|
またまた超どマイナーですみません(汗)。突然ですが皆さんは後南朝ってご存知ですか?
【後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。
この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。】(ウィキペディアより)
後南朝のことは日本の歴史教育ではほとんど教えません。南北朝合一後も南朝の子孫が残って抵抗を続けたという事実は為政者にとっては都合が悪かったのでしょう。
一応歴史的事実と認められるのは、後亀山天皇の子、小倉宮の子孫(孫?曾孫?)と称する自天王(尊秀王)と弟、忠義王(河野宮)が吉野山中の行宮に籠っていたところ、幕命を受けた赤松家の遺臣たちに襲われ1457年殺害され神璽を奪われ殺された事件(長禄の変)までです。
この時自天王はまだ18歳だったと伝えられますが、これにより南朝残党の組織的抵抗は途絶え壊滅したとされます。嘉吉の変で将軍義教を暗殺し滅ぼされていた赤松家は功により再興を許されました。
一方、美作国(岡山県北部)に南朝の残党が移り住み子孫が続いたという伝承もあります。幕府に抵抗し比叡山で討たれた小倉宮の遺児を美作守護である山名教清が秘かに匿いその子孫が美作で続いたというのです。
確実な資料があるわけではなく、あくまで伝承ですが私は匿ったとされる山名教清に興味を持ちました。
調べてみると教清は山名氏のうちでも傍流です。祖父の義理が美作・紀伊の守護を拝命するも宗家の氏清が明徳の乱で足利義満に追討されたのに連座して失領、孫の教清の代に嘉吉の変が起こり、山名氏から赤松氏に奪われていた美作国に山名軍の大将として侵攻、戦後功により美作守護に任命された人物です。
史実ではこれくらいしか載っていない人物ですが、私が考えるに山名一族の中でも美作に地縁があったのではないかと考えます。
山名氏は大内氏とともに一時は足利直冬(ただふゆ。尊氏の庶子、直義の養子)を奉じて幕府に抵抗した勢力です。そのため幕府に帰順した後も将軍家からは不審の目で見られていたし、山名側も完全に信用していたわけではなかったと思います。事実氏清の代に一度滅ぼされていますし。
山名側としては、今後万が一の事があるかもしれないと備える必要がありました。幕府側も山名側も疑心暗鬼になっていたのでしょう。
そのために、来るべき危機が訪れたときの切り札として南朝皇統の血をひく遺児をかくまったのではないでしょうか?こうして見ると美作後南朝説は俄然真実味を帯びてきます。
応仁の乱時、山名宗全は南朝の子孫と称する皇子を奉じています。どこから来たのか、どのような系譜かも不明ですが、もしかしたら美作に逃れた小倉宮の子孫だったかもしれません。しかし彼がその後どうなったかも分かりません。
地元の伝承では南朝の子孫と称する一族が江戸時代まで存続していたとされますからロマンがありますね。
それを利用しようとした山名一族は一族相争って分裂し、美作守護も再び赤松氏に奪い返されてしまいます。
そして戦国時代に突入、後南朝の子孫たちは激動の時代をどのように過ごしたのでしょうか?歴史の陰に埋もれひっそりと暮らしたのでしょう。
現在残っているのは伝承のみです。いつの日か現地を訪れて詳しく調べてみたいですね。
|
名門の盛衰
[ リスト | 詳細 ]
|
甲斐源氏武田氏の嫡流は文字通り甲斐守護家として連綿と続き武田信玄という有名人を出しました。一方武田氏は分流が多いことでも有名で、安芸武田、若狭武田、上総武田などが知れれています。
毛利元就のライバルとして安芸に君臨した武田元繁が比較的知られていますよね。よく小説などでは「安芸武田家は安芸の守護大名であったが、次第に没落し大内氏や尼子氏に翻弄される弱小勢力に落ちぶれた」と説明されることが多いと思います。
しかし調べてみると実態はどうも違うようです。室町時代の安芸守護は甲斐守護と兼任した十代信武と、その次男で安芸武田家初代の氏信だけしか守護になっていません。
氏信の時代に安芸に下向したようですが、1368年には幕命により守護職を剥奪されています。理由は不明ですが幕府の不興をかったのかもしれません。あとを継いで守護になったのが今川了俊ですから九州へ攻め込む準備のために(安芸・備後の兵力を組織した)任命されたようです。
今川了俊が九州探題として赴任した後、安芸武田氏に守護職が戻ったかというとそうでもありませんでした。以後細川氏・渋川氏と続き最後は山名氏が独占します。
武田氏は本拠銀山城周辺の分郡守護として残るのみでした。ですから最初から安芸全土を支配したわけではなかったようです。とすれば没落も何もありませんね(苦笑)。
