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永禄3年(1560年)頃に近江守護六角義治の家臣池田景雄の長男として誕生しますw 永禄3年(1560年)六角義賢が浅井長政に野良田の戦いで大敗します… 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄6年(1563年)六角義治が重臣後藤賢豊を観音寺城内で誅殺します!これで六角家内で観音寺騒動が勃発します!!これにより父景雄を始め多くの六角氏家臣団が六角義治と対立します!そんで父景雄は六角義治に「長期暇(退職願)」を出し浪人します… 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!永禄11年(1568年)織田信長が六角領内に侵攻します! この時に父景雄は織田信長に恭順しそのまま仕え出すんです!! 永禄11年(1568年)9月12日観音寺城の戦いで六角氏が大敗し滅亡します… 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…元亀元年(1570年)頃より父景雄は織田家重臣明智光秀の与力を勤めます!元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!この頃から父景雄と一緒に転戦し活躍します! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…父景雄と一緒に当初は明智光秀に味方してたんです…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! そんで父景雄と一緒に羽柴秀吉に降伏して以後仕え出すんです! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いも父景雄と一緒に従軍し活躍します! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでも父景雄と一緒に従軍し活躍します! 天正13年(1585年)7月から四国征伐にも父景雄と一緒に出陣し活躍します!! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐にも父景雄と一緒に出陣し活躍します!! この頃親子で豊臣秀吉の馬廻衆を務めてたんですw 天正20年(1592年)から文禄の役では父景雄と一緒に名護屋城に在陣します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)これ迄の功績により父景雄が伊予国大洲2万石を拝領しますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命令で享年28歳で切腹します…その際の福島正則・福原長堯と一緒に検視役を務めてるんです!!慶長2年(1597年)から慶長の役では渡航し活躍します!! 慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)父景雄が享年60歳位で死去します…そんで急遽帰国し38歳で家督を継ぎ従五位下・伊予守に叙任しますw慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! そんで伏見城の戦いに従軍し活躍してます! そんで東軍の松ノ木城主徳永寿昌を攻撃するんです! 慶長5年(1600年)8月16日丸毛兼利が東軍に降伏し大垣城に逃亡します… 慶長5年(1600年)8月19日高木盛兼が東軍に降伏し大垣城に逃亡します…慶長5年(1600年)8月23日美濃岐阜城主織田秀信が東軍に降伏し開城します… その後は徳永寿昌が攻勢に転じて来たんで駒野城に篭城します!! 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!慶長5年(1600年)9月16日東軍徳永寿昌の説得で降伏し開城します…そんで一命は助けられ大洲藩池田家は西軍加担で【改易】となります… その後は高野山に入り藤堂高虎を通じ徳川家康に謝罪します… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長6年(1601年)許されて藤堂高虎に誘われ5千石で家臣となりますwこの時に同じく元西軍方で藤堂家に仕える渡辺勘兵衛了・菅達長らと仲良くなりますw 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これで豊臣家と徳川家の確執が生まれます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城を追放されます…慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長19年(1614年)12月21日藤堂高虎と菅達長が対立します! 