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お母サンは5代目秋月藩主黒田長邦の娘此子サンですw 安永3年(1774年)11月18日伯父6代目秋月藩主黒田長恵が享年21歳で死去します…この時伯父長恵には跡継ぎがいなかったんで…秋月藩は【改易】の危機に立ちます!!そんで急遽末期養子として幕府に届けられ許可され4歳で家督を継ぐんですw 重臣達はひと安心し今迄通り重臣達が藩政を代行してたんですw でも元々生まれながら虚弱体質だったんで寝込む事が多かったんですよ… 安永7年(1778年)に浅間山が噴火を起します!! 天明3年(1783年)3月12日に陸奥国の岩木山が噴火します… 天明3年(1783年)7月6日には浅間山が大噴火を起すんです!! この時点で将軍拝謁もまだ済んでなかったよぉ… それにまだ結婚もしてなかったんで勿論子供(跡継ぎ)もいなかったんです… だから幕府が養子縁組を許可する見込みはなく秋月藩黒田家は【無嗣断絶】となります…重臣達は「この死」を隠し福岡藩黒田宗家に「何とかならないか?」と泣きつくんですよ!!そんである計画が生まれたんです!!それは… 義曽祖父である4代目藩主黒田長貞の娘サンが正二位権大納言唐橋存家と結婚してました! その3男豊煕を長堅の身代わりにするって計画だったんです!! 将軍拝謁前だし誰も気がつかないって事だったんですが…バレた時の事を考え中止になります!
天明4年(1784年)3月24日江戸城内にて田沼意知が旗本佐野政言に襲撃されます!! この頃幕府内は田沼意次派と松平定信派の権力闘争でドタバタしてたんですよ!! だから外様の支藩の事なんて正直幕閣達の眼中には無かったんです… 再び討議は振り出しに戻って別の計画が生まれたんです!!それは… 「この死」を隠し通して幕府に隠居願いを提出し養子を迎える… そんで幕府の許可が出たところで「この死」を公表するって計画だったんです! 義曽祖父である4代目藩主黒田長邦の外孫にあたる高鍋藩主秋月種茂の次男長舒(ナガノブ)を養子に迎えたい旨を重臣達は幕府に届出ます!それと並行して長堅自身は重病で歩く事もままならず将軍拝謁も出来ない状況だと申告してるんですよ!さらに…福岡藩黒田宗家を継いだ黒田斉隆はまだ8歳と幼かったんで補佐出来る人材が急ぎ必要でもあったんです!重臣達は田沼派の幕閣等いろいろなところに働き掛けて頑張ります! 天明5年(1785年)3月1日幕府の許可が下り長舒が24歳で養嗣子となりますw 重臣達は大喜びしたんですよwそんで早速… 天明5年(1785年)3月17日長堅が隠居した事にして… 養嗣子黒田長舒が即日秋月藩黒田家の家督を相続するんです! その後養嗣子長舒は福岡藩黒田宗家の補佐役となり長崎警備等も務めてるんです! その後…秋月藩黒田家はトータル12代続き明治維新を迎えるんですw ちなみに…【改易】はされてないけど…一時的でも「無嗣断絶」したので今回記事にしてみましたwそんでもって…この一件は以後前例となり秋月藩黒田家は若くして亡くなる藩主が多く藩主の死を隠したり…死亡日をズラす事が頻繁に行われたんですよ!
