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信濃小笠原一族

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 武田信玄を描いた小説などでやられ役として登場する信濃守護小笠原長時。たしかに小笠原氏は信濃守護でありながら強固な支配権を築いたわけでもなく、同族が争い大塔合戦で信濃国人連合との合戦で大敗したことで衰退し、塩尻峠で武田軍に完敗したことで一時滅亡しました。
 
 しかし甲斐源氏の名門で鎌倉以来信濃に勢力を張った一族であるのは事実。調べていくと小笠原氏は不運が重なって守護から守護大名に成長できなかった面もありました。私はこういう味のある一族が大好きだったりし
ます(笑)。
 
 小笠原氏は、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したのに始まるそうです。甲斐源氏の嫡流は武田氏ですが、小笠原氏も庶流でありながら鎌倉初期にうまく立ち回り甲斐源氏の中でも有力な一族になりました。
 
 ちなみに小笠原初代長清の弟、光行が陸奥南部氏の祖です。
 
 
 鎌倉初期小笠原氏は源氏の名門として頼朝に推挙されて1185年信濃守に補されるなど有力な一族でした。しかし頼朝の死後比企氏に接近したことから、比企の乱に巻き込まれ一時没落します。
 
 承久の変で長清・長経父子が戦功をあげ阿波守護の地位を得るものの本拠地信濃の守護は北条氏に独占され逼塞を余儀なくされました。
 
 信濃小笠原一族が再び興隆するのは南北朝時代です。小笠原氏の惣領宗長は足利尊氏の誘いで足利方に転じ1335年信濃守護に任ぜられました。ところが北条方の多い信濃では、中先代の乱で守護所を北条方の諏訪氏に攻撃されるなど散々でした。
 
 南朝勢力も南信濃を中心に活動するなど小笠原氏の統治は困難を極めました。1355年桔梗ヶ原の合戦でようやく南朝方を撃破、これを機に南朝勢力は衰退し小笠原氏の信濃支配が固まることになります。
 
 そして1400年信濃守護に任命された小笠原長秀が、信濃に入国した時に事件が起こります。当時バサラ大名として有名だった長秀は善光寺で国人たちと対面した時非常に無礼で横柄な態度をとったそうです。
 
 京の都では良くても信濃のような田舎でもそれが通用すると思った長秀ば愚かでした。もともと心から小笠原氏に信服していたわけではない国人たちは当然烈火のごとく怒ります。
 
 
 長秀が川中島で強引に年貢を取り立てようとしたのがきっかけで、村上氏、仁科氏、海野氏、高梨氏などおもだった国人が連合(大文字一揆)して守護小笠原氏に対して立ち上がりました。守護方に付いたのは信濃南部の国人のみ。両軍は善光寺平南部で激突します。いわゆる大塔合戦です。
 
 守護方は800騎、対して連合軍は3000騎とされますから劣勢は明らかでした。当然守護方が大敗、守護代大井氏の仲裁で辛くも窮地を脱し、長秀は京に逃げ帰ってしまいます。
 
 長秀はこの失態で信濃守護を罷免されました。あまりにも愚かな失敗でした。1416年上杉禅秀の乱で功を上げたことにより長秀の弟政康が信濃守護に返り咲きますが、信濃は国人勢力が台頭しかつてのような強力な支配は築けませんでした。
 
 小笠原氏は惣領の地位を巡って一族で相争います。そしてそのまま戦国時代に突入。その後はご存知の通り。隣国甲斐の武田信玄の侵略を受け1548年塩尻峠の合戦で大敗、時の信濃守護小笠原長時は本拠林城を追われ村上氏を頼ります。しかし村上氏も武田氏に滅ぼされたため最後は京都に逃げました。
 
 ここに信濃守護、小笠原氏は一時滅亡するのですが、長時の三男貞慶が織田信長、次いで徳川家康に仕えたことから再び運が向いてきます。
 
 1582年本能寺の変後の混乱を受けて徳川軍が信濃侵攻した時に同行、悲願の府中回復を果たしました。長時は息子の府中回復を見届けて死にます。貞慶の子秀政が1590年下総古河三万石を与えられたのを皮切りに徳川家の譜代大名となり秀政の次男忠真が豊前小倉十五万石に封じられたのをはじめ子孫が多くの大名になっています。
 
 
 何度も滅亡の危機にありながら不死鳥のごとく蘇ってきた小笠原一族。考えてみれば不思議な一族です。ただ小笠原氏は父祖の地である信濃復帰を最後まで望んでいたそうですが、さすがにこれだけは許されなかったようです。一時的には信濃松本城主になっているんですけどね(笑)。
 