もっとも安芸国人は山名氏の安芸支配には抵抗したようでしばしば反乱をおこしますが、その背後に安芸武田氏の扇動があったことは想像されます。
安芸武田氏は、山名氏との対抗上細川京兆家と結んでいたようですが、六代将軍足利義教の時大チャンスをつかみました。安芸武田氏四代信繁の長男信栄が将軍の命で若狭守護職・一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を拝命します。
系図を見ると安芸武田氏は本拠を若狭に移したみたいですね。守護でさえない安芸と守護に任命された若狭では、どちらをとるかは明白でした。
信栄の弟国信の子孫が代々若狭守護を歴任し、安芸には弟の元綱が残ったようです。元綱は若狭に移った宗家の代官的地位でした。
元綱の嫡子が有名な(?)元繁です。安芸の佐東・山県・安南の分郡守護代(若狭武田家の)となります。はじめ大内氏に従いましたが尼子氏が台頭してくるとこれと結び安芸全土支配をもくろんで吉川氏領に侵攻します。
これを迎え撃った毛利元就と吉川氏の連合軍に1517年有田中井手の戦いで敗れ元繁は戦死しました。元就にとってはこれが初陣だったそうですが、5千ともいわれる圧倒的優勢だった武田勢を寡兵で破ったことで一躍名を上げました。
一方負けた安芸武田氏はしだいに衰退し、最後は若狭武田家から養子に入った信実の代に、大内氏の命を受けた毛利元就に攻撃され1541年居城の銀山城を落とされて滅亡します。
名門であっただけにその最期は哀れを誘いますね。
|
|
土佐は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。】(ウィキペディアより)
最近戦国時代の土佐に非常に興味が湧いています(笑)。関ヶ原後山内氏が入部した時は表高20万石となっていますが、太閤検地の時は9万8千石でした。実際もそれくらいだったでしょう。
10万石足らずの土佐に、戦国時代7人(一条氏を加えると8人)の豪族がひしめき合っていたのですから驚かされます。だいたい一郡に一人の割合ですね。
もともと土佐はこれらの豪族の微妙なバランスの上に成り立っていましたが、中央政界で土佐守護も兼任していた管領細川政元が暗殺されたことでタガが外れたようです。
真っ先に動いたのは長岡郡の山間部に勢力を持っていた本山氏でした。管領細川氏の威光をかさに土佐に君臨していた長宗我部兼序(かねつぐ)を滅ぼすため、近隣の吉良、山田氏などと語らい連合して1508年長宗我部氏を攻撃します。これで一時長宗我部氏は滅亡し、兼序の遺児千雄丸(のちの国親)は一条氏を頼って亡命を余儀なくされました。
本山氏の最盛期を築いたのは本山茂宗(しげむね、1508年〜1555年)の時代でした。入道して梅慶と号したのでこちらの名前が有名ですね。
本山氏は本拠の本山城から平野部に進出し朝倉城を築き支配の拠点とします。梅慶は中村御所一条氏とも敵対し土佐で最も力を持った勢力に成長しました。
急速に台頭した本山氏への反感もあったのでしょう。一条氏の庇護下にあった千雄丸は、一条氏の肝煎りで再び長岡郡の所領を回復します。梅慶の生きている間は大丈夫でしたが、彼の死後再び力を取り戻した長宗我部国親は不倶戴天の敵として本山氏と対決しました。梅慶の生きている間雌伏し本山氏と政略結婚までしていた国親でしたが、その死後挙兵し梅慶の後を継いだ茂辰(しげとき)と戦います。
1560年の長浜の合戦で本山軍を破った国親は長浜、浦戸城を本山氏から奪取、朝倉城に迫ります。が、国親は急に病を得て1560年急死しました。享年57歳。
あとを継いだのは嫡男の元親でした。元親は本山氏を攻撃し続け、圧迫に堪え切れなくなった茂辰は朝倉城を焼いて、本拠の本山城に退去します。
元親はその後も攻撃の手を緩めず本山氏をついに滅ぼします。こうして土佐中央部に確固たる地位を築いた元親は、安芸氏、次いで一条氏を滅ぼして土佐統一に成功するのです。
このあたり司馬遼太郎の「夏草の賦」に詳しいので興味のある方は一読をお勧めします。
七人守護はあるいは降り、あるいは元親に滅ぼされてしまいました。元親は土佐統一のエネルギーを四国平定へと振り向けていくことになります。土佐の戦国時代は非常に面白いですね。
|
|
マニアックな前記事の続きです。前の記事で細川氏は守護にはなったものの土佐には土着せず長宗我部氏に守護代的な役割を与えて間接支配していたと書きました。
事実、長宗我部氏は南北朝時代の当主信能(のぶよし)が細川顕氏につき従い長岡郡八幡山東坂本で南朝方と戦ったと武家家伝にありますから細川方の有力武将であったことは間違いないと思います。