★☆★ちなみに…下画像は藩祖黒田長興の肖像画で長堅じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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取潰されたお殿様
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関ヶ原の戦後処理で西軍についた88家が改易されてます…また関ヶ原の戦い以降、江戸時代を通じて外様大名127家と親藩・譜代大名121家の計248家が改易されてます…戊辰戦争後に明治新政府により3家(請西藩林家・会津藩松平家・庄内藩酒井家)が改易され南部藩・仙台藩など22家が減封の処分を受けてます!これに旗本等が含まれると…かなりの数ですw

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父義昭には正室がいなかったんで『嫡子』とされ将軍世継として育てられたんです! この頃…父義昭と織田信長の対立が激化して来るんです!そんで武田・上杉・浅井・朝倉・石山本願寺・三好等の有力諸大名・諸勢力に対して信長討伐令発布します!これが「第一次信長包囲網」なんです!元亀3年(1572年)9月武田信玄が2万7千の兵をもって上洛開始! 元亀3年(1572年)10月1日織田信長が父義昭に「17条の意見状」を提出します!! 元亀3年(1572年)12月22日武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川軍を撃破します! 元亀3年(1572年)12月突然織田軍と対峙してた朝倉軍が北近江より撤退します… 元亀4年(1573年)1月織田信長が父義昭に和睦を申し入れるけど拒否します! その後も父義昭は織田信長に抵抗するけど… 幕臣細川藤孝や荒木村重らが織田信長側に寝返るんです… 元亀4年(1573年)4月5日父義昭が勅命により織田信長と和議を結びます… 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!!天正元年(1573年)7月3日父義昭が和議は破棄し織田信長に対し挙兵します! そんで山城国槙島城に立て籠もるんです!でも…織田信長の猛攻により… 天正元年(1573年)7月18日父義昭は織田信長に降伏するんです… そんでその際に人質として織田信長の元に送られるんです… 織田信長の命令ですぐ出家させられ興福寺大乗院に入れられちゃうんです… 父義昭は京都を追放され三好義継の元に引越したんです… ここで再び諸大名・諸勢力に信長討伐令発布し「第二次信長包囲網」を形成します! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正8年(1580年)閏3月石山本願寺が織田信長に全面降伏します…これによって事実上「第二次信長包囲網」は崩壊します… でも父義昭は懲りずに諸大名・諸勢力や織田家臣団らに対して信長討伐令発布し続けます!! 天正10年(1582年)3月羽柴秀吉が備中攻めを開始します!! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月4日羽柴秀吉と小早川隆景が和睦しますw天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起きます! 天正12年(1584年)羽柴家と毛利家が正式に和睦しますw そんで父義昭は再び流浪の生活を送るんです… 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます! この頃羽柴秀吉が父義昭に「養子にしてほしい」と言って来ますが…拒否してます!狙いは「征夷大将軍職」だったんですよ…それをわかってたからこそ断固拒否ったんです!天正13年(1585年)7月四国征伐が行われます!! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)から九州征伐が行われますw その後父義昭は出家し「昌山」と号し朝廷から准三后の待遇を受けたんですw この頃…大乗院門跡になっててその後「興福寺大僧正」に迄なってますw 天正18年(1590年)小田原征伐・奥羽征伐が行われ豊臣秀吉が天下統一します!! この頃に父義昭は豊臣秀吉の御伽衆となり山城国槇島1万石を拝領するんですw 天正20年(1592年)から文禄の役で父義昭は豊臣秀吉に従い名護屋城に在陣します! その際200人の藩兵を率いての参陣だったんです! 慶長2年(1597年)からの慶長の役でも父義昭は名護屋城に在陣します! でも…父義昭は体調を崩す事が多くなり父義昭の要請で還俗して「高山」と号したんです! でも…利用される事を避ける為に常に中立の立場を取ってたんです! そんで徳川家康に謁見して「不要」との理由で山城国槙島1万石を返納します! 東西両軍から味方要請の使者が来ますが…全て拒否し最後迄中立を貫きます!! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いで東軍が勝利します!慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…慶長6年(1601年)長男義尊が誕生しますwでも…自身の経験から政争に巻き込まれぬように実相院に預け出家させます! 慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます… 慶長8年(1603年)次男常尊が誕生しますw でも…長男義尊と同じように円満院に預け出家させます! この頃から体調を崩し寝込む事が多くなります… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 慶長10年(1605年)4月13日に豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! その後…奥サンの胤子は後陽成天皇の後宮(側室)となってるんですよ!そんで明暦4年(1658年)6月27日に享年73歳で死去します…2人の息子はその後も僧籍を離れずともに大僧正となって一生を終えるんです…ちなみに寛文11年(1671年)に次男常尊が亡くなった時点で足利氏嫡流は断絶となります!