 
 

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 足利一門の名家吉良氏。「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われながら本拠三河の守護でさえ定着せず、興隆する他の一門を眺めながら緩やかな衰退の道を辿りました。
 
 しかし吉良氏とて決してチャンスがなかったのではありません。信濃守護にもなっているし、奥州探題として一時は絶頂期さえ迎えているのです。それでも守護大名として成長しなかったのは歴代当主が凡庸だったのでしょう。運もあったと思います。
 
 ところで吉良氏はちょっと複雑で、通常吉良氏の初代と言えば足利義氏の庶長子、長氏ですが義氏の四男義継も同じ吉良庄を貰って吉良氏を名乗っています。吉良氏は発祥当時から長氏流と義継流のニ家があったわけです。
 
 なぜこうなったかと言うと吉良庄自体がもともと西条、東条と二つに分かれていたので西条庄を長氏が、東条庄を義継が賜ったというわけです。
 
 ただ長氏の四代後の満貞の時代、弟の尊義が東条吉良庄を横領し勝手に東条吉良氏を名乗ったので義継流はそれと区別するために任地の名を取って奥州吉良氏と呼ばれました。
 
 ちなみにどうでもよいことですが、上の系図は間違っています。斯波氏の初代家氏は足利泰氏の子です。
 
 
 ですから奥州吉良氏と三河吉良氏を同族扱いするのはやや抵抗があるのですが(苦笑)、同じ吉良なのでまあ良しとしましょう(笑)。
 
 
 大飛躍する可能性があったのは奥州吉良氏のほうでした。義継の曾孫、貞家は1345年畠山国氏とともに奥州管領に任命され下向します。貞氏は畠山国氏とともに奥州を鎮定し一応足利幕府の統制化に置きます。
 
 ところが1350年、観応の擾乱が起こると貞家は東国で優勢だった足利直義派に付き、尊氏派に残った畠山国氏を高師直一派討伐という名目で攻撃します。不意を討たれた畠山一族が一時滅亡したことは前回書きました。
 
 せっかく静まっていた奥州でしたが、足利幕府内の内紛でガタガタになったところを南朝の北畠顕信(北畠親房の次男。顕家の弟)に衝かれ国府(多賀城)を奪われるという失態を演じました。
 
 間もなく奪回には成功したのですが、1353年死亡。子の満家が奥州管領職を世襲します。中央での混乱が収まると、幕府は吉良氏に奥州を任せることに不安を感じ、新たに斯波家兼を奥州管領に任じ下向させました。
 
 石塔義憲もこれに前後して奥州に赴任していたため、吉良、畠山(国氏の孫国詮)、斯波、石塔と互いに奥州管領を称する足利一門四家が並立するいわゆる奥州四大将時代が到来します。
 
 しかし次第に斯波氏が優位に立ち、他の三家を圧倒するようになって行きます。陸奥大崎五郡を中心に支配を固めたので以後家兼の子孫は大崎氏を名乗りました。
 
 
 奥州吉良氏は満家の死後、子の持家が後を継ぎますが幼少のため後見人を巡って大叔父貞経(貞家の弟)と叔父治家(満家の弟)が争い、斜陽の家がますます衰えていくようになります。
 
 一時は事態を憂慮した幕府から、治家に追討軍が送られるまでになったのですが、これは治家が吉良氏の勢力拡大を目指して将軍足利義詮に謀反を起こしたからだとも言われています。1367年追討軍の大将結城顕朝の軍に敗れた治家は没落し、奥州吉良家の勢力はほとんど失われました。
 
 このままでは歴史に埋もれて消えていく運命にあった奥州吉良氏でしたが、捨てる神あれば拾う神ありで、鎌倉公方足利基氏に1390年治家が招かれ上野国飽間郷に領地を与えられたことで滅亡を免れます。
 
 奥州吉良氏は、「鎌倉公方の御一家」ということで別格の扱いを受け 「足利御一家衆」「無御盃衆」と呼ばれて優遇されました。
 
 治家から五代後の成高の時代に武蔵国荏原郡世田谷(東京都世田谷区)に世田谷城を構え移り住みます。蒔田にも居館をもっていたので「世田谷御所」とも「蒔田御所」とも呼ばれました。
 
