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石鹸製造業者ヨアンネス・F・ヒュースケンとヨアンナ・スミットの間に誕生しますw その後にアメリカに渡り帰化するんですw 1856年(安政3年)に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日! そんでハリスの秘書兼通訳を務めたんですよ! 1858年(安政5年)ハリスが過労で倒れて際に「斎藤きち」を雇ってます! その間ハリスの代理として幕府と直接交渉を行ってます! その一方でイギリスやプロシアの対日交渉においてその支援に当ってます! 中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われちゃいます… この事態を重く見た幕府は辻番所に外国人保護を訴える標識を立てたり国御用出役の 新設をしたりとか外国人警護に全力で努めたんですよ!! でも…以後も攘夷派志士による外国公使館や幕府要人に対する襲撃事件が頻発! 幕府の対応全てが弱腰と見られその後の倒幕へと急展開してくんですよ! 1855年(安政2年)から下田に到着する迄の日本に向う南方航路の印象や外交折衝や日本での見聞を綴った『ヒュースケン日本日記(Japan Jounal)』は幕末外交史の貴重な資料となってるんですよ!
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幕末の外国人
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父沿岸警備隊1等航海士トーマス・ベリー・グラバーと母メアリーの5番目の子として誕生w 実は8人兄弟なんですよ!! ギムナジウム(今の中学校!?)を卒業しますw 1859年(安政5年)中国上海に渡りジャーディン・マセソン商会に入社します! その後に開港後まもない長崎に転勤するんですよ! 当時の日本は「黒船来航」以来政情不安が続く混乱の幕末期だったんです! 1861年(万延元年)にジャーディン・マセソン商会長崎支店を退職しちゃうんです… そんでジャーディン・マセソン商会の長崎代理店として【グラバー商会】を設立し独立します!!以降24歳で一経営者として貿易業を営む事になるんですよ!薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則・長沢鼎らの海外留学の手引きもしてるんですよ! 1865年(慶応元年)大浦海岸で日本初の蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせてますw 長州征伐・海岸線防備や討幕派を含め諸大名は軍備拡張等で商売は大成功します!! 1868年(慶応4年)には戊辰戦争が勃発し新政府を支援します! 1868年(明治元年)には肥前藩と契約して高島炭鉱の開発に着手しますw また長崎の小菅に船工場(ソロバン・ドック:史跡)を作ってますw 維新後(1869年(明治2年)以降)武器が全く売れなくなります… そんで諸藩からの資金回収が滞った事等で原因で経営難になっちゃいます… この頃に旧士族の娘談川ツルと結婚し長女ハナと長男倉場富三郎の2児を儲けてますw 奥サンのツルサンはプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の蝶々さんのモデルとされる説があるんですよ!! 1870年(明治3年)ついに資金繰りに困窮してグラバー商会は破産しちゃいます……でも高島炭鉱(後に官営)の実質的経営者としてその後も日本に留まります!!1881年(明治14年)官営事業払下後に三菱総帥岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも 所長として引き続き経営に当たってたんですよ! 晩年は東京に引っ越してツルと悠々自適な生活を過ごしてますw 1899年(明治32年)3月23日に妻ツルが東京にて享年48歳で死去します…1908年(明治41年)には外国人としては初めて「勲二等旭日重光章」を授与されてますwここには妻ツルとその息子倉場富三郎夫妻も眠ってるんですよ… 旧邸宅跡が現在グラバー園として公開され長崎の観光名所になってますw ちなみに…長男倉場富三郎は学習院大学を卒業後アメリカのペンシルバニア大学へ留学し生物学を学びその後は長崎汽船漁業会社を興して日本に初めてトロール漁業を導入したりして第二次世界大戦前まで長崎の実業界で活躍したんです!そんで長崎魚市場から収集した水産動物の精巧な図譜『日本西部及び南部魚類図譜』いわゆる『グラバー図譜』を編纂したりもしてるんですよ!!でも…第二次世界大戦開始直後に英国人の父と日本人の母との混血児だったんでスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送る事になっちゃうんですよ…長崎への原爆投下の惨劇を見つつそれに耐えかねて終戦直後の1945年(昭和20年)8月26日にピストル自殺しちゃってるんですよ…享年74歳です… |
ジュール・ブリュネは幕末の江戸幕府軍フランス軍事顧問団の一員1838年(天保8年)1月2日に生まれました!【今日が誕生日なんですよ!!】ジュール・ブリュネの物語は2003年(平成15年)のアメリカ映画『ラストサムライ』の主人公ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズが演じましたw)のモデルとなったとされるんですよ!!アルザス地方ベルフォール(現フランシュ=コンテ地域圏テリトワール・ド・ベルフォール県)出身w エコール・ポリテクニクを卒業後に陸軍士官学校⇒陸軍砲兵学校を卒業し フランス陸軍砲兵少尉に任官したんですよw その後砲兵中尉としてメキシコ戦争に出征しレジオンドヌール勲章を受けてます! ナポレオン3世は開国した日本に食い込みを図るため徳川慶喜との関係を強めようとして 1866年(日本では慶応2年)対日軍事顧問団を派遣することを決めたんです!! ブリュネは「シャノワーヌ参謀大尉」を隊長とする軍事顧問団の副隊長に選ばれ フランス陸軍砲兵大尉として1867年(日本では慶応3年)初めに日本に到着しましたw 軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練したんですよw でも…1868年(慶応4年)の戊辰戦争で旧幕府軍は官軍に敗北しちゃうんです…フランス軍事顧問団は勅命によって日本から立ち去るよう新政府から命令されました…でもブリュネとその仲間は残留を選択したんです!! 彼らはイタリア大使館での舞踏会の夜に脱走して榎本艦隊に合流し北海道に向かいます! でもこの時シャノワーヌ隊長はこの計画を知ってても計画に参加しなかったんです… 1868年(明治元年)10月26日に箱館五稜郭を占領します!!彼は箱館で幕府海軍総裁榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国の創設を全面的に支援します!また箱館の軍事的防衛支援も行い軍隊はフランスと日本の混成の司令部で構成されました! 最高司令官大鳥圭介をブリュネが補佐し4個旅団は仏人士官を司令官とします!! でも…1869年(明治2年)5月18日に五稜郭に立て籠もる8百人の箱館反乱軍を8千人の官軍が総攻撃を繰り返し五稜郭は陥落しちゃい総裁榎本武揚らは官軍に投降したんです…フランス人らは陥落前に箱館港に停泊中のフランス船に逃れちゃってました…ブリュネは裁判のためフランスに送還されちゃいます… でも…1870年(明治3年)の普仏戦争が勃発して軍に復帰する事を許されます! セダンの戦いでプロイセン軍に包囲されフランス軍はナポレオン3世以下全軍降伏し ブリュネも捕虜になったけど間もなくフランス政府が講和を結んだんで釈放されますw そんでパリ・コミューン(民衆が蜂起して誕生した革命政府)鎮圧に参加したんですよw その後の詳しい経歴は全く不明なんですよ… 1898年(明治31年)にはフランス戦争相シャノワーヌの下で フランス陸軍参謀総長に迄登りつめてるんですよ! |
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