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永禄2年(1559年)父義鎮が豊前・筑前両国の守護と九州探題に補任されますw 永禄5年(1562年)父義鎮が出家し「休庵宗麟」と号しますw 永禄9年(1566年)11月毛利元就が北九州へ侵攻を開始! 永禄10年(1567年)豊前・筑前両国で毛利元就扇動の反乱が多発します!! 何と反乱軍に大友氏重臣高橋鑑種も加担しますが立花道雪が鎮圧します!! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄12年(1569年)父宗麟が龍造寺討伐を開始するけど頓挫します…元亀元年(1570年)父宗麟が再度肥前に侵攻するけど今山の戦いで龍造寺隆信に大敗…元亀2年(1571年)6月14日毛利元就が享年75歳で死去します…元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…天正4年(1576年)父宗麟が隠居し家督を18歳で継ぎますwこの時重臣吉弘鑑理(立花宗茂の祖父)の娘菊姫と結婚しますw 天正5年(1577年)長男義乗が誕生しますw 天正5年(1577年)12月より島津義久が日向に侵攻し日向を制圧します!! 天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)3月15日父宗麟と一緒に4万の大軍を率い日向に出陣します!!大友軍は電撃的な快進撃を続けるけど…父宗麟と考えの違いが明らかで対立します…父宗麟は「日向にキリスト教の理想郷建設」で…義統自身は単純に「日向より薩摩島津家の駆逐」だったんです!天正6年(1578年)7月父宗麟が洗礼を受けてキリスト教に入信します! 天正6年(1578年)11月12日島津軍に大友軍が耳川の戦いで大敗します!!この戦いで重臣佐伯宗天・田北鎮周らや蒲池鑑盛を始め幕下有力武将が戦死します…これを期に龍造寺隆信や筑紫広門・秋月種実らが大友領への侵攻を開始するんです!!天正7年(1579年)11月27日織田信長の推挙で従五位下・左兵衛督に叙位しますw この時に…織田信長と毛利氏滅亡時は長門・周防2国を割譲する事を条件に毛利輝元を挟撃するって密約を結びます!でも…大友家の実権は相変わらず父宗麟が掌握してたんです… 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起きます!! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます!! 天正12年(1584年)3月24日沖田畷の戦いで龍造寺隆信が享年56歳で討ち死に…天正13年(1585年)9月11日立花道雪が享年73歳で死去します…これを機に島津義久が九州統一を目指し猛攻を開始します!!天正13年(1585年)10月豊臣秀吉が惣無事令を発布します! 天正14年(1586年)父宗麟が上洛し大坂城で豊臣秀吉に謁見し支援を求めます! 天正14年(1586年)12月12日戸次川の戦いで島津軍に大敗します!!そんで島津軍の猛攻に恐れをなして府内城より脱出し本拠地を占領されるんです…天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)兵25万を率い豊臣秀吉が九州入り先導役を務めます! 天正15年(1587年)4月黒田如水の強い勧めで妻子と一緒に洗礼を受けます! 天正15年(1587年)5月6日父宗麟が享年58歳で死去します…この直後に島津義久が降伏し九州征伐が終り豊臣秀吉に豊後一国を安堵されます…天正16年(1588年)2月上洛して豊臣秀吉に謁見しますw その際に「豊臣姓」の使用を許可され「吉」の諱を拝領し「吉統」と改名しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に参陣します! 天正20年(1592年)からの文禄の役に黒田長政隊5千と一緒に兵6千を率いて参陣!! 文禄元年(1592年)2月長男義乗に34歳で家督のみを譲ります! 文禄2年(1593年)小西行長から救援要請を受けます! でも「小西戦死」という誤報を信じた重臣志賀親次の進言で鳳山城を放棄し撤退します! 文禄2年(1593年)5月1日豊臣秀吉の勘気に触れ【改易】されます… その後徳川家⇒毛利家⇒佐竹家と転々と身柄を預けられ幽閉状態でした… ちなみに…長男義乗は加藤清正預りとなります…さらに妻菊姫は大坂を追放され供もなく幼い子供達と放浪し悲惨な生活を送ります…でも最終的に甥の立花宗茂を頼って柳川で生活します!