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--- 村上龍は、日本の未来を予測しようとしたわけではない。 確かに、この作品を読むことで結果的に危機感を持ち、 実際にこの舞台の2011年に近づいている今日、 この小説は予言であると言いたくなる気持ちはわからなくはない。 多くの読者が「現実っぽい…」と言ってその怖さをこの小説の凄さとして語る。 でも、危機感の薄い、プライドを忘れた現代日本への警笛ということでは 『五分後の世界』で充分だとわたしは思う。 作者が本当に表現したかったことを推理することにさほど意味があるとは思っていないが、 予言としての評価だけでは、あまりにももったいないし、 そこを褒められたくてこんなに長い小説を書いたのではないように、思う。 面白いということ。 それがまず、当たり前だけれど、小説としてすばらしい点だ。 虐げられ、社会から排除された少数派と呼ばれる少年たちが立ち上がり、 新しく生命を吹き込まれたように活躍するところ。 そして作者が一番エネルギーを注いだのは、 北朝鮮の兵士たちを語り手にするということだったのではないかと思う。 北朝鮮の兵士たちが「別世界」にやってくることで、 自国で封じ込められていた、自らの魂の声を聞く。 そのことを書きたくて、そのために「国力の弱まった日本」という舞台が必要だっただけなのだ。 そうではなかったか…と思いながら再読を完了して
RVRを観ていたら、ちょうどその話題が出ていて、
その印象は多分間違っていなかったと思った。「日本が『半島を出よ』の通りになっていく、未来が当たっている、と言われてもうれしくも何ともない」と言っていた。 自分とは全く異なった背景や思想をもつ人を語り手にして小説を書くことは、 ものすごく勇気のいることだと思う。 どうやっても客体でしかない現実の世界において、 誰かの体験をその主体となって体験することは現実には不可能であるから、 (当然のことだけれど) その客体である彼らの思考の方法や行動の根拠は想像できる範囲でしか書けないのだ。 だから、特に外国人を語り手にして小説を書くことは、もっとも難しく、 そしてかなりの勇気を必要とするはずだと思う。 『半島を出よ』で、村上龍はそれを「できるわけがない」でも「書かないと始まらない」と書き始め そして全二四節のうち八節を北朝鮮の兵士たちを語り手にして書き上げた。 『告白』でジェンキンス氏がしきりと「普通じゃない」と言った、 あの北朝鮮の兵士たち、である。 であるから、何よりも、この作品のすごいところはそこだと思うし、 それをこそきちんと評価するべきなのだと、わたしは思う。 遠い異国の人の気持ちを慮るためには、 たくさんの真実を知らないといけないし、 そしてその真実を当事者として内側から見つめ感じるという 高度な想像力も必要とする。 そういうことが、日本人は特に苦手なのではないかと思う。 グローバルとかいうけれど、 基本、自由なはずの民主主義国家のなかで、 これほど内向きの思想を自覚していない国もめずらしいと、わたしは思う。 自分も含めてだけれど。 「外国で飛行機が落ちました ニュースキャスターは うれしそうに 乗客に日本人は居ませんでした 居ませんでした居ませんでした」 (THE YELLOW MONKEY 『JAM』) 世界の中の自分、ではなくいつだって日本の中の自分、なのだ。 もっというと住んでいる町の中しか見えなかったりする。 自分の足元をしっかり見つめることはもちろん必要なことだと思う。 そして一番ちいさな社会の単位、家族をちゃんと見つめるということ。 それが一番だけれど、 しかし視野が狭いとそれはおのずと無知につながるし、 ときに無知は無自覚な残酷さを孕む。 自分と全く異なった世界、価値観をどうやったってその身に置き換えて想像できないという残酷さ。 チョ・スリョン「退廃の発見」 キム・ヒャンモク「天使の白い翼」 特に、この二節は本当にすばらしい。 チョ・スリョンが遠い日の父の言葉の意味を知り、 生き抜くために革命詩を書いたときの自分を思い出す。 そして日本に来てはじめて「退廃」が何であるかを悟った。 キム・ヒャンモクが心の奥底に封じ込めていた父の遺言と罪悪感を思い出し、 それを老医師に語った。 この二節を特にすばらしいと言うのは、もしかしたら 日本人としての奢りなのかもしれない。 北朝鮮の人々にとってどうであるかはやはり、 全く別のものなのかもしれない。 でも、この二節は、希望だ。 ---
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村上龍
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1976年、村上龍24歳のとき、この作品で衝撃的デビューを果たした。 |
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女性向けファッション雑誌に2000年ころ掲載された |
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随分前に読んだことがあった気がしたが、 |
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