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--- 5 再び、選択すること 当人の意思が尊重されるべき、ということは原則として良いと思う。ただ、その弊害(といって良いのかはわからないが)残念ながら現代では、おまかせします(パターナリズム)という選択肢は無くなってしまったということだと思う。医療者には説明の義務があり、説明されたほうにはそれを理解して「自分で」選択するという義務が生じてしまう。他の誰にもその権利を譲渡できない不自由さはある。 (ただし、子供や知的障害のある方の場合は本人の意思をどう捉えるかという議論がある。わたしは彼らも同じだと思っているけれど) 「自分らしく」、「自然に」、はもちろんよいことだと思う。けれど、息が苦しくなったら、自分らしく、自然に、死ぬだろうか。 やがて呼吸も苦しくなるから、呼吸を続けるためには人工呼吸器が必要だ。けれど実際にはかなり多くの人がそれを使わず、亡くなる。そして、そのことが、その人によって選ばれた死として、また自然な死として、よいこととされる。それは違う、ように思う。 私たちは、昨今の決まり文句である、「本人の決定」のための、「中立」の、「情報提供」という路線を、そのまま受け入れてよいのだろうか。死ぬとか生きるとか、こんな時に、こんな時だけ、リベラリストになってしまうのは、妙ではないか。あるいは「機械的な延命」「たんなる延命」に対する「自然な死」「人間的な死」。こんな時だけ、私たちは自然主義者に、人間主義者になってしまう。それもやはり妙ではないか。 しかし他方、身体がまったく動かなくなるというのは、やはり究極的なことのようにも思う。完全な無為、あるいは身体に閉じ込められる恐怖。そうなって私はやっていけるだろうか。私は、間違いなく臆病な人間だから、息が苦しくなるのは恐怖だ。しかし、私に限ればそれよりはまだましとしても、身体のどこも動かないとはどんなことだろう。その前に生きるのをやめるのも無理のないことなのだろうか。(2004.11.11 立岩真也) [http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b2.htm] ただ、治療を受けない権利はやはりあるはずである。通常わたしたちは治療によって生じる苦痛とその効果を天秤にかけて選択している。副作用の辛い化学療法はせずに、多少命が短くなっても好きなことをして過ごせる時間を大切にしたい、とか。広い意味では、肥満が不健康だとわかっていながら飽食するとか禁煙できないとか深酒をやめられないとか。結果的に命が短くなったとしても欲しいものかどうかを常に選択したり、あるいは一時の欲望に甘んじたりする。あらゆる治療といわれるものも、それを中断することが本人の意思であればそれが問題になることはない。呼吸器だけが特別に議論されるのはなぜか。 呼吸器の使用を中断することは数分後の死を意味すること、使用の中断は他者の手を借りないといけないこと(患者の多くはその動作ができない)がその理由だと思う。 以下のサイトの抜粋を見れば議論される理由がある程度理解できるのではないかと思われる。 「あなたは人工呼吸器を装着したALS患者の尊厳死を法制化する事に賛成ですか?反対ですか?」 一マスコミ関係者 「尊厳死の法制化に賛成か反対か」ではなく、「呼吸器を外してほしいという患者の意思を尊重すべきかどうか」を問うアンケートなら、また結果の数字も違ってきたのではないでしょうか。私は、法制化には条件付きで賛成ですし、患者の意思を尊重すべきだと思います。 わなか 尊厳死の法制化は反対です。先日、NHK クローズアップ現在で取り上げた「意思が伝えられなくなったら呼吸器を外して欲しい」呼吸器を外すのは安楽死をさせることです。尊厳死は呼吸器を付けている人も付けていない人も含まれます。尊厳死を法制化すれば呼吸器を付けない方向に導かれないかと心配しています。医療と介護の進化もなくなると思うし、どうせ治らない病気だからいいかげんな治療しかしてもらえなくなると思います。「呼吸器外し」は絶対反対です。精神的な死てありえないと思うし、たとえコミュニケーションがとれなくなっても生きる道を見つけられると思います。呼吸器を付ける時に家族と悩み苦しみ決断したのだから最後まで生ききって欲しいです。私が恐れているのは「呼吸器を外せるから付ける」です。そんな軽い気持で呼吸器を付けてもきっとうまくいきません。呼吸器を付ける人が多くなりますが、呼吸器を外す人も多くなります。そうなれば命の価値がなくなります。 私は最後まで納得した人生を生ききります。尊厳死・安楽死を絶対反対します。 