慶長19年(1614年)12月26日藤堂高虎の命令で菅達長が享年54歳で切腹します…この事件後…友人菅達長に同情し隠居して藤堂家を出奔し江戸で悠々自適な生活を送ります…他にも渡辺勘兵衛ら同じ考えを持ってた者達がたくさん藤堂家を去ります… 慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…元和6年(1620年)頃に江戸にて享年60歳位で死去します…その後長男貞雄は長い浪人生活を送って…寛永18年(1641)3代将軍徳川家光に召し出され旗本となるんですw 以後子孫は300俵の直参旗本として存続したんですw ちなみに…この池田家ですが…池田恒興や池田輝政で有名な美濃池田氏や細川氏に従えてた摂津池田氏とは全く別系統なんですよ!近江源氏佐々木氏の庶流で近江国甲賀郡池田に所領を持ってたんで地名に由来したと言われてるんですw ★☆★ちなみに…下画像は藤堂高虎の肖像画で決して秀氏じゃありません!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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取潰されたお殿様
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関ヶ原の戦後処理で西軍についた88家が改易されてます…また関ヶ原の戦い以降、江戸時代を通じて外様大名127家と親藩・譜代大名121家の計248家が改易されてます…戊辰戦争後に明治新政府により3家(請西藩林家・会津藩松平家・庄内藩酒井家)が改易され南部藩・仙台藩など22家が減封の処分を受けてます!これに旗本等が含まれると…かなりの数ですw

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種子島久時は大隅国種子島藩の最初で最後の藩主鉄砲伝来で有名な【種子島時尭】の次男ですw永禄11年(1568年)種子島領主種子島時尭の次男として誕生し幼名は「鶴袈裟丸」ですwこの頃種子島家は永禄3年(1560年)に一旦父時尭が兄時次に家督を譲ったんですが…永禄5年(1562年)10月1日兄時次が享年5歳で死去しちゃい…それ以降父時尭が再び家督を継いでました!そんで独立勢力だけど…薩摩島津家に従属してます! 元亀2年(1571年)6月14日毛利元就が享年75歳で死去します…元亀2年(1571年)6月23日島津貴久が享年57歳で死去します…そんで島津貴久の長男義久が薩摩島津家の家督を継ぎます!元亀3年(1572年)5月島津義弘が伊東義祐軍1万5千を兵300で撃破します! これで島津家は薩摩・大隅・日向の3ヶ国を統一します! 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)11月島津軍が大友宗麟の大軍を耳川の戦いで破ります!!天正7年(1579年)10月2日父時尭が享年51歳で死去します…そんで島津義久に11歳で家督相続を認められ16代当主となり元服しますwその時の烏帽子親は島津義久で『久』の一字を拝領し「久時」と名乗ったんですw 種子島家は元々独立勢力だけど… まだ幼いって判断で島津義久の後見を受ける事になります… その際…独自に行ってた琉球貿易権や屋久杉の伐採販売権が島津家の手に渡るんです… ちなみに…年齢の離れたお姉サンが2人いましたw長姉は島津家筆頭家老伊集院忠棟と結婚してて次女円信院は薩摩島津家当主島津義久の後妻になってたんですよ!
天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀に勝利します!!天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家に勝利します!! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます!! 天正12年(1584年)3月24日島津軍が沖田畷の戦いで龍造寺軍6万を撃破します!! この時島津軍に従い初陣を飾っていますw これによって龍造寺家を始め九州の諸勢力が次々と島津家に服属します… 天正13年(1585年)1月毛利輝元が羽柴秀吉に正式に臣従します!! 天正13年(1585年)肥後国の阿蘇惟光が島津家の軍門に下ります… 九州で島津家に抵抗する残勢力は豊後国大友家のみになったんです!! 天正13年(1585年)8月羽柴秀吉が四国征伐を行い長宗我部元親が降伏します! 天正13年(1585年)10月豊臣秀吉が惣無事令を発布します! 天正14年(1586年)島津義久は惣無事令を無視し大友領への侵攻を開始します!! 島津軍は破竹の勢いで九州全土を席巻します!!この戦いにも島津軍方で従軍します! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)25万の兵を率いて豊臣秀吉が九州征伐を開始します! 天正15年(1587年)5月6日大友宗麟が享年58歳で死去します…その直後に島津義久が出家して豊臣連合軍に全面降伏したんです!!戦後に島津義弘と一緒に豊臣秀吉に謁見し大隈国種子島1万石を安堵されます! そんで島津義弘の与力大名となり従五位下・左近大夫に叙任するんです! 天正18年(1590年)小田原征伐が行われ参陣します! その際に豊臣秀吉に鉄砲200挺を献上して喜ばれていますw 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で島津義弘に従い渡海し活躍しますw この時種子島家中のありったけの鉄砲を持って従軍してて…種子島隊は日本軍内で有数の重火器装備の精鋭部隊だったんですよ!これが朝鮮出兵時の島津軍の強さだったんです!