信能はその功績で土佐国内に大桶郷・吉原地頭職、朝倉領家・深淵郷・介良庄中塩田など総計総計千百三十四町を与えられたとされますから、これが長宗我部家発展の基礎になったのでしょう。
その子兼能も「細川氏から夢窓疎石の創建した吸江庵の寺奉行(俗別当)に任ぜられた」とありますからかなり有力武将であったと想像されます。
一方、細川氏が土佐守護に任ぜられると一族の細川頼益(細川頼元の子。ただし頼春の子の右京大夫頼元とは別人。遠州家の祖)が守護代として入部し香美郡田村荘を領したと伝えられます。
遠州家は頼益−満益−持益−勝益−政益−益氏と続いたそうです。しかし細川政益が土佐守護代を務めたのは1507年までだそうですから、この年は意味を持ちそうです。というのは細川京兆家(宗家)の政元が暗殺された年でもあるからです。
次の益氏は守護代になった形跡がありません。そして1573年失領とあります。この年も丁度長宗我部元親の土佐統一戦の最中にあたります。
政元の死とともに土佐守護代としての実権を失った遠州家は香美郡田村荘の一領主として細々と生き残っていたのでしょう。さらには守護代家といっても細川京兆家と結び付く長宗我部氏との力関係は微妙だったのかもしれません。遠州家は系図を見る限り細川一門でもかなり傍流ですから。
どちらにしろ細川遠州家の土佐支配は、宗家京兆家の威光あってのもの。それが失われた後は急速に没落していったのでしょう。最後は長宗我部元親に滅ぼされたのか?
いやあ、土佐における細川氏の歴史が分かって良かったです(笑)。
|
|
ちょっとマニアックな記事で非常に恐縮なのですが、戦国時代の土佐でなぜ長宗我部氏が台頭したか調べていたんです。
すると長宗我部氏はもともと南北朝時代から土佐守護細川氏の被官として活躍し、室町時代も細川家の威光を背景に土佐中央部に君臨し(守護代的立場か?)、権勢を誇っていた事が分かりました。
細川家が中央の争いで土佐に構っていられない状況になった時、事件は起こりました。細川家の力を頼んで驕慢の振る舞いあった長宗我部兼序は土佐諸豪に憎まれていたため、連合して攻められ一時滅亡したのです。兼序が本山氏をはじめとする土佐諸豪に攻め滅ぼされたのが1508年。丁度後ろ盾だった管領細川政元が暗殺された一年後というのも象徴的ですね。以後土佐は細川氏の支配が及ばなくなり七人守護とよばれる土豪が台頭する戦国時代に突入したそうです。
普通守護家がしっかりしていれば、たとえ勢力が衰えたとしても有力豪族の傀儡として命脈だけは続くものですが、どうも土佐では細川家自体が雲散霧消したような印象です。
どういうことなのか調べたところ、歴代土佐守護は京兆家の当主が他の守護と兼任するか野州家や阿波細川家から入ったようで継続支配していたわけではないようです。とすれば長宗我部氏は土佐に土着しているわけではない細川氏の不安定な権力に依存していたわけで、脆弱な基盤しか持ち得なかったのでしょう。かといって守護代になれるほどの実力も無い。とすれば兼序時代の一時的滅亡はあり得べき必然だったのかもしれません。
これは備中細川家にも言えるようです。一応備中に土着の勢力を築いていたようですが庄氏などの有力国人の力が強すぎて勢力を広げられなかったようです。さらには細川京兆家をはじめとする一族の介入もあり安定した勢力には成長できませんでした。
また分かりにくいのは、細川野州家も備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めていたそうですからこちらとの力関係はどうなっていたのでしょう?ウィキなどで見ると野州家の細川政春(細川高国の実父)が備中守護を務めていますから、この時代には備中細川家はすっかり没落していたのかもしれません。
政春の後、備中守護はしばらく任命されていないそうですから、備中もまたこの時以降戦国時代に突入したのでしょう。
戦国時代尼子晴久に攻められて備中家最後の当主通政が伊予に逃亡したとありますから、細々ながらは生き伸びていたのでしょう。その後甥か子か不明ですが、通重という者が備中奪還を図りますが失敗、最後は毛利家に仕え幕末に至ったそうです。
ウィキでは通政を野州家としていますが、この系図を信じる限り備中家です。
こうして見てくると細川一族は多くの国の守護を務めましたが阿波・讃岐・淡路・和泉などを除くと継続支配はできなかったようです。これは他の守護家も同様で複数の守護領国を持つ大名でも大内氏などのように領地が隣接していなければその勢力を保つのは難しかったということでしょう。
山名家の場合は隣接していたのですが、逆に一族での分割統治を徹底しすぎたため共倒れになったケースだと思います。
|