文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)長男義乗が徳川家康の元に身柄を移されます… 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄4年(1595年)11月4日妻菊姫が享年34歳位で死去します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長2年(1597年)初孫義親が誕生しますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長4年(1599年)4月徳川家康の尽力により赦免されます! そんで増田長盛の配慮で大坂城下に屋敷を貰って引越します! さらに…御家再興をネタに西軍に誘われます…本当は東軍に加担するつもりでした!! でも…側室少納言局との間に生まれた3男正照を毛利氏に人質に取られたんで仕方なく御家再興も含めて西軍に味方する事に決めます!!慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)8月豊臣秀頼から鉄砲300丁を含む武器・馬匹・銀を贈られます!! そんで大坂を出陣し豊後に向うんですが…誰もその真意を知らなかったんです… 途中で黒田如水や旧臣吉弘統幸に東軍加担を説得されますが…拒否します!! そんで吉弘統幸は泣く泣く旧主と運命を共にする決意を固めます!! 慶長5年(1600年)9月9日毛利家全面支援で豊後入りし旧臣3千を集めます! 慶長5年(1600年)9月10日出陣し細川領杵築城に攻撃を仕掛けるけど敗北します… そんで黒田如水と杵築城代松井康之ら総勢1万が反攻を仕掛けて来ます!! 慶長5年(1600年)9月13日昼頃から石垣原の戦いが勃発します!!慶長5年(1600年)9月13日夕方に大勢が決し東軍が大勝利します!戦況詳細はこちら⇒黒田如水編3・決戦!石垣原!!・・(本編・宇喜多秀家物語67) 慶長5年(1600年)9月15日母里友信の仲介で降伏します… 身柄は黒田長政の元から常陸国宍戸流罪となり幽閉されます… 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦で東軍が大勝利します!!ちなみに…長男義乗は徳川秀忠に近習し東軍で参加したんです!慶長5年(1600年)10月1日六条河原で石田三成(享年41歳)らが斬首されます…慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍になりますw慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣になりますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生じます… 慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍になります! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長15年(1610年)7月19日配流先で享年53歳で死去します…その後の大友家は…長男義乗が1千石で高家として取立てられます!でも…慶長17年(1612年)7月11日に享年35歳で死去します…その後を初孫義親が継ぐんですが元和5年(1619年)8月18日に享年23歳で死去して大友宗家は断絶しますが…小倉藩細川氏家臣となってた3男正照の3男義孝に再度大友家を再興させ再び高家として取立てられ子孫は高家として明治維新を迎えますw ★☆★ちなみに…下画像は父大友宗麟の肖像画で義統じゃないです!★☆★【にほんブログ村】←ポチっw 【ブログランキング】←ここもポチっ
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取潰されたお殿様
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関ヶ原の戦後処理で西軍についた88家が改易されてます…また関ヶ原の戦い以降、江戸時代を通じて外様大名127家と親藩・譜代大名121家の計248家が改易されてます…戊辰戦争後に明治新政府により3家(請西藩林家・会津藩松平家・庄内藩酒井家)が改易され南部藩・仙台藩など22家が減封の処分を受けてます!これに旗本等が含まれると…かなりの数ですw

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お母サンは広島藩主浅野綱長の娘サンですw 生まれた時から病弱だったんですよ… ちなみに…5歳年下の妹近姫と2人兄妹だったんですw 父義方は藩財政を立て直す為に重税を課したり余り評判は宜しくなかったんです… 享保元年(1716年)9月6日中津藩小笠原家が再度【改易】となるんです… 享保6年(1721年)3月18日父義方が享年36歳で死去します…そんで7歳で家督と遺領3万石を継ぎ従五位下・式部大輔に叙任するんです!でも…藩政全般は藩重臣達が執り仕切ったんです! 享保9年(1724年)11月鹿沼藩内田家が【改易】となります… まだ結婚もしてなかったんで子供(跡継ぎ)もいなかったんですよ… だから梁川藩松平家は無嗣断絶で【改易】となるんです…でも… 元々梁川藩松平家は本家である尾張徳川家が血脈の断絶を避ける為に天和3年(1683年)に立藩したんですw後付の理由としては…外様の雄藩である仙台藩伊達家の親藩による監視業務…この2点だったんです!