★☆★ちなみに…下画像は父足利義昭の肖像画で義尋じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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幼名は「十二郎」なんですよw 慶長11年(1606年)父頼久が幕命で駿府城石垣普請工事を務めます! 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!慶長19年(1614年)父頼久が享年39歳で死去します…この時まだ5歳でした…祖父豊盛は大坂の役を控えた難局を5歳の当主で乗り切る事は難しいと判断します!! 慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長20年(1615年)5月幕府・豊臣の和議が破談となり大坂夏の陣が勃発! その後祖父豊盛は駿府城に常駐し徳川家康の元に出仕しますw 元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…その後祖父豊盛は江戸に戻り2代将軍徳川秀忠の御伽衆となるんですw元和5年(1619年)祖父豊盛が幕命で京都知恩院の普請奉行を務めますw 元和5年(1619年)10月に福島正則が改易されます! 元和6年(1620年)祖父豊盛が京都にて享年67歳で死去します…そんで15歳で元服し従五位下・主膳正に叙任し「豊嗣」と名乗り家督を相続しますwこの頃に直臣の大身旗本松平勝政の娘サンと結婚しますw 元和8年(1622年)8月に山形藩最上家が改易されます… 元和9年(1623年)に本多正純が改易となります! 寛永4年(1627年)7千石を加増されとなり合計1万3千石の大名になりますw そんで陣屋を清富に新築し芦屋から引越しますw でも…実際は江戸に定住し陣屋には代官を4人前後派遣して管理させたんです! さらに岸田川改修の大工事をして耕地の拡大を計り清富陣屋の内堀と外堀を兼ねる工夫もしますw城下を区画整理し直して城下町整備を行いつつ改めて検地を実施してさらに4500石の耕地を!!結局清富藩は実高1万7千石以上もあったんですw
さらに領内の各村落の自立を促したり「奉楞巌寺古文書」保護に尽力するんですw まさに『名君』だったんですよ! 3代将軍徳川家光の信頼も厚く元外様ながら将来を有望視されてたんですw 寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永9年(1632年)5月22日加藤忠廣が改易になります…寛永12年(1635年)6月10日義父松平勝政が享年63歳で死去します…寛永13年(1636年)5月24日伊達政宗が享年70歳で死去します…寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します!寛永16年(1639年)祖父豊盛が再建した銀閣寺の修理普請工事に務めます! そんで修復が済んだ銀閣寺にて父頼久の33回忌法要を執り行なうんです… 寛永17年(1640年)7月に池田騒動が起きます… だから清富藩宮城家は無嗣断絶にて【改易】となるんですよ… その後旧清富藩領は天領となるんです… ちなみに嫡流は絶えたけど宮城家は傍流が岡山藩池田家や尾張徳川家に仕え存続したんですw ★☆★ちなみに…下画像は最後に仕えた徳川家光の肖像画で豊嗣じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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幼い時から利発で「神童」と家中でも評判だったんですw 永禄3年(1560年)六角義賢が浅井長政に野良田の戦いで大敗します… 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄6年(1563年)六角家内で観音寺騒動が勃発します!!これにより六角氏家臣団が当主六角義賢と対立します! 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…この時に足利義輝の実弟一乗院門跡覚慶(後の足利義昭)が六角義賢の元に逃れて来て保護するけど…三好三人衆に室町幕府管領職等を条件に言い包められ六角義治は一乗院門跡覚慶を追放します!!
永禄10年(1567年)4月28日六角氏式目が制定され六角義賢に当主が代ります! この頃同じ六角氏重臣宮城賢祐の娘サンと結婚し婿養子に入りますw 永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)織田信長が六角領内に侵攻します! 永禄11年(1568年)9月12日観音寺城の戦いで六角氏が大敗し滅亡します… これ以降織田信長家臣木下秀吉に仕え…義父賢祐は織田信長に仕えます! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄11年(1568年)10月18日足利義昭が15代征夷大将軍に就任します!!元亀元年(1570年)越前征伐に木下秀吉配下として従軍します!!元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正9年(1581年)鳥取城兵糧攻めに従軍します!!天正10年(1582年)5月8日から備中高松城攻めを従軍します!! この頃羽柴秀吉の馬廻衆として活躍してたんですが…比較的官僚的な仕事も得意でした! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!この戦いで羽柴秀吉に従い出陣して活躍するんです!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方で従軍します! この頃元六角氏家臣山崎片家と再会し意気投合しますw そんで子供(跡継ぎ)がいなかったんで山崎片家の3男頼久を養子にしますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます! 天正13年(1585年)7月から四国征伐に出陣し活躍します!! 天正14年(1586年)義父賢祐が黒田如水と一緒に西国諸大名との交渉役を担当します!天正14年(1586年)12月25日に豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)北野大茶会で養子頼久が前田玄以と一緒に奉行を務めます! 天正20年(1592年)から文禄の役で名護屋城に一時在陣します! 文禄元年(1592年)豊後国日田に蔵入地代官として赴任し日隈城を築城します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)豊後国玖珠の蔵入地代官も兼任しますw 合計すると4万石程を実質支配してたんです! この頃「武将」というより「文官」として活躍し必然的に石田三成と親しくなります… 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)から慶長の役が起きます!慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日醍醐の花見が催されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下ります!その際に徳川家康の命令で徳永寿昌・山本重成と一緒に渡海し日本軍の撤兵を指揮します!! 