 この世田谷吉良氏は、山内、扇谷両上杉の争い、北条氏の侵略を上手く泳ぎ切ります。驚くことに北条氏は一度も吉良氏を攻撃したふしがないのです。むしろ姻戚関係を結ぶことで取り込もうとしました。世田谷吉良氏がそれなりに権威を有していた証拠かもしれません。
 
 
 北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入ると世田谷吉良氏は家格の高さから家康に召しだされ蒔田氏として高家に取り立てられます。
 
 江戸時代有名な元禄赤穂事件が起こると三河吉良氏が断絶したのを受けて吉良氏に復姓しました。以後幕末まで続きます。
 
 

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 畠山氏は源氏の名門、足利一族です。実は平姓畠山で有名な畠山重忠が北条氏の陰謀で滅ぼされたとき、重忠の未亡人(北条時政娘)と結婚してその遺領を継いだのが足利義兼の庶長子・足利義純でした。
 
 義純は、新田義兼の娘と結婚し子まで成していましたがそれを義絶しての婚姻でした。ちなみにこの時義絶された子から岩松・田中氏が出ています。
 
 北条と足利の思惑が一致した製政略結婚だったのでしょうが、畠山の名跡と武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)の所領を得たのですから義純にとっては大幸運でした。
 
 名族畠山氏の名跡を継いだので、義純の子孫は足利一門の内でも斯波氏に次ぐ家格を与えられました。
 
 もともとの嫡流は、三代時国の長子高国でした。高国は伊勢守護をはじめ幕府要職を歴任し1346年には吉良貞家とともに奥州探題にも補された実力者です。しかし観応の擾乱で直義派についた吉良貞家の攻撃を受け岩切城の合戦で敗北、一族郎党ともども自害して果てます。
 
 国氏(高国の嫡子)の子大石丸だけが逃れて安達太良山に隠れ住んで生き伸びました。のち遺臣らに担がれお家を再興、一族の敵吉良氏と新たに奥州に下向した斯波氏の連合軍に再び敗れ最後は二本松に落ち着きます。これが後に伊達氏に苛めぬかれ義継が伊達輝宗を拉致し、政宗に鉄砲で撃ち殺される二本松畠山氏になりました。
 
 これを見ると吉良氏も結構奥州で頑張っていたようですが、その後奥州においては勢力を失いました。
 
 高国一族が滅んだので、弟貞国系に嫡流が移り貞国の孫国清の時代には関東管領として東国で絶大な権勢を誇るようになります。しかし鎌倉公方足利基氏と対立、同僚の関東武士団からも罷免要求が出されるほど嫌われて、伊豆で挙兵しますが敗北殺されてしまいます。
 
 畠山氏はこれまでの功績で河内、和泉、紀伊、越中の守護に任じられていました。幕府もこれを滅ぼすことはできず国清の弟義深に家督を継がせます。この家系は歴代衛門督や衛門佐の官位を世襲しましたから衛門督の唐名執金吾から、畠山金吾家と呼ばれました。
 
 義深の子基国は、足利三代将軍義満に仕え明徳の乱応永の乱で功を立て将軍の深い信頼を勝ち取ります。功により能登守護も獲得、次男満則(満慶みつのり)に受け継がれました(能登畠山氏)。
 
 一方、基国は斯波武衛家、細川京兆家が対立するなかで第三の勢力として台頭、両家の牽制の意味もあって初めて幕府管領に任じられます。これにより畠山金吾家は斯波武衛家、細川京兆家とともに三管領家の一つとして幕府に重きをなす家柄となりました。
 
 河内、紀伊の守護(和泉国は途中で細川氏に奪われる)を世襲し、河内高屋城を中心に支配を固めました。
 
 基国、満家、持国の頃が畠山金吾家の絶頂期だったかもしれません。持国には子がなく、甥の政長を養子にして跡を継がせるように決めていました。ところが側室との間に実子義就が生まれたためお決まりのお家騒動が起こります。
 
 実は義就の母は当時の高級娼婦だったとも言われ、他に小笠原政康や飛騨江間氏との間にも子を産んでいます。このことから持国の実子だったどうかも疑われ、畠山家中を二分するほどの大紛争になりました。
 
 当時の室町政界の実力者、管領細川勝元は政長を、山名宗全は義就を支援しこれがのちの応仁の乱に発展します。
 
 嫡流畠山金吾家ですが、それぞれの官職から尾州家(政長・尾張守)総州家(義就・上総介)と呼ばれるようになりました。
 
 応仁の乱の間、両者は山城や河内で激しく戦います。一時は1447年持国の死を受けて義就が家督を継ぎましたが、次第に政長方が盛り返し1490年義就の死とともに衰退。一時は息子の義豊が河内守護にもなりますが、政長の子尚順の反撃で1499年戦死、孫の義英の代には完全に管領細川政元の傀儡と化しました。
 
