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米俵みたいに大きくて重いバックパックと傘を持って、
俺は満員電車に乗り込んだ。
こんな荷物を持って人ごみに入っていくのは気が引けたが、
この荷物は俺に必要なものだし、
俺が行きたいところへはこの電車に乗るしか手段がない。
どうしても行かなきゃならないのかというと、
そうでもない気もするのだが、
まあなんというか、行きたいという衝動は抑えたくないし、
それにこれまでの旅で出会った人たちからの大切な手紙も預かっている。
バックパックの中には、
そういう手紙の類と、わずかな路銀、着古して擦り切れた下着、毛玉だらけのセーター、
鎮痛剤や絆創膏、大量の鼻紙、飲み水と乾パン、
チョコレートとかっぱえびせん、カップ酒、煙草、
便箋と封筒、数冊の本など、
とにかく色んなものが雑多に詰め込まれている。
後ろから押し込まれるように
電車に乗り込んでなんとかつり革をつかむことに成功した。
自分の周囲に5センチのエリアは確保できるくらいの隙間はあるから、
揺れに対応するためにはやはりどこかにつかまる必要がある。
「あの、失礼ですが、あなたのバックパックが私の領域を侵しています。何とかならないものでしょうか」
俺のすぐ後ろに立っている紳士がそう声をかけてきた。
「申し訳ない。気がつきませんでした」
謝って、俺はバックパックを肩から下ろし、前に担ぎなおした。
おんぶから、抱っこへ。
担ぎなおしても、体積が変わるわけではない。
後ろから前に移動しただけだが、
この荷物は俺に必要なものだから仕方がない。
それでも、後ろに担いでいたのでは、
俺の荷物が誰をどのように侵略しているのか気づきようがない。
前に担ぎなおせば、少なくとも、自分の目でその様子を確認することができる。
「あの、失礼ですが、あなたの傘が私のふくらはぎを突いています。痛いので、何とかならないものでしょうか」
今度は俺の右隣に居るご婦人がそう声をかけてきた。
「申し訳ない。気がつきませんでした」
謝って、俺は隙間を見つけて傘を折りたたみ、懐に抱え込むように持ち直した。
そうやっても俺が傘を持っているという事実は変わらないのだが、
この傘は雨に濡れないために俺には必要なものだから仕方がない。
それでも、形を変え、持ち方を変えることで、その鋭利な性質を他者から隠すことができる。
俺の居るところから少し離れた、車両の隅で、
小さな子供が嘔吐し始めた。
涙と鼻水と唾液で顔中ぐしょぐしょになっている。
あの子は自分がなぜ具合が悪くなったのかわからない。
でも、俺にはわかってしまった。
あの子の隣に居る男が、ものすごい悪臭を放っているのだ。
周囲の大人はひたすら顔をしかめて我慢している。
悪臭男は、自分の匂いが原因であの子が嘔吐していることを知っている。
その証拠に、悪臭男は涙をこらえて身を竦めている。
悪臭男は、自分ではどうすることもできないのだ。
そして他の誰にも、どうすることもできないのだ。
俺が、バックパックをおんぶから抱っこに変えたように、
傘を折りたたんで懐に抱え込んだように、
形を変えてなんとかできることではないのだ。
塩素入りの風呂に入っても、高価な香水を使っても、エイトフォーをふりかけても、
ファブリーズを滝のように浴びても、食べ物を変えても、歯磨きを一日十回しても、
その悪臭は消えないのだ。
できることは何だって試したに違いない。
彼のうつむいたうなじはそのことを静かに語っている。
俺は、嘔吐し続ける子供と、
悪臭を放つ男と、
その周囲で我慢している大人たちと、
それを見ている俺自身と、
俺に侵略を訴えたご婦人と紳士と、
その他大勢の人たちが、
ただひたすらに、同じように電車に揺られていることを、不思議に思った。
それでもなお、この電車が各駅停車で、
乗り換える電車やバスが無数にあることが救いのように思われてならなかった。
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