文禄2年(1592年)8月3日に豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)伊集院忠棟が豊臣秀吉の命令で島津領内で検地が行います! その際に太閤検地の煽りを受け種子島領を没収されるんです… そんで種子島は島津以久に与えられ代替地として薩摩国知覧院1万石を拝領します… この決定に不満を持つけど…島津義久に宥められ何とか我慢するんです… 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長3年(1598年)10月1日泗川城の戦いで明軍20万を島津義弘が7千で撃退!慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下ります! 慶長3年(1598年)11月18日露梁海戦で朝鮮水軍を破り無事に帰国します! 帰国後は国許にて静養してるんです! ちなみに…この頃の島津家は反豊臣派の島津義久と中立派の島津義弘の間で家臣団が分裂してたみたいなんです…島津義弘が大坂に留まってて…島津義久は本国薩摩にいたんですよ…島津義弘には本国の島津軍を動かす決定権が無くて少数の大坂在駐島津軍しか動かせなかったんですよ…慶長4年(1599年)1月薩摩国知覧院から移封され大隈国種子島に所領を戻されますw 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日五奉行石田三成襲撃事件が勃発します!慶長4年(1599年)3月9日伊集院忠棟が島津家伏見屋敷で島津忠恒に殺害されます…そんで伊集院忠棟の長男忠真が島津家に反抗し挙兵します!!〜庄内の乱〜慶長4年(1599年)6月騒乱鎮圧の為島津忠恒に従い都之城へ侵攻します! 徳川家康は九州諸大名に島津家救援軍を要請するけど…島津家が拒否します! 慶長5年(1600年)3月15日庄内の乱が終結します! 慶長5年(1600年)5月徳川家康が上杉征伐を号令します!! 慶長5年(1600年)9月30日徳川家康が九州諸大名に島津討伐軍を号令します! でも…両軍は睨み合いを続けるだけで戦線は膠着状態でした… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…慶長7年(1602年)に徳川家康が島津家本領安堵を決定するんです!でも…種子島は島津領となってしまい【大名としての種子島家は終焉】を迎えます…そんで島津家に家老として1万石で正式に仕えます!!この際に島津義弘が隠居し島津忠恒が家督を継ぎます! 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます… 慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長14年(1609年)島津忠恒の命令で兵3千を率い琉球に出兵します!! 慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長16年(1611年)1月21日島津義久が享年79歳で死去します…慶長16年(1611年)12月27日に享年44歳で死去します…戒名は「世尊院日恕大居士」です…この時点で子供は女子ばかりで男子(跡継ぎ)がいなかったんです… そんで種子島家は断絶の危機に瀕します!!でも… 何と側室前田重弘の娘サンが妊娠してる事が判明し皆んな待ちに待ったんです! 慶長17年(1612年)8月17日待望の長男忠時が誕生しますw その後子孫は薩摩藩の家老を輩出する重臣として1万石の家格で存続しますwそんで明治時代には男爵位を授与したんですよw ★☆★下画像は父種子島時尭の銅像で久時じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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花房正成は備中国高松藩の最初で最後の藩主【宇喜多秀家】の元家老で後の徳川家直参旗本ですw★記事が長くなったので2部構成ですw「花房正成【1】」の続きです!!文禄3年(1594年)宇喜多家執政戸川達安が突然宇喜多秀家に解任されます!!理由がわからず当初宇喜多秀家に抗議しますが…無視されます… 後任執政に長船綱直がなりますが…家老衆合議を無視し専政を行うんです!! 長船綱直に他の家老衆と一緒に抗議するけど…無視されちゃいます… 長船綱直は上手く宇喜多秀家に取り入って気に入られてたんですよ! 逆に戸川達安と正成自身らは口煩くて煙たがられてたんです… 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!慶長2年(1597年)からの慶長の役でも宇喜多秀家に従い出陣し活躍します!! 