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--- 一応ニューヨークに住んでいるので、今日が何の日かということに無関心でいるわけにもいかない。 (あ、さっき日付が変わって12日になってしまった) あの日起きたことと、その後起きたことについて、 改めて、少しお勉強してみた。 特に犠牲者の数に注目してみたので、せっかくだからメモしておく。 【アメリカ同時多発テロ】 2001年9月11日 8:46 アメリカン航空11便(乗客81名・乗員11名)がワールドトレードセンタービル・ツインタワー北棟に激突 9:03 ユナイテッド航空175便(乗客56名・乗員9名)が同南棟に激突 9:38 アメリカン航空77便(乗客58名・乗員6名)がアメリカ国防総省本庁舎に激突 10:03 ユナイテッド航空93便(乗客37名・乗員7名)がペンシルバニア州シャンクスヴィルに墜落 死亡者 2,993人(19人のテロリストを含む) 負傷者 6,291人以上 行方不明者 24人(遺体が確認されていない) 【アフガニスタン侵攻】 2001年10月7日 アメリカ、イギリスをはじめとする連合軍によるアフガニスタン侵攻 アフガニスタン軍: 戦死 5,000人以上 戦傷 10,000人 北部同盟: 戦死 500人 NATO軍: 戦死 652人(アメリカ: 423, イギリス: 70, カナダ:67, 他: 93) 戦傷 1,693人(アメリカ 1,471, カナダ: 270以上, イギリス: 131) タリバン、アルカーイダ:死者5000−15000人 【悪の枢軸発言】 2002年1月29日 ブッシュ大統領が、一般教書演説で、反テロ対策の対象として北朝鮮、イラン、イラクの3ヶ国を名指し、これらの国を「悪の枢軸(axis of evil)」と総称して批判 【イラク戦争】 2002年3月19日 アメリカが主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わり、イラク戦争が始まる イラク平民死亡数66万人以上(中国国務院が発表する「2007年アメリカ人権記録」) ロサンゼルス・タイムスの統計では100万人以上 フセイン政権下イラク軍死者4,900 - 6,375人 連合軍の占領後:武装勢力死者13,699 - 20,033人 連合軍死者4,302人(アメリカ軍4,000イギリス軍170その他132) 民間契約要員死者1,012人 イラク治安部隊死者8,000 - 10,000人 以前、平野啓一郎の『文明の憂鬱』は面白くなかった、と書いたが、 それはもちろん50編全てではない。 以前書き写した『憂国「語」談義』については甚だ評判が良くなかったが、 全部がつまらない説教というわけではない。 以下に書き写す文章については、やはりオヤジくさいし説教くさいけれど、 なるほど言いたいことは良くわかる。 愛「国」心(パトリオティズム)と愛「国家」心(ナショナリズム) 9・11のテロ以降、急速に沸騰していったアメリカの「ナショナリズム」は、対イラク戦争において、その極みに達した観がありました。今回の戦争では、世界各地で大規模な反戦運動が起こり、アメリカ国内でも、皮肉にもまさしくテロの標的となったニューヨークのような街で、ベトナム戦争時に比べれば、遥かに迅速に、大衆的な広がりを持った反戦運動が見受けられましたが、アメリカ国内の世論全体としてみれば、戦争支持派は、常にその反対派を圧倒していました。 テレヴィでは、両者の街頭での小競り合いの模様などが報道されていましたが、戦争の支持を主張する者達が声高に叫んでいたのは、必ずしもネオコンの言うような「中東にアメリカ主導の民主主義を」といった理念的なことではなく、むしろ、自国民が砂漠で戦っている時に、彼らを支援しないとは何事かといった、その心情的な部分を強調する言葉でした。反戦を訴えることは、即ち、同胞に対する裏切りであり、「愛国心」に欠ける仕業だというわけです。 私は先頃、『高瀬川』という本を出版し、その中で現代人のコミュニケイションの問題を考えましたが、「愛国心」が時に他国とのコミュニケイションを阻害するという事態はなんともやりきれない話です。 我々が普段、「愛国心」という訳語で理解している「ナショナリズム」とは、元々は、近代における「国家(ネイション)」の成立時に、「国民(やはりネイション)」を創設するために産み出された人工的な概念です。