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ノンフィクションかフィクションか、とか
立派過ぎる協会ビルなど良くない評判のある日本ユニセフ協会の推薦映画である、とか
タイでの無許可撮影疑惑とか、
そういう諸々のバッシングみたいなものは、
この映画があまりにもストレスフルな性質を持っているから生じてきたもののようにも思われる。
完璧にフィクションであってほしい、
日本ユニセフが推薦するくらいだから本質的に如何わしい映画なのだと思いたい、
バンコク映画祭で上映できなかったのは真実とはあまりにかけ離れているから
タイで受け入れられなかったのだ、と思いたい、
要するに、そのくらい、
気持ち悪い映画だ。
これほど痛くて気持ち悪くなる映画は、本当に初めてだ。
もうわかった、勘弁してくれ、
なんだってここまで向き合ってしまわないといけないのか、
製作者に対して理不尽な怒りを感じて、
途中で投げ出したくなる、
だから最後までちゃんと観るのにただならぬ努力を要する、
そういう映画だ。
十二国記の短編『華胥』のなかで「責難は成事にあらず」という言葉が出てくる。
人を責め、非難することは何かを成すことではない、という意味。
間違っていると非難するなら、ではどうすれば良いのかということまで示せなければ意味が無い、
ということだと思う。
そもそも、批判と非難は違う。
批判は自分と他者の立ち位置が違うことを受け入れたうえでの理性の言葉だ。
非難は、その違いを感情的にどうしても受け入れられないときに生じる罵倒だ。
この映画を観て感じるのは、
どうしても、非難の気持ちだ。
成事にならないことは承知のうえで、
解決策なんてそっちのけで、
ただただ感情的に不快なのだ。
そしてその不快の根っこには、どこかしら、自分に跳ね返ってくる気持ち悪さがあって、
どうにも身の置き所が無くなるのだ。
映画ではただただ唾棄すべき存在としての【買う側の人たち】も存在するけれど、
少なくともあの日本の両親とひとりのあるペドファイルについては、
観る人に跳ね返ってくるように嫌な感じで仕組まれている。
ペドファイルについて考えるとき、
それが本当に避けられぬさだめのように
決して肩から下ろせぬ荷物のように
そうせざるを得ないからそうするしかないからそうであるのだとしたら、
それはどれほどの苦しみだろうと思わずにはいられない。
嘔吐する子供が守られるべき存在であるのは当然のこと、
だけれど、
悪臭男は涙をこらえて身を竦めているしかない。
ただじっと我慢してほしいと願う残酷さには目を瞑るしかない。
そこには何かの「側」というところの、
強者と弱者、あるいは善と悪みたいな、
オポジットでは割り切れないものがあるはずだ。
自分もまた悪臭を放っていないと、たぶん誰も、言い切れないのだから。
原作も、いかに硬質に書こうと、相当に気持ち悪いのは避けようがない。
気持ち悪いから、多少飛ばしながら今読んでいるところ。
梁石日という人は、どんなに暗く気持ち悪いところへもまっすぐ歩み入ることのできる勇気のある作家なのだろう。
どうも好きとはいえないけれど。
映画では、原作には無い、
映画的な(映像であってこそぐっとくるという意味)ラストが用意されている。
それは、考え抜いて結局、
悪臭男にはそうであって欲しい、
そうであるしかない、
と、思っていた姿とあまりにもピタリと一致して、
そのことに気づいて自分でギョッとしてしまった。
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映画『闇の子供たち』は中国のKu6.comという動画サイトで観る事ができます。(本日現在)
2009/3/9(月) 午後 4:29
薬物テロ&インチキ健康食品サプリメント&偽善詐欺でテロの資金調達している日本ユニセフ協会に殴り込め!!!
2009/3/19(木) 午後 10:12 [ 裏情報 ]
確かにボランティア機関は悪の隠れ蓑に好都合なのである!
偽善のお人良し国民性の日本人をだますのに都合がよい。
なるほど、世界中にテロが蔓延り続けるわけである。
2009/3/19(木) 午後 10:16 [ nttoku ]