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ナポレオン

今日はナポレオンの伝記を見ました。ナポレオンは1769年8月15日コルシカのアジャシオで生まれました。ナポレオンの家は大家族で、生活は辛いものでした。10歳くらいの時フランスの兵学校に入学しました。しかし派手な軍服を着、お小遣いをたくさん持っていた子に比べ、みずほらしい服を着てその日の宿代で精一杯だったナポレオンはのけ者にされました。兵学校や士官学校を卒業してからの戦争で手柄を立てたナポレオンは、戦術で戦争に勝っていきました。自ら真っ先に敵陣へ突っ込んでいったり居眠りしている見張り番の代わりに見張りをしたり、兵士に直接呼びかけたりして兵士を奮い立たせました。どんどん出世して最後にフランス皇帝になりました。皇帝になってから人民を中心とした政治を作りましたが、世界中の国々と戦争ばかりするので人民が自然にとおざかりセント=ヘレ島に流されその生涯を終えました。権力を握ると変わる人もいるんだなと思いました。

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足利尊氏

今日は、足利尊氏の伝記を読みました。足利尊氏は、1305(嘉元3)年に足利貞氏の長男として下野の国(栃木県)足利に生まれました。幼名を又太朗といいました。祖父、父とともに病弱でしたが、優しくて人の話を相手の立場に立って聞くことができ人から信頼されました。当時、鎌倉幕府の命令で「多聞さま」と村の人から親しまれていた楠木正成などと戦いましたが、正成の奇策で他の味方はやられました。兵糧攻めで楠木正成は降参し首が持ち帰られましたが、それは偽物でした。また二度目の幕府からの命令で戦に出るようにいわれましたが、病気にかかっていましたので断ろうとしましたが息子と奥さんを人質に取られてしまいました。このやり方をする幕府に尊氏は憤りを感じ、後醍醐天皇に味方して幕府を討ち落としました。しかし後醍醐天皇が実権を握ってから公家中心の政治を行ったため、後醍醐天皇と戦い、新たに室町幕府を開きました。優しく、冷静で、人の話をちゃんと聞く足利尊氏はすごいなと思いました。

田中正造

今日は田中正造の伝記を読みました。田中正造は天保12(1841)年11月に下野国阿蘇郡小中村(栃木県佐野市)に生まれました。正造という名はおじいさんの名を受け継いだものだそうです。小さい頃からわんぱくだったそうですが、畑仕事が大好きでとても誠実だったために17歳で名主になったそうです。正造の住んでいる家の近くに渡良瀬川という川があって、洪水が起こっても山のほうから来るため被害は比較的少なく、肥料に富んでいる土が流れてくるので洪水が起こったことを喜ぶ人もいたそうです。しかし足尾銅山から流れる鉱毒の為にその渡良瀬川に魚の死体が浮くようになり、草木は生えないようになりました。農民は政府に鉱毒の被害を訴えかけたが、相手にされませんでした。それを見て正造は鉱毒の被害を世に訴えかけるるために県議員になりました。何回も政府に質問しましたがろくな回答が得られませんでした。それでも農民と共に訴えかけたり、さらには議員を辞めた後に天皇に直接訴えかけたりもしたそうです。政府は鉱毒を防ぐために谷中村をつぶして貯水池にしようとしました。正造は断固として反対し、谷中村に住んで谷中村の人々にこの村を離れないよう説得して回りました。自分が寝不足になっても、すごい熱になっても第一に農民のことを考えみずほらしい格好をしながらも政府に訴えかけた田中正造はすごいなと思いました。

伊達政宗

今日は伊達政宗の伝記を読みました。伊達政宗は1567(永禄10)年8月3日に父伊達輝宗と母義姫との長男として、山形県の米沢城に生まれました。幼名は梵天丸といいます。とても賢い子何で聞き分けのよい子でした。しかし幼い頃に疱瘡になり、医者まで呼びましたが当時の医学ではどうしようもなく母義姫はひたすら祈るしかありませんでした。そして全身のかさぶたはなくなりましたが、右の眼球だけとても腫れあがり、醜くなってしまいました。しかし父輝宗の計らいで家来の小十郎とその他の家来をつけました。そして内気だった梵天丸も次第に外で遊ぶようになりました。1581年に相馬氏との初陣を済ませ、1584年には家督を相続しました。そしてさまざまな大名と戦いました。そして独眼竜とまで呼ばれるようになりました。辛い病気になりながらもそれを乗り越え大名としての名をあげた正宗はすごいなと思いました。

伊藤博文

今日は伊藤博文の伝記を読みました。伊藤博文は1841(天保12)年に9月2日に、周防の国(山口県東南部)熊毛郡束荷村に、父林十蔵、母琴子の子として生まれました。幼名を利助といい、青白く小柄ながらも、腕白でとても賢かった。寺子屋ではとても熱心に勉強をしました。習字が特にうまかったといわれています。また貧乏の為に父が萩に働きに出ていてもいじけたりせず、陽気に振舞っていたそうです。1854(安政1)年、父十蔵が伊藤直右衛門の養子となったため、伊藤利助と名乗りだします。また、ペリーの来航のため相模の国(神奈川県)宮田の陣屋に行く時に、他の萩の武士はなかなか気がなかなか進まなかったのですが、当時足軽だった利助は出世できるチャンスだと思い、自ら進んで行きました。暇さえあれば、黒船や昔の日本の戦い方について詳しく調べたりするその熱心な姿を気に入られ、その時の隊長だった来原良蔵の従者となりました。そしてイギリスなどに留学したり努力をしたりしながら日本で初の憲法「大日本帝国憲法」と「皇室典範」を作り上げ制定しました。また総理大臣、韓国統監府の初代総監なども勤めました。見かけによらず何事にも熱心な伊藤博文はすごいなと思いました。

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