だから…享保14年(1729年)9月に尾張藩主徳川綱誠の19男松平通春が再び3万石にて 梁川藩松平家を再興してるんですよ! 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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ちなみに…名前は「まさゆき」って読むんですw 元禄10年(1697年)8月2日津山藩森家が【改易】となります… その際に叔父内田正長に1500石…同じく叔父久世正広に500石を分与します! そんで鹿沼藩は1万3千石となるんです!! 藩政は全て叔父正長が後見人となり重臣達が代行したんですw 元禄14年(1701年)3月14日浅野内匠頭長矩による殿中刃傷事件が発生します! 元禄15年(1702年)12月14日に「元禄赤穂事件」が発生します! 宝永6年(1709年)1月10日に5代将軍徳川綱吉が享年63歳で死去します…宝永6年(1709年)3月7日6代将軍徳川家宣に謁見し従五位下・信濃守に叙任しますwそんでもって徳山藩主毛利元次の娘サンと結婚するんですw 宝永7年(1710年)長男正親が誕生しますw 正徳2年(1712年)10月14日に6代将軍徳川家宣が享年51歳で死去します…正徳4年(1714年)に絵島生島事件が起ます!!正徳6年(1716年)4月30日に7代将軍徳川家継が享年8歳で死去します…正徳6年(1716年)5月義父毛利元次が【改易】となるんです…参勤交代時に江戸で一目惚れした町人の女性を鹿沼に無理やり連れて帰るんです! 実はその町人女性は結婚してて…それを追って尋ねて来た夫を「無礼」だと家臣に斬り捨てさせるんです!!それから狂気に走るようになっちゃった…だから「夫の呪い」という噂もあるんです…
この正室刃傷事件が幕府に知られちゃうんですよ! そんで幕府より咎められて蟄居処分となり鹿沼藩は【改易】となります… でも…藩祖内田正信の功績を考慮して長男正親に家名存続が許され家督を継ぎますw そんで新たに下総国小見川1万石を拝領するんです… 享保12年(1727年)12月長男正親が従五位下・出羽守に叙任しますw そんで長男正親が北条藩主水野忠定の娘サンと結婚するんですw 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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和泉国和泉郡寺田村の国人寺田知正の次男として誕生しますw 元々名前は「寺田安大夫定一」って言うんですよw 幼い時からの夢は「一国一城の主」になる事だったんですw天文19年(1550年)5月4日12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄5年(1562年)教興寺の戦いで畠山高政が三好長慶に大敗します!!そんで三好軍が岸和田城を奪還し三好氏家臣の松浦肥前守が城主となります! こん時に兄又右衛門正家と一緒に松浦肥前守に仕えます! そんで数々の戦いに参陣して兄弟で大活躍し次第に松浦家中で頭角を現すんです!! 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!永禄10年(1567年)斎藤龍興が追放され織田信長が美濃国を併合しますw 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…元亀元年(1570年)4月織田信長が越前征伐を開始します!!元亀元年(1570年)6月28日姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を織田・徳川連合軍が撃破!!! 元亀3年(1572年)7月織田信長が北近江侵攻を開始します!! 元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します! この頃従兄弟寺田安兵衛久信を松浦肥前守の家臣に推挙します! 松浦肥前守の信任も厚く常に兄正家と一緒に側に控え岸和田城代となってたんです! 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正3年(1575年)松浦肥前守を謀殺しちゃいます!!そんで岸和田城を乗っ取り兄正家と一緒に岸和田城主となるんです! そんでこの事件を正当化させる為に「松浦姓」に改名し「松浦宗清」と名乗るんです! 従兄弟寺田安兵衛久信も「松浦安兵衛久信」に改名しますw 兄正家と一緒に織田信長に従属し岸和田城を安堵されますw その後岸和田城は和泉水軍に編入されるんです! 天正4年(1576年)織田信長が石山本願寺攻めを開始し従軍し活躍します!! 天正4年(1576年)7月13日第一次木津川口の戦いが勃発します!! でも…織田方の和泉水軍は毛利水軍に壊滅的敗北をします… その後岸和田城は一時孤立するけど…頑張って持ち堪えるんです! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)3月羽柴秀吉が備中攻めを開始します!!