それは端的に言えば、政治体制に対する支持であり、時々にその頂点にあるのが政権です。そのため、「ナショナリズム」は必然的に相対的なものです。訳としては寧ろ「愛国家心」とすべきかもしれません。 それに対し、同国人や自国の風土、文化に対するより自然な愛情は(歴史については扱いが難しいですが)、「パトリオティズム」という概念によって区別されています。これは、政治以前の感情で、いかなる政治体制下でも変わることなく保ち続けられるものです。「ナショナリズム」を「愛国家心」と訳すならば、「愛国心」という言葉は、この「パトリオティズム」に限定して用いられるべきです。 今日私が、非常に危惧することは、この二つの概念の曖昧な(時に乱暴な)混同です。そしてそれが、単に個人的な無知に起因する混同であるのみならず、「ナショナリズム」の昂揚を計ろうとする権力(政府やマスコミ)の意図的な混同であるということです。 恐らくそれが、現在最も成功している国がアメリカです。9・11以後にアメリカ社会に蔓延した「ナショナリズム」は、端的に言って、政治的に利用された「パトリオティズム」に他なりません。砂漠で苦しむ同国人への同情と、その自国民を砂漠へと送り込んだ政府への支持とは、本来は、直結し得ぬ別の(それどころか、相反する)二つの問題の筈です。それを混同せしめたのは、明らかに政府の作為であり、後には、その雰囲気に追随したマスコミの作為でした。 自国の文化を愛し、風土を愛することは、少しも悪いことではありません。しかし、だからといって現政権を支持しなければならないという理屈にはなりません。この単純な事実の認識が、今のアメリカ社会には大きく欠落しています。 無論これは、我々自身もよくよく肝に銘じておくべきことです。「ナショナリズム」とは、そもそもが空疎な概念です。それは「パトリオティズム」によって満たされぬうちは、単なる骨組みに過ぎません。そして、「国家」の頂点にある権力は、民衆の素朴な「パトリオティズム」を絶えず自らに好都合な「ナショナリズム」のうちに取り込もうとする狡猾さを孕んでいます。それが実現するや、「パトリオティズム」の悪用に歯止めを掛けることは困難です。我々は、二十世紀にその悲惨を嫌というほど経験しました。今こそその教訓を、一人一人が思い返してみるべきです。 (「東京新聞」二00三年五月十五日) 相変わらず説教口調だし、文章は硬くて面白みがないけれど。 平野がこのことについて、アメリカ批判の言い方ではなく、 「我々は」と、自身の問題として考える必要を言っているところに好感が持てる。 大量破壊兵器を隠し持っているとか悪の枢軸国家を民主化に導くとか、 なんらかのこじ付けで国連協調とったとしたって、 誰が見たって「叩かれたから叩き返す」の理論にしかみえないのだから、 あとになってから大量破壊兵器は無かったとわかったところで 戦争をおっぱじめる正当性なんて、はじめからあったとは思えない。 (陰謀説とかはちょっとおいといて) アメリカの悪い癖、「勧善懲悪」「アメリカ帝国」意識、 これにわたしたちがイラっときているのはわかっていたけれど、 あの戦争を仕掛けたアメリカ大統領とそれを支持した国民に対して嫌悪感を覚えるのは、 この「ナショナリズム」と「パトリオティズム」の混同に苛立つのも、確かにあったのだと思う。 そしてそのことは、アメリカに限ったことではなく、 「我々」としても肝に銘じておかなければいけないことなのだ。 たった半年のぺーぺーニューヨーカーとしては、 あのときのニューヨーカーの痛みはまだまだ他人事だ。 来年の9・11にはワールドトレードセンターに行ってみようかな。 ---
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平野啓一郎