 1532年総州家四代義堯の代に細川晴元、尾州家畠山稙長、義堯の元重臣木沢長政の連合軍に敗北、木沢長政の居城飯盛山城攻撃中に長政支援に現れた一向一揆と戦って敗れ自刃、応仁の乱以来の畠山宗家を二分した争いは総州家の滅亡により終わりました。
 
 一方、尾州家ですが政長が一時管領に就任していたことが大きかったのかもしれません。ただ政長自身は政敵細川政元との争いに敗れ明応の政変で河内国正覚寺城を包囲され自刃しています。
 
 尾州家は政長の嫡子、尚順(ひさのり)が継ぎました。尚の字で分かる通り将軍足利義尚の一字を拝領して元服するなどライバル総州家と決定的な差が付いていました。世間でも政長系の尾州家を畠山嫡流と認めていたのでしょう。
 
 一時は細川政元のクーデターで紀伊に逃亡しますが、この地で力を蓄え1497年河内奪回の兵を挙げます。1499年には高屋城を奪い、十七箇所城に逃れた総州家義豊を殺しました。
 
 1504年には細川政元に対抗するためなんと宿敵総州家義英と和睦、1506年政元の軍勢と戦いますが敗北一時没落します。
 
 中央の混乱で将軍職を追われていた足利義稙を奉じ1507年周防の大内義興が上洛するとこれに通じ勢力を回復、1515年家督を嫡男の稙長に譲ると以後は領国の統治に専念しました。
 
 稙長の代に総州家義堯を討ってやっと悲願の河内統一を達成するも、その支配は細川、三好の争いに巻き込まれ不安定なものでした。
 
 稙長の後、政国、高政と続きますが河内・紀伊の領国を維持するのが精一杯でしかもその支配も安定を欠き三好長慶の侵略を受け続けます。
 
 本国河内を三好勢に追い出される苦境にも陥りますが、近江の六角氏と結び逆襲、1562年の久米田合戦で長慶の弟、義賢を敗死させ高屋城を奪還しました。しかし続く教興寺合戦で敗れ河内を失い紀伊に逃げ込みます。
 
 以後畠山氏は振るわず、三好義継(長慶の養子)と和睦、織田信長に従いますが重臣の遊佐信教に河内を追放され、高政は1576年失意のうちに死去しました。晩年はキリスト教に救いを求めていたとか。享年50歳。
 
 ここに管領畠山氏は滅亡しました。高政の弟政尚の子貞政はのちに秀吉に従い、最後は徳川家で高家として残ったそうです。
 
 
 
 

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 細川氏は足利氏の一門です。鎌倉時代三河(愛知県東部)守護に任じられた足利宗家に従い、三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことで細川氏を名乗りました。
 
 細川氏は早くから分かれたため決して家格は高いとは言えず、例えば足利一門で最も家格の高い斯波氏などからは家来扱いでした。南北朝時代の斯波氏の当主高経が将軍から管領就任を要請されたとき「管領といえども足利家の家来にすぎない。細川などと同列に扱われてたまるか」と断ったという有名なエピソードがあります。
 
 斯波氏のプライドの高さには呆れるばかりですが、例に出された細川氏にとってはたまったものではありません(苦笑)。だからといって細川氏が斯波氏に復讐したという話は聞かないので、一門の中でもそういうものだと思われていたのでしょう。ただし細川頼之と高経の子義将は政敵でしたが…(苦笑)。
 
 細川家が足利幕府で権勢をふるうようになったのは、家格ではなく一族の献身的奉仕が理由でした。公頼の子、和氏・頼春と頼貞の子顕氏・定禅(じょうぜん)は足利尊氏を助けて各地を転戦します。
 
 尊氏が奥州から攻めのぼった北畠顕家に敗れ九州に落ちると、和氏、顕氏は尊氏の命で四国に渡ります。二人は四国の兵をまとめ、九州から捲土重来した尊氏の軍と合流、湊川合戦勝利に大きく貢献しました。
 
 幕府が成立すると、この功により細川一族は各地の守護に任じられます。嫡流の和氏が引付頭人、ついで侍所頭人そして初代阿波守護に任じられたのをはじめ、弟の頼春は阿波、備後守護、その下の弟師氏は淡路守護に、従兄弟の顕氏は讃岐・河内・和泉三カ国の守護、その弟定禅は土佐守護と実に一族で7カ国もの守護を兼ねる大勢力になりました。
 