天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…そんで兄正家・従兄弟松浦久信と一緒に羽柴軍と合流します!天正10年(1582年)6月13日羽柴軍が山崎の戦いで勝利します!! その際に大活躍し羽柴秀吉に気に入られ従兄弟松浦久信と一緒に馬廻衆となるんですw 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いに従軍し活躍します!! 天正11年(1583年)羽柴秀吉に岸和田代官に任命され中村一氏の与力となります! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも従軍し活躍します!! 天正13年(1585年)伊勢国井生川口に移封され1万を拝領しますw 天正13年(1585年)7月四国征伐に従軍します! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に石田三成配下とし従軍し忍城攻めに参陣します! 天正20年(1592年)文禄の役では名護屋城に在陣します! 平時には豊臣秀吉のSPとして身辺警護に当るんですw 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生します!! 文禄3年(1594年)に伏見城の普請に携わってますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…その後も豊臣秀頼に仕え続けます!慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!石田三成に西軍加担を誘われ承諾し兄正家と一緒に西軍に味方します!! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! そんで呼応して挙兵し大坂城入りし守備を務めます! 慶長5年(1600年)8月安濃津城攻めに参加して活躍します!! そんで落城後は伊勢周辺の東軍掃討作戦に参加し関ヶ原本戦には参加してません… 慶長5年(1600年)9月13日松浦秀任が大津城攻防戦中に享年40歳位で討ち死にします…慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!それを知って…早々に大坂城に撤退し東軍に降伏します!そんで西軍加担を理由に助命の上で【改易】となり暫く幽閉されるんです… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長6年(1601年)9月に身柄は南部利直に預けられるんです…この時一緒に同じ西軍だった石川貞通・岸田忠氏・宮部長熙も南部藩預かりとなってます! 慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!大坂方から誘われるけど…高齢を理由に断るんです! 慶長20年(1614年)からの大坂の陣が勃発します!!慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…元和5年(1619年)10月福島正則が改易されます!寛永5年(1628年)に盛岡にて享年78歳位で死去します…その後子孫は盛岡藩士として存続したんですw★☆★ちなみに下画像は晩年世話になった南部利直の肖像画で宗清じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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お母サンは丹後田辺藩主牧野富成の娘サンで幼名は「岩松」ですw この頃…父常春は愛人お玉のとこに入り浸ってたんですよ… そんで急遽3歳で遠藤家の家督を継ぎ郡上藩2万7千石を相続します! この機会に元服も済ませて「常久」と名乗るんですが… なんと池田主馬が自分の息子を藩主に擁立しようと陰謀を企てたんです… でも反池田派重臣の猛反発によって陰謀は頓挫しちゃうんです…そんで… 反池田派重臣達は幕府に「「疱瘡」による病死」と届出するんです! でも…幕府に一連の騒動がバレちゃうんです!!そんで… 跡継ぎはいるわけもなく郡上藩遠藤家は無嗣断絶にて【改易】となるんです… でも…幕閣内で遠藤家の家名存続を願う声が挙がるんです! 藩祖遠藤慶隆の功績等が考慮されて… 元禄6年(1693年)5月全く無縁の5代将軍徳川綱吉の側室瑞春院の実妹と旗本白須正休夫妻の長男を美濃大垣新田藩主戸田氏成の養子とします!そんでさらに遠藤家に養子入りして「遠藤胤親」と名乗り家名存続を許されるんですw
元禄6年(1693年)松山藩水谷家が【改易】されます!! 元禄11年(1698年)3月7日養子胤親が近江国三上藩1万石を拝領し復活しますw 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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