慶長2年(1597年)6月12日小早川隆景が享年64歳で死去します…慶長2年(1597年)10月9日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)1月宇喜多秀家が五大老の一人に任命されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…この頃宇喜多秀家が朝鮮出兵で悪化した宇喜多家財政再建の為に重税を課そうとします!これに一門衆の宇喜多詮家や同じ家老衆の岡越前守や戸川達安と大反対します!! さらに宇喜多秀家は家臣達にキリスト教に改宗するように命じて来るんです! ちなみに…宇喜多氏家臣団の多くは日蓮宗徒だったんで家中は騒然となります!! 影で後押ししてたのが宇喜多家執政長船綱直と豪姫附家臣中村次郎兵衛の2人でした… 普段から家老衆を軽く見てた長船・中村らに対する不満はついに宇喜多家中を2分する対立に発展します!!そんで反長船・中村派の急先鋒として暗躍するんです!そんでついに…
慶長4年(1599年)1月宇喜多家内で御家騒動を起します!!慶長4年(1599年)1月末頃に長船綱直が反対派により毒殺されます…宇喜多秀家は騒動沈静化の為に騒動首謀者を戸川達安と決めてかかり暗殺を謀ります!!でも一門衆宇喜多詮家が戸川達安を庇って大坂玉造邸に篭城しちゃうんです!! 今にも戦さが起りそうな一触即発の状況となるんですが… 徳川家康や大谷吉継の仲裁で御家騒動は集結するんですが…宇喜多秀家は大好きだけど… 長船・中村らを嫌い備中国高松3万1千石と高松城を放棄して宇喜多家を出奔します!! そんで密かに高野山で自主的謹慎生活を送るんです… 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!宇喜多秀家は密かに薩摩島津家の元に逃げ込んでたんです!!慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…備前宇喜多家は西軍加担を理由に【改易】となるんです…それと同時に備中国高松藩も主家に連座で【改易】されるんです… そんで宇喜多秀家正室豪姫は前田利長の元(実家)に戻るんですよw そんな縁から前田利長から仕官を何度も求められるけど…固辞しています!! 理由は主君であった宇喜多秀家の安否が今は一番の心配事だったからです! 島津忠恒や前田利長らに対して宇喜多秀家の身を案じた嘆願を要請していますw 慶長6年(1602年)薩摩島津家が徳川家康に降伏します!! 慶長8年(1603年)宇喜多秀家が島津忠恒・前田利長の懇願で助命され久能山へ幽閉されます…
この頃に徳川家康に召出され備中国猿懸5千石を拝領し直参旗本となるんですw そんで徳川家康に対して宇喜多秀家の待遇改善要請等をし続けたんです! 慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! そんで加賀前田家と協力し幕府の許可をもらって宇喜多秀家に援助をするんですw 慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件が起き大坂城から片桐且元が追放されます!!大坂城入りしてた宇喜多旧臣明石全登らに豊臣方に誘われるけど拒否します! 明石全登は宇喜多騒動時に長船・中村派だったからなんです… 慶長19年(1614年)からの大坂の陣で戸川達安と一緒に出陣し活躍します! 慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…この時恩赦で宇喜多秀家の刑が解かれるんですwこの決定を加賀前田家や宇喜多旧臣らと喜ぶんですw そんで加賀前田家は宇喜多秀家に10万石を分知して大名復帰を勧めるんですが… 宇喜多秀家はこれらの待遇を全て拒否して八丈島に留まるんです! この報せを聞いて…ショックで暫く寝込んじゃうんです… 花房家の家名が続く限り八丈島の宇喜多家を終生援助する事を遺言します! 家督は長男幸次が継ぎ以後花房家は大身の直参旗本として存続するんですw そんで遺言も守られ明治になって宇喜多家子孫が八丈島から戻って来る迄加賀前田家と一緒に援助を続けてたんですw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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父正幸は元々名門赤松氏の家臣だったんですが…右肩上がりの宇喜多氏に乗換えてます! 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄9年(1566年)2月宇喜多直家が三村家親を暗殺します!!永禄10年(1567年)7月宇喜多直家が浦上家の実力No.1になるんですw この頃から父正幸の勧めもあって宇喜多直家に仕え出すんですw 永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄12年(1569年)宇喜多直家が浦上宗景に対し謀反を起して挙兵します!!この時織田信長や赤松政秀と宇喜多直家は同盟を結んでたんです! 父正幸と一緒に宇喜多直家に従い大活躍してるんですよ! 