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--- 平野啓一郎の文庫が1ドルに紛れ込んでいたので、読んでみた。 2000年から2003年にかけて書かれた「文明」に関わるごく短い随筆が五十編収められている。 短いのでひとつ書き写してみる。 憂国「語」談議 日本語の乱れに対する嘆き節というのは何時の時代にでもあるのでしょうが、現政府官僚が好んで繰り返しているあの「骨太の方針」という言葉などは、恥ずかしいというより、やはり嘆かわしいというべき類の誤用となるのでしょう。「骨太」とは言うまでもなく、骨が太い様、骨格ががっちりしている様という意味で、転じて「骨太な男」というような気骨があるという意味での比喩的な用い方くらいまでは認められるでしょうが、それを「骨子となるべき」だとか、「骨格となるべき基本の」といった意味で使用することは誤りです。或いは、改革の揺るぎない決意を表すために敢えてその言葉を選んだのかもしれませんが、それを考慮してみてもやはり違和感は否めません。私的な会話であるならまだしも、一国の政治の方針を示すものとしてそうした明らかな言葉の誤用が平然と罷り通っているというのは、この国の文化水準そのものをうたがわしめる何ともやるせない事態ではないでしょうか。 誤用とはまた違いますが、よくテレヴィのアナウンサーなどが口にする「真相は『闇の中』です」という表現も、やはり気になるところです。この場合、特に言葉の用法に間違いがあるというわけではなく、意味も一応通じますが、それをわざわざ言うのであれば『闇の中』ではなく『藪の中』でしょう。複数の証言が錯綜して事件の真相が分かり辛い状況にあることを表すその慣例的言い回しは、元々は映画『羅生門』の原作としても有名な芥川龍之介の同名の小説に由来したものです。「骨太の方針」に比べればまだしも多少は高尚な類の話かもしれませんが、いずれにせよ、そうした不適切な表現に窺われるのは現代人の教養の深刻な欠如です。これは、自戒を込めつつ打ち鳴らす警鐘ですが。 今年度から新しく改訂された小中学校の国語の教科書からは漱石、鷗外の作品が姿を消していますが、大人の多くが自分達のリテラシーの低さに危機感を抱き、慌てて本屋に駆け込んで昨今話題の日本語に関する本などを買い漁っているというような今日に於いて、依然としてそうした内容空疎な教科書を子供に押しつけようとしている文部科学省及び教科書出版社に対し、私は非常に強い憤りを覚えますし、そもそも「ゆとり教育」などどいうものには断固として反対ですが、百歩譲ってそれを認めるにせよ、何を切り捨て、何を残すかについてはもっとまじめに考えてもらいたいものです。 国際化などとはよく言いますが、外国語を話せるようになったところで、話すべき自国の文化については何も知らないというのであれば、どの道、外国に行ってもバカにされるのがオチです。イギリス人がシェイクスピアについて語り、フランス人がゾラやバルザックについて語っている間、日本人はただ額に汗を掻きながら黙っている。それでどうして彼らの尊敬を勝ち得ることが出来るでしょうか? 国語というのは文化の基礎です。私たちは、今こそ改めてそのことを真剣に考えてみなければなりません。 (「京都新聞 (夕刊)」二00二年八月二三日) 正論です。 「で、君いくつ?」と聞きたくなってしまう…にじゅうななさいでしゅ(当時)。 「テレヴィ」って。(これ、突っ込むところ?いえ、「V」は「ヴ」ですから正しいです。) やはり、小説を読んでみないことにはわからない。 正直にいって、この本は面白くなかった。 偏差値の高い人の随筆は、あまり好きになれないのかも知れない。 なんというか、つかみどころがない。 酷く老成したような古臭い文章だけれど、 良く噛み砕いて読むと年下のおとこのこの思考らしいようにも思えてくる。 偏差値の高い文章。 偏差値の高い文章とか、無知を憎むような文章を読むと、 自分の無知に焦りのようなものを感じると同時に、いつも思い出す人がいる。 幼馴染みのIちゃんだ。 Iちゃんは良く日本語を間違って使う。 人一倍勉強熱心で真面目だったけれど、 仲良くしていた友達のなかでは一番偏差値が低かった。 「OL」になって、適齢期に結婚して、子供を二人くらい産む。 子供のときからそういう将来を描いていて、今までその通りに実現してきている。 何にでも一生懸命だし、明るくておしゃべりでとてもかわいい人だ。 でも、無知なのである。 日々自然に流れてくるメディアからの情報に無批判に流される人なのである。 『世界の中心で愛を叫ぶ』に泣き、『あいのり』を毎週欠かさず観る。 どうしたって、彼女の無知を責められない。 彼女の無知を責めるなら、彼女のような人が興味を持って読めて、 理解できるような文章を書いてからいうべきだ。 ---
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