奥を整備しまた統括したんですよ!!
御年寄は幕府の老中に当たる役職で大奥の公務一切を仕切ってますw合計で7人の御年寄が月番交代で職務に当たっててその中で特に力を持ってた者が「大年寄(大奥総取締)」として実権を握ってたんです!実際に彼女たちが動き回る事はなくて大抵の場合は大奥御殿部分にある詰め所「千鳥の間」で一切の指揮を執ってたんですw規律にはとっても厳しくて将軍も恐れる存在だったみたいなんですよ…奥の公務の他に大名に将軍のメッセージを伝える役目も担ってて老中たちと内密の相談をする事も珍しくなかったんです!!まさに江戸時代の男性優位社会にあって唯一政治に関与することが可能な職務だったんですw |
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生母は観行院(新典侍橋本経子)サンで孝明天皇は異母兄なんですよw 「和宮」は誕生の際に賜った幼名で「親子」は文久元年(1861年)内親王宣下の際に賜った諱!! 号は「静寛院宮」なんですよー!! 父仁孝帝は親子の誕生前(弘化3年1月26日(1846年2月21日))に崩御してたんで 勅命により親子は母観行院の生家橋本家で養育されたんですよw 推進する公武合体のため泣く泣く婚約を破棄しちゃうんですよ…… 文久元年(1861年)10月20日第14代目将軍徳川家茂との婚儀の為に京都を出発!! 文久2年(1862年)2月11日江戸に着き降嫁し家茂と婚儀を江戸城で挙行しますw 家茂に降嫁することで公武合体が完成し和宮は大奥にて大奥総取締の瀧山と 本寿院(徳川家定生母)と天璋院(家定正室)とともに過ごすことなったんです!! 和宮及びそのお付き女中は公家風の生活習慣を守る一方で大奥に馴染まない和宮一行を 大奥側も不遇な待遇をしてイジめるなどし当初は険悪な空気だったみたいです…… でも人格に秀で他者への気遣いが巧かった家茂の機転で【和宮vs大奥側】は後に和解します!! 慶応2年(1866年)7月20日に夫家茂は大坂城で享年21歳で病死します…そんで落飾し以後「静寛院宮」となるんですよ!!慶応2年(1866年)には第15代目将軍徳川慶喜の「大奥改革」に天璋院と共に抵抗します! 慶応2年(1867年)12月25日に兄孝明帝が享年36歳で崩御します………慶応3年(1867年)に将軍慶喜が大政奉還を行い幕府消滅から江戸城の無血開城に至る中で険悪な仲だったとされる徳川慶喜の助命にも尽力したとされるんですよ!! 田安屋敷へと移りのち京都に戻るけど明治天皇の東京行幸のために東京へ引越しますw この際の新政府軍東征大総督はかつての婚約者有栖川宮熾仁親王だったんですw 勝海舟の家で天璋院と食事をし仲良くなったともいわれてるんですよw
明治10年(1877年)9月2日に療養先の箱根塔ノ沢にて享年32歳で死去します…墓所は東京都港区にある増上寺です…江戸時代はもとよりそれ以前にも皇女が武家に降嫁し関東下向した唯一の例です!!第7代目将軍徳川家継と婚約した霊元天皇の皇女吉子内親王は婚儀の前に家継が死去しちゃったんで皇女降嫁は実現しなかったんですよ……第14代目将軍徳川家茂は表向きには側室は作らず和宮親子内親王だけを生涯の伴侶とし夫婦仲はとっても良好だったとされてるけど…実際には数は少ないけど数人の妾がいたみたいです!!でもついに誰との間にも子は産まれなかったんですよwそれと……今までは武家の習いで将軍の正夫人は「御台様」と呼ばれてたけどこれを拒否し「和宮様」と呼ばせてたんですよ!! |
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子として鹿児島城下に誕生し幼名は「一」で元服後は「敬子」です!! 嘉永6年(1853年)薩摩藩主島津斉彬の養女となり鹿児島から江戸藩邸に入りますw その際に「篤子」に改名します!!「とくこ」または「あつこ」といいますw 篤子は斉彬から政治的使命を帯びて江戸城へ送り込まれたとされ斉彬は将軍後継問題を巡り 次期将軍に一橋慶喜を推す「一橋派」と徳川慶福を推す「南紀派」に分かれて対立する幕閣で 慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を徳川家へ輿入れさせたんです!! 安政3年(1856年)篤子は左大臣近衛忠煕の養女となりますw 安政3年(1856年)11月には第13代目将軍徳川家定の正室として大奥へ入りますw 安政5年(1858年)7月には島津斉彬が……8月には家定が急死します……第14代目将軍は徳川家茂が就任して篤子は落飾し以後「天璋院」と名乗ります……幕府は公武合体政策を進め文久2年(1862年)には朝廷より第14代目将軍の正室として 薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出るけど天璋院は帰国を拒否してます!!! 文久2年(1862年)6月15日現在の日蓮正宗総本山大石寺に帰依してますw そんで同塔中遠信坊再々興に貢献してるほどの敬虔な信徒となってますw また輿入れした当初の和宮親子内親王と天璋院は一種の「嫁姑」の関係にあって 更に皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあって仲はかなーり険悪だったけど その後に和解したとされるんですよ!!よかったw 勝海舟の談話などから自らが擁立する予定だった第15代目将軍徳川慶喜とは かなーり険悪な仲だったとされ慶応2年(1866年)には慶喜の「大奥改革」に 第14代目将軍家茂が死去して「静寛院宮」と名乗ってた和宮と共に抵抗するんです! 慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還を行い幕府消滅から江戸城の無血開城に至る中で 険悪な仲だったとされる慶喜の助命にも尽力したとされるんですよ!! 晩年は田安亀之助こと徳川宗家の徳川家達の養育に心を砕いてましたw 自らの所持金を切り詰めてでも下々の者にお金を恵んでたんですよ! だから死に際して所持金はたった3円(現代の3〜4万円)しかなかったみたいです… 2008年のNHK大河ドラマは彼女が主役なんですよ!宮尾登美子サンの原作である『天璋院篤姫』です!!……見るべきか……見ないべきか……それが問題だw
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