コスギ <略> 当問題は富山県射水市の某病院で発生した、呼吸器外し事件から、厚生省と医療関係者を交え、尊厳死を論議、一定の線引きは有った様だが、 確たる決め事は出来なかったようだ、記事内にある様に、患者支援団体は、認めた場合患者さんが介護する側に気兼ねして死を選ぶと云われるが、果たしてそうだろうか、私は違うと思う、患者会も支援団体もご存知の筈、例え患者とご家族が希望しても、即実行出来る事では絶対に無い、其の為の厳格と厳正と複数の医師倫理委員会が協議するのではないのか、だから医師の罪にならぬ様法的に認めても宜しいものと、私は思う、 しかしながら、貴方は機器で生きているとは云い、まだ呼吸している ご家族の呼吸器を外せますか??どの段階で外すのですか例え医師の 手で外す事でも決断はご家族です貴方は出来ますか、 ご家族は装着か否かの時以上の大きな悩みが生じよう、 又医師、倫理委員会、関係者等があと数日あと数時間の命と宣告されても 御家族は最後まで呼吸器を外さず、看取る事は出来る筈、 ですから尊厳死を法で認めても問題は無いものと私は思う、 関係者 尊厳死の法制化はいずれ法制化されます。死ぬ権利も与えられなんて おかしい。 渡部 哲也 どんな理由であっても、一度付けると決めたのなら、最後まで生きて欲しいです。 下村さんへ いったん人工呼吸器を着けたあと、本人の意思で外せるようにすれば、着ける人は増えるのではないでしょうか?「いちど着けると何があっても外せない。だから着けない」と死を選ぶ人も多いのではないかと思いますが、いかがでしょうか。 下村憲治 ALSの患者で気管切開をし、人工呼吸器を装着して生きている人は30パーセントでしかありません。70パーセントの患者はさまざまな理由でそのまま死んでいくことを選んでいます。何故、死んでいくことを選択するのか。そのことをお座なりにして尊厳死をウンヌンすることは奇妙なことだと思います。小生はALS患者は全て気管切開をし、呼吸器を装着することで生命を維持するべきだと思っています。尊厳死をウンヌンするのは、それからだと思っています。 条件つきで賛成 何らかの法整備をしなければ、いつまでも千葉の亀田総合病院のようなケースが起こりうるのではないでしょうか。つまり、倫理委員会が「外してほしいという本人の意思を尊重する。意思を聞き入れず、外さないことこそ倫理に反する」と結論しても、院長が「医師が刑事責任を問われかねない」という理由で倫理委員会の判断を認めないようなケースが。フランスのように、「生きたい」という患者の思いが十分に尊重される法律(患者の権利法)をまず先に作ることを条件に、尊厳死法を整備することに賛成します。法制化すれば呼吸器を付けて生きにくくなる、という意見もあるようですが、「どの患者も一定の条件に該当すれば一律に外す(あるいは外さない)」という法律などどんな時代にも成立するわけがありません。大切なのは人それぞれの願いが尊重されることであり、「呼吸器を付けて生きたい」という思いも、「外して自然な死を迎えたい」という思いも、同じように支持され、叶えられることだと思います。いずれにしても、いろんな立場の人間で議論することが大事で、議論することさえ許さないという態度の人が(ごくたまに)いるのは残念です。 中田養子 ALS患者さんは立派に生きています。無駄に生きている患者でもない健常者のなんと多いことか。そういう人々と比べる次元が違うが、ALS患者さんや家族は崇高に生きている。法制化することは殺人を容認するようなものです。 一関係者 本人の自由意思による選択であることを厳重にチェックするという条件で,本人の自由を尊重するべきだと考えます. 石田あつこ 法制化は反対です。環境整備をと言っても環境は益々厳しくなっていきます。個別的に対応するのがベターかと思います。この問題にベストはないように思います。「最善を尽くして生きた結果」の要請に納得はしますが、法制化は反対です。 吉田雅志HP『前へ』より [http://www2.snowman.ne.jp/~masasi/cgi-bin/komento-ankeito/votedata1/vote8.cgi] 付けない選択をする人が多いこと。これがなぜなのかをきちんと追及しないといけないと思う。実は告知を行った病院によってその数が違っているのではないかとわたしは思っている。患者に関わる医師やその他の医療・福祉メンバーのいわゆる「予後」のとらえかたで患者と家族の呼吸器をつけた生活に対するイメージが全く違ったものになってくるように思われるからだ。患者は病気の説明をされるとき、ほとんどの人がまっさらな知識であり、告知された医療者からの情報がまず第一にイメージを作り上げることになるのだから。 わたしは上記の質問には「条件つきで賛成」である。理由は、まずはずす権利が認められたら付ける人が増えるかも知れないということ。手足が全く動かなくなるという状況が予告されていて、呼吸器は一度付けたらはずせませんよ、と言われたら自由に動けない身としてはそれは脅迫のように聞こえはしまいか。手足の自由な人々の自殺を禁ずる手段は無いし、いつでも治療を受けないことや中断の自由が与えられているのに、手足が動かないから、自分でできないからといって彼らだけその自由を奪われていることはおかしいと感じてしまう。