 しかし1350年尊氏の執事高師直と弟足利直義の対立から尊氏・直義の兄弟対立に発展した観応の擾乱が起こると、細川氏も安泰ではいられなくなります。和氏は1342年47歳で急死、嫡子の清氏が後を継いでいました。
 
 清氏、頼春らが尊氏方に付く中、顕氏は直義派につき、再び尊氏方に帰順するなど目まぐるしく動きます。1352年南朝方の攻撃で京が失陥すると将軍足利義詮を奉じて撤退しますが、このとき頼春は戦死しました。
 
 再び足利方が京を奪還した事を見届けて顕氏は1352年7月病死。顕氏の系統は陸奥守の官位から奥州家と呼ばれました。
 
 細川一族の有力者が次々と戦死、病死するなか次第に権力は清氏に集まってきます。1358年管領(当時は執事)に任じられた清氏でしたが、その強引な施策から政敵も多く讒言を受けて失脚します。清氏は本拠の四国へ下ると腹いせとばかり南朝に帰順、従兄弟の頼之(頼春の嫡子)が阿波守護として現地にいたためこれを攻撃、公然と幕府に反旗を翻しました。
 
 清氏には讃岐(塩飽)水軍なども味方に付いてたため、頼之は苦戦しますが激戦のすえこれを撃破、清氏を滅ぼしました。
 
 こうして権力は生き残った頼之のもとに集まります。清氏に代わって頼之が嫡流となったのです。頼之の正室が三代将軍義満の乳母になったことも大きかったともいます。
 
 細川頼之は二代将軍義詮の絶大な信頼を受け、遺言により三代義満が将軍に就任すると管領になってこれを補佐しました。頼之は名管領として南北朝合一に力を尽くし、途中政敵による失脚もありましたが細川家の権力を確立します。頼之には子がなかったため弟の頼元が後を継ぎました。
 
 頼元の家系は、代々細川家嫡流として摂津・丹波の守護を持ち管領を歴任したことから細川京兆家と呼ばれるようになります。これは世襲の官位右京大夫の唐名「京兆尹」からきています。
 
 頼元から数えて四代後が有名な細川勝元です。応仁の乱では東軍の総大将として舅の山名宗全と日本を二分する大戦争を戦います。これで幕府権力は地に落ち戦国時代が始まったといわれます。
 
 勝元の子、政元の時代が細川京兆家最後の絶頂期だと言えるでしょう。政元は管領として絶大な権力をふるいますが、実子がなく澄元澄之高国という三人の養子を迎えました。
 
 この養子三人が家督を争い、政元自身もそれに巻き込まれて1507年殺されました。
 
 その後、澄元が澄之を討ち管領になりますが、政元に追放されていた前将軍義尹(義稙)が1507年周防の大内義興の支援を受けて上洛してくると、高国はこれと結び、澄元と将軍足利義澄は近江に逃れました。
 
 大内、高国と澄元は戦い続けますが1518年大内義興が帰国するとついに京都を奪回、高国を近江に追放して再び管領に返り咲きました。しかしまもなく高国の反撃を受け、政権は崩壊、家宰の三好之長は捕えられて処刑され、自身も播磨、そして本拠地の四国阿波に逃亡します。1520年澄元は阿波勝瑞城で失意のうちに病死しました。享年32歳。
 
 澄元の死後嫡子の晴元が継ぎます。三好之長の孫三好元長とともに再び畿内へ進出、高国を討ちますが高国の子氏綱と争っているうちに、元長の子三好長慶が氏綱方に付いたため敗北、勢力を失い最後は出家して摂津普門寺に隠棲したそうです。
 
 晴元の嫡子、昭元はすっかり没落し、信長、秀吉に近臣として仕えます。秀吉のもとでは山名豊国、斯波義銀とともに没落した元名門としてお伽衆になったそうです。1592年病没。子孫は三春藩秋田家に仕え家老として続きます。
 
  庶流の細川藤孝(頼之の弟頼有の子孫)、忠興が織田・豊臣・徳川政権を上手く泳ぎ切り最後は肥後54万石の大封を得たのと比べるとあまりにもさびしい晩年でした。
 
 

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美濃土岐一族

 
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 鎌倉、室町時代を通じて美濃(現在の岐阜県)に勢力をはり、室町時代には美濃守護として幕府に重きをなした土岐氏。その末期には権臣斉藤道三に乗っ取られます。
 