元亀元年(1570年)から織田信長が越前朝倉征伐を開始します! でも…赤松政秀が黒田職隆・孝高(如水)親子に敗北します…さらに織田信長からの援軍も越前朝倉征伐の為に撤退します…そんで味方がいなくなり宇喜多直家は浦上宗景に降伏して特別に許されてまた浦上家に仕える事になるんです… 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正2年(1574年)再び宇喜多直家が浦上宗景に対し謀反を起して挙兵します!! この時は毛利元就と宇喜多直家は同盟を結んでたんです! 今回も父正幸と一緒に宇喜多直家に従い大活躍してるんですよ! 天正3年(1575年)9月宇喜多直家が浦上宗景を追放します!! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正5年(1577年)羽柴秀吉が中国攻めを開始します!!天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)12月浦上残党が反宇喜多の一斉蜂起を行います!!そんで父正幸と一緒にその鎮圧に努め大活躍するんです! 天正7年(1579年)5月宇喜多直家が織田信長派の後藤勝基らを攻め滅ぼします!! 天正7年(1579年)10月宇喜多直家は時勢を読み毛利家との同盟を破棄します! そんで織田信長に従う事にするんです!! 天正9年(1581年)父正幸と一緒に羽柴秀吉の鳥取城兵糧攻めに従軍します!! この頃の宇喜多家は宇喜多三老と呼ばれた戸川秀安・岡家利・長船貞親の3人の家老衆が主導で宇喜多秀家を補佐してたんですが…
戸川秀安が隠居して長男達安に家督等一切を譲るんです!! 天正10年(1582年)5月8日から羽柴秀吉の備中高松城攻めを従軍します!! 父正幸と一緒に宇喜多軍の中核をなして大活躍をするんです!! ちなみに…この時に羽柴秀吉に「水攻め」を提案したんですw 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月4日羽柴秀吉と小早川隆景が休戦しますw天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利します! 天正12年(1584年)羽柴家と毛利家が正式に和睦しますw そんで宇喜多秀家は備中東部から美作・備前を版図とする大大名となるんです!! 毛利氏に対する抑えとして羽柴秀吉より備中国高松3万1千石を拝領しますw そんで有事に備えて高松城の大規模な拡張工事を行います! この頃には花房家の家督を継ぎ宇喜多家の家老衆のひとりとなってたんですw 同じ家老衆の戸川達安とは仲良しだったんですw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます! 天正13年(1585年)7月からの四国征伐で宇喜多秀家に従い出陣し活躍します!! 天正14年(1586年)宇喜多秀家は羽柴秀吉の養女豪姫と結婚しますw この時前田家より豪姫に中村次郎兵衛と言う家臣が付き添っています! 天正14年(1586年)九州征伐にも宇喜多秀家に従い出陣し活躍します!! 天正16年(1588年)これ迄の功績により従五位下・志摩守に叙任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に出陣し活躍します!! 天正19年(1591年)閏1月6日宇喜多氏家老長船貞親が暗殺されます…文禄元年(1592年)からの文禄の役で大将となった宇喜多秀家に従い出陣します!!でも…大坂常在の宇喜多秀家の元には家老衆長船綱直がいたんです!! 文禄2年(1593年)1月碧蹄館の戦いでも大活躍し明軍を撃破します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 記事が長くなっちゃったので「花房正成【2】」に続きます!!★☆★ちなみに…下画像は仕えてる宇喜多秀家の肖像画で正成じゃありませんw★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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永禄3年(1560年)頃に近江六角氏家臣駒井秀勝の長男として誕生しますw 永禄3年(1560年)六角義賢が浅井長政に野良田の戦いで大敗します… 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄6年(1563年)六角家内で観音寺騒動が勃発します!!これにより父秀勝を始め六角氏家臣団が当主六角義賢と対立します! 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…この時に足利義輝の実弟一乗院門跡覚慶(後の足利義昭)が六角義賢の元に逃れて来て保護するけど…三好三人衆に室町幕府管領職等を条件に言い包められ六角義治は一乗院門跡覚慶を追放します!!