そして、もし法制化により(厳密な本人の意思の確認は必須)はずすことが可能になったからといって簡単にはずす人が増えるとはわたしは思わない。 基本的には、付けて生活している人々のことをわたしたちはもっと良く知るべきだと思う。現に、わたしはTLS(totally locked-in state:病状が進んで意思疎通の手段が封印された状態)を実に穏やかに生きる人々の存在を知って、考え方がかなり変わった。言語化されたコミュニケーションが全てではないという事実も知ること。食べられない、話せない、動けないなら、生きていたくないという思いを超えて、このうえなく静かに純粋に生きることそのものを過ごす人々がいることを知ること。あるいは言葉で話せる以上の自由の極みに、彼らはいるのかも知れない、と思ったりもするのだ。 呼吸器を付けたくない、はずしたい理由が「孤独」以外の理由なら、 社会がなんとかするべきなんだと思う。 ---
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--- 一番気になっていて、いつも迷っているのが、 ALSの呼吸器問題です。 色々考えて、色々の意見を聞くと、ますますわからなくなるのですが、 今のわたしが思うところをまずは書いてみようと思います。 少々長くなりますが、我慢して読んでくださったならば、 みなさまぜひぜひご意見をお聞かせください。 質問も受け付けます。 1 ALSとは 筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis)は、全身の運動能力が徐々に衰えていく神経難病である。「ALS(筋萎縮性側索硬化症)は原因不明の神経難病で、予後三〜五年、運動神経が侵されて手足は全く動かなくなり、話すことも食べることも、呼吸さえもできなくなって、そのままでは死に至るという大変な病気でございます。残念ながら、治療法はございません。 では、ALSは絶望的な死病であるかと言えば、決してそうではありません。受け入れてくれる医療機関と、支えてくれる体制さえあれば、たとえ五体は動かず、人工呼吸器を装着した身ではあっても、立派に人間として生きてゆけます。」(平成九年二月二七日 日本ALS協会会長 松本茂より小泉純一郎厚生大臣あてALS対策に関する陳情書より『JALSA』40:5-7 http://www.arsvi.com/o/jalsa.htm) 2 知ること 自身の病気について良く知りたいということは、わたしにとっては至極当たり前の願望である。出来うる限りの情報が欲しい。何もかも、知りたい。たとえそれがどんなに恐ろしい事実であっても。しかしこれは、全ての人がそうとは限らない。知りたくない、という人も少なからず存在する。そして、知らせたくない、という家族も、少なからず存在する。知る権利が保障され、当人の意思が尊重されるべき、というのは現在では医療倫理の原則といっても良いのだが、一方で知りたくない権利も存在する。そしてその権利が尊重されると、以後の選択の権利は放棄されることになる。結果的に家族が本人の利益を推測して決めることになる。わたしは、知りたくない権利も認められて良いとは思うが、少なくとも本人の「知りたくない」という意思表示があった、ということが前提であるべきと思う。家族といえども、知らせないことを決定はできないと思う。 3 選択すること 選ばなくてはならないことが、たくさんあるのが、この病気の辛いところでもあると思う。家で過ごすか病院か。食事方法(あくまで口から食べる、鼻からの栄養チューブ、あるいは胃ろう)、呼吸補助(各種呼吸器、気管切開)、コミュニケーション(気管切開後のスピーチバルブ、コンピュータを用いた意思伝達装置など)など。中でも命に直結するのが呼吸器装着に関する選択であるので、これがしばしば議論の対象になっている。大事なのはできるだけ早くから考えることだと言われている。なぜなら、早く決められるとそれだけ色々な準備ができるから。コミュニケーションツールや家庭での吸引や栄養は練習が必要である。本人へ病気のことを知らせることを躊躇していたり、長く迷っているうちに病状が進行してしまい、呼吸困難を来たして救急車で運ばれて急場でとにかく呼吸器を、という状況で呼吸器をつけることになり、心の準備も物理的な準備もできていず、最初に大変な思いをすることが意外に多いらしい。そういう事態は、呼吸器装着に関するネガティブなイメージを助長してしまうことにつながる。 4 経済的なこと 心身障害者福祉手当、税金の控除、交通運賃割引、特定疾病医療費助成など、利用できる公的サービスはかなり整備されてきているといえるらしいが、もちろん完全ではない。在宅なら介護者は仕事ができない場合がほとんどであるから、介護者への手当てが必要な状況が多いのではと思われる。そういう、呼吸器をつけて生活をしていく上での困難が出来うる限り取り除かれないと、尊厳死云々の議論自体が恐ろしい。 <つづく> ---
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