 土岐氏はどのようにして誕生し、滅んだのでしょうか?私はややマイナーながらこの一族に興味を覚えました。
 
 土岐氏は、酒呑童子伝説で有名な摂津源氏源頼光五世の子孫、光信が美濃国土岐郡土岐郷に居住して土岐氏を名乗ったのが始まりとされます。
 
 鎌倉初期の当主、光衝は源頼朝に協力し御家人となります。土岐氏は鎌倉時代には美濃守護にはなりませんでしたが、この地に勢力を扶植したのは間違いないでしょう。
 
 そして鎌倉末期、土岐一族はいち早く後醍醐天皇と通じ幕府に謀反を起こしますが六波羅探題の攻撃で敗れます。しかしまもなく足利尊氏、新田義貞らの活躍で幕府が倒されたため、土岐氏は生き残ることができ、足利方の有力武将として美濃守護に任じられます。
 
 
 南北朝初期の当主が、バサラ大名で有名な土岐頼遠です。足利将軍家を助け大功を上げたためか、驕慢で傍若無人な振る舞いが多かったそうです。同じバサラ大名でも佐々木道誉と決定的に違っていたのは、道誉がバサラをあくまでポーズとして取っていたのに対し、彼は本気でバサラを貫いたところです。
 
 頼遠のバサラがある日決定的な事件を起こしました。ある時光厳上皇の牛車に出会った頼遠は道を譲らなかったばかりか、酒に酔った勢いもあってあろうことか弓を射かけたのです。
 
 さすがにこれは幕府も見逃すことはできませんでした。激怒した尊氏の弟直義は、1342年頼遠を逮捕し六条河原で処刑します。
 
 美濃守護職は、頼遠の甥、頼康が継ぎました。三代将軍義満の時代になると、彼の有力守護圧迫政策のあおりを受けて土岐康行が謀反を起こしますが、これも簡単に鎮圧されました。
 
 守護は、叔父の頼忠に持って行かれ、以後彼の子孫が土岐氏の嫡流となります。
 
 応仁の乱に入ると、美濃守護土岐家は守護代斉藤妙椿(みょうちん)が力をつけ、守護家を凌ぐようになります。斉藤氏は美濃目代として越前から移り住んだ一族ですが、土岐家の守護代として美濃国内で勢力を扶植し妙椿の時代についに力関係が逆転します。
 
 このあたり越前の斯波氏・朝倉氏の関係とそっくりですが、妙椿の死後斉藤氏は家督争いを繰り返すうちに衰え、かろうじて土岐家は守護として存続しました。
 
 斉藤氏が衰えるにつれ、その家宰であった長井氏が台頭し美濃は下剋上の風潮が蔓延します。戦国時代、この長井氏のもとに一人の男が流れ着きました。油商人とも浪人とも称する怪しげな男でしたが、持ち前の才覚で長井氏の信任を得、まず家臣の西村氏の名跡を継いで西村勘九郎、次いで長井氏から名字を貰い長井新九郎と名乗りました。
 
 これが下剋上の代表ともいうべき斉藤道三の若き日の姿ですが、最近の研究では彼一代の成果ではなく親子二代で成し遂げた美濃乗っ取りだったといわれています。
 
 当記事では、あえて道三一人の業績として記しますが、長井氏は新九郎の異才に驚き守護家の部屋住み頼芸(よりあき)に推挙しました。新九郎は巧みに頼芸に取り入り、本来なら守護になれない主君を謀略の限りを尽くして美濃守護職につけます。
 
 こうして頼芸は守護であった兄政頼を追放し美濃を奪いました。この時には長井新九郎は名門斉藤氏を継いで斉藤新九郎利政となっていました。だいたい1539年ころの話だといいます。翌1540年には居城として有名な稲葉山城を築きます。
 
 利政の野望はここに止まるはずもありません。傀儡政権としての価値もなくなった美濃守護土岐頼芸は1552年ついに追放されました。ここに美濃守護家土岐氏は滅びます。利政は出家して道三と名乗ります。有名な斉藤道三の誕生でした。
 
 頼芸は各地を放浪したそうですが、その子頼次が秀吉、家康に仕え旗本として残りました。
 
 
 斉藤道三とその子義龍、織田信長の間には面白いエピソードもあるんですが史実かどうか自信がないのでここでは紹介しません。詳しくは司馬遼太郎『国盗り物語』を見てね!(笑)
 
 
 

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