永禄10年(1567年)4月28日六角氏式目が制定され六角義賢に当主が代ります! 永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)織田信長が六角領内に侵攻します! 永禄11年(1568年)9月12日観音寺城の戦いで六角氏が大敗し滅亡します… これ以降父秀勝と一緒に織田信長家臣木下秀吉に召出され小姓として仕えます! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…元亀元年(1570年)越前征伐が開始されます!!天正元年(1573年)に木下秀吉が長浜城主となるんですw そんで「木下姓」⇒「羽柴姓」に改姓するんです…そんで… 羽柴秀吉は人材発掘に励み石田三成とか旧浅井家臣団等を多数登用します!! ちなみに…石田三成とは同じ位の年頃で仲良くしてたんですw 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正9年(1581年)鳥取城兵糧攻めに従軍します!!天正10年(1582年)5月8日から備中高松城攻めを従軍します!! この頃羽柴秀吉の馬廻衆として活躍してたんですが…官僚的な仕事も得意でした! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!この戦いで羽柴秀吉に従い出陣して活躍するんです!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方で従軍し活躍します! この頃政治調整能力が優れてる事を羽柴秀吉は高く評価してるんですよ! そんで要職である大津奉行・草津代官・矢橋代官に任命され歴任するんですw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでも羽柴方として活躍します! 天正13年(1585年)7月から四国征伐に出陣し活躍します!! 天正13年(1585年)これ迄の政治手腕を評価され羽柴秀次附の家臣となりますw そんで羽柴秀次の蔵入地の管理や右筆も務め才能を発揮するんです! 天正14年(1586年)12月25日に豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に豊臣秀次配下として参陣します!! 天正19年(1591年)9月1日豊臣秀次に従い九戸の乱に従軍し活躍します!! 天正19年(1591年)12月豊臣秀次が関白に就任しますw この時に従五位下・中務少輔に叙任任官しますw 天正20年(1592年)から文禄の役が開始されます! 元々筆まめで…この頃から書き続けた日記は「駒井日記」として有名で歴史的価値がある資料です!文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw この頃に高く評価してくれた豊臣秀吉に引き抜かれ直臣として仕えます! そんで豊後国大野・直入・大分・海士辺郡内2万5千石を拝領するんですw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命令で享年28歳で切腹します…この時…既に豊臣秀吉の直臣となってたんで連座を免れるんです!!慶長元年(1596年)伊勢国安芸郡1千石の加増を受けてます! そんで越前国内の検地奉行等も務めるんですよ! この頃「武将」というより「文官」として活躍し必然的に石田三成らと親しくなります… 慶長2年(1597年)から慶長の役が起き名護屋城に一時在陣します! 慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日醍醐の花見が催されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! そんで伏見城の戦いに従軍し活躍してます! そんで西軍加担を理由に一命は助けられ【改易】となるんです… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長7年(1602年)に許されて前田利長に仕えるんですwこの時に前田家客将だった高山右近と知り合い意気投合しますw 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城を追放されます…再三豊臣方から大坂城入りを誘われるけど前田家仕官済を理由に拒否します! 慶長19年(1614年)5月20日前田利長が享年53歳で死去します…慶長19年(1614年)8月高山右近がキリシタン追放令を受けて国外へ退去します…慶長19年(1614年)11月大坂の陣が勃発します!!慶長20年(1615年)1月8日高山右近がフィリピンにて享年64歳で死去します…慶長20年(1615年)5月前田利常に従い真田丸の戦いで活躍します!慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します… 元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永12年(1635年)に加賀にて享年75歳位で死去します…その後子孫は加賀藩士として存続するんですw★☆★ちなみに…下画像は豊臣秀次の肖像画で重勝じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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