慶長4年(1599年)1月これ迄の功績で従五位下・丹波守に叙任しますw 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 養子頼久と一緒に挙兵し西軍に加担し人質が逃げないよう大坂城平野橋を警護します! そんで西軍加担を理由に一命は助けられ【改易】となるんです… 家督は養子頼久に譲り出家し「宗広」と名乗りますw 慶長6年(1601年)積極的西軍加担じゃなかったんで徳川家康に許されます! そんで養子頼久と一緒に徳川家康に仕え出しますw 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長10年(1605年)養子頼久が実兄山崎家盛から但馬国内6千石程を分地されます! そんで但馬国芦屋に陣屋を構え家族で引越しますw 慶長10年(1605年)初孫豊嗣が誕生しますw そんで徳川家康に特別の許しを得て再び家督を相続します! 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長20年(1615年)5月和議が破談となり大坂夏の陣が勃発! その後…孫豊嗣が15歳で家督を継ぐんです!そんで… 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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奥山正之は越前国内1万1千石の第2代目(最後)の藩主【織田信長】の実弟【織田信行】の家老【佐久間盛重】の嫡孫ですw【柴田勝家】の元で鬼玄蕃と称された【佐久間盛政】の甥ですw正確な生年月日は不明なんですが…まるこ的仮定で…天正8年(1580年)頃に織田家重臣丹羽長秀の家臣奥山重定の次男として誕生しますw 父重定は元々「佐久間姓」だったんだけど…先祖の縁の地越後国奥山荘の地名を取って「奥山姓」に改姓してますwちなみに…兄重成は生まれつき病弱で嫡子として育てられますw 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正11年(1583年)父重定が丹羽長秀に従い羽柴方で賤ヶ岳の戦いに参陣しますwこの時…伯父佐久間盛政は柴田方で戦い享年30歳で討ち死にしています…戦後に丹羽長秀は羽柴秀吉から越前・若狭・加賀2郡約123万石を拝領します!!そんで父重定も大活躍したんで羽柴秀吉に絶賛されてますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに丹羽長重に従い父重定が出陣しますw 天正13年(1585年)4月16日丹羽長秀が享年51歳で死去します…天正13年(1585年)越中征伐に丹羽長重に従い父重定が出陣しますが…丹羽長重が不祥事を起して若狭15万石に大減封されちゃうんです… そんで父重定は羽柴秀吉の直臣となり越前国内1万1千石を拝領しますw 天正15年(1587年)九州征伐に父重定が従軍しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に父重定が従軍しますw 父重定は豊臣秀吉の命令で賤ヶ岳の戦い後に後北条家に仕官してた叔父佐久間安政・勝之兄弟(佐久間盛政の実弟)を探し出して豊臣家に仕えさせてるんですよ!
天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で父重定と一緒に肥前名護屋城に在陣します! この時に同い年で領地も近い越前国金津城主溝江長氏の長男長晴と仲良くなりますw 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)伏見城普請工事に参加します! 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日に醍醐の花見が催されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!でも…状況判断が出来る程じゃなかったんで混乱し友人溝江長晴と一緒に丹羽兄弟に従います! そんで丹羽兄弟・溝江長晴と一緒に大谷吉継の誘いで西軍に味方します! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)7月26日東軍前田利長が2万の兵で金沢城を出陣します!!攻撃目標は西軍丹羽長重の小松城だと誰もが思ってたんですが…慶長5年(1600年)8月2日突然前田軍は小松城を避け西軍大聖寺城を攻撃します! 慶長5年(1600年)8月3日大聖寺城が落城し城主山口宗永が享年42歳で自刃します…そんですぐに兵500を率いて加賀国に侵攻し大聖寺城を奪還し守備に徹します!慶長5年(1600年)8月末浅井畷の戦いで丹羽・溝江連合軍が前田軍に大損害を与えます! でも…圧倒的な兵力差(3千vs2万5千)で結局は前田軍に降伏します… 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いで東軍が勝利します!これを知り大聖寺城を放棄して撤退しますが…逃げ切れないと判断し東軍に降伏します…そんで助命の上で西軍加担を理由に【改易】を命じられます! その後…家督は兄重成の長男である甥重次に譲り出家し「宗巴」と名乗りますw 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…その後は京都に引越して公家・俳人らと交流しつつ悠々自適な生活を送るんですw慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 慶長10年(1605年)4月13日に豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! この頃に甥重次が幕府に召し出され1千石の直参旗本となるんですw 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!この頃豊臣方から誘いを受けるけど…「豊家に恩無し」と拒否します! 慶長20年(1614年)からの大坂の陣が勃発します!!慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…元和5年(1619年)10月に福島正則が改易されます!元和8年(1622年)8月に山形藩最上家が改易されます… 元和9年(1623年)に本多正純が改易となります! 寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永9年(1632年)5月22日加藤忠廣が改易になります…寛永13年(1636年)5月24日伊達政宗が享年70歳で死去します…寛永14年(1637年)閏3月6日丹羽長重が享年67歳で死去します…寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します!寛永17年(1640年)7月に池田騒動が起きます… 寛永17年(1640年)8月に生駒騒動が起きます… 正保2年(1645年)1月18日に享年65歳位で死去します…その後…甥重次の子孫は1千石の直参旗本として幕末迄家名を存続させるんですw★☆★ちなみに…下画像は伯父佐久間盛政の肖像画で正之じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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