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			<title>夢を叶えるために（今の僕に必要なこと！！）○∠○</title>
			<description>まだ目標探しの途中です。皆さんのお話を聞きながら見つけていきたいです。どんくさい僕ですがよろしくお願いします！！</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>夢を叶えるために（今の僕に必要なこと！！）○∠○</title>
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			<description>まだ目標探しの途中です。皆さんのお話を聞きながら見つけていきたいです。どんくさい僕ですがよろしくお願いします！！</description>
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			<title>ナポレオン</title>
			<description>今日はナポレオンの伝記を見ました。ナポレオンは１７６９年８月１５日コルシカのアジャシオで生まれました。ナポレオンの家は大家族で、生活は辛いものでした。１０歳くらいの時フランスの兵学校に入学しました。しかし派手な軍服を着、お小遣いをたくさん持っていた子に比べ、みずほらしい服を着てその日の宿代で精一杯だったナポレオンはのけ者にされました。兵学校や士官学校を卒業してからの戦争で手柄を立てたナポレオンは、戦術で戦争に勝っていきました。自ら真っ先に敵陣へ突っ込んでいったり居眠りしている見張り番の代わりに見張りをしたり、兵士に直接呼びかけたりして兵士を奮い立たせました。どんどん出世して最後にフランス皇帝になりました。皇帝になってから人民を中心とした政治を作りましたが、世界中の国々と戦争ばかりするので人民が自然にとおざかりセント＝ヘレ島に流されその生涯を終えました。権力を握ると変わる人もいるんだなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/29201098.html</link>
			<pubDate>Fri, 28 Dec 2007 19:46:45 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>足利尊氏</title>
			<description>今日は、足利尊氏の伝記を読みました。足利尊氏は、１３０５（嘉元３）年に足利貞氏の長男として下野の国（栃木県）足利に生まれました。幼名を又太朗といいました。祖父、父とともに病弱でしたが、優しくて人の話を相手の立場に立って聞くことができ人から信頼されました。当時、鎌倉幕府の命令で「多聞さま」と村の人から親しまれていた楠木正成などと戦いましたが、正成の奇策で他の味方はやられました。兵糧攻めで楠木正成は降参し首が持ち帰られましたが、それは偽物でした。また二度目の幕府からの命令で戦に出るようにいわれましたが、病気にかかっていましたので断ろうとしましたが息子と奥さんを人質に取られてしまいました。このやり方をする幕府に尊氏は憤りを感じ、後醍醐天皇に味方して幕府を討ち落としました。しかし後醍醐天皇が実権を握ってから公家中心の政治を行ったため、後醍醐天皇と戦い、新たに室町幕府を開きました。優しく、冷静で、人の話をちゃんと聞く足利尊氏はすごいなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/28714377.html</link>
			<pubDate>Fri, 21 Dec 2007 22:06:38 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>田中正造</title>
			<description>今日は田中正造の伝記を読みました。田中正造は天保１２（１８４１）年１１月に下野国阿蘇郡小中村（栃木県佐野市）に生まれました。正造という名はおじいさんの名を受け継いだものだそうです。小さい頃からわんぱくだったそうですが、畑仕事が大好きでとても誠実だったために１７歳で名主になったそうです。正造の住んでいる家の近くに渡良瀬川という川があって、洪水が起こっても山のほうから来るため被害は比較的少なく、肥料に富んでいる土が流れてくるので洪水が起こったことを喜ぶ人もいたそうです。しかし足尾銅山から流れる鉱毒の為にその渡良瀬川に魚の死体が浮くようになり、草木は生えないようになりました。農民は政府に鉱毒の被害を訴えかけたが、相手にされませんでした。それを見て正造は鉱毒の被害を世に訴えかけるるために県議員になりました。何回も政府に質問しましたがろくな回答が得られませんでした。それでも農民と共に訴えかけたり、さらには議員を辞めた後に天皇に直接訴えかけたりもしたそうです。政府は鉱毒を防ぐために谷中村をつぶして貯水池にしようとしました。正造は断固として反対し、谷中村に住んで谷中村の人々にこの村を離れないよう説得して回りました。自分が寝不足になっても、すごい熱になっても第一に農民のことを考えみずほらしい格好をしながらも政府に訴えかけた田中正造はすごいなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/28224631.html</link>
			<pubDate>Fri, 14 Dec 2007 18:57:45 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>伊達政宗</title>
			<description>今日は伊達政宗の伝記を読みました。伊達政宗は１５６７（永禄１０）年８月３日に父伊達輝宗と母義姫との長男として、山形県の米沢城に生まれました。幼名は梵天丸といいます。とても賢い子何で聞き分けのよい子でした。しかし幼い頃に疱瘡になり、医者まで呼びましたが当時の医学ではどうしようもなく母義姫はひたすら祈るしかありませんでした。そして全身のかさぶたはなくなりましたが、右の眼球だけとても腫れあがり、醜くなってしまいました。しかし父輝宗の計らいで家来の小十郎とその他の家来をつけました。そして内気だった梵天丸も次第に外で遊ぶようになりました。１５８１年に相馬氏との初陣を済ませ、１５８４年には家督を相続しました。そしてさまざまな大名と戦いました。そして独眼竜とまで呼ばれるようになりました。辛い病気になりながらもそれを乗り越え大名としての名をあげた正宗はすごいなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/27732816.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 Dec 2007 19:53:12 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>伊藤博文</title>
			<description>今日は伊藤博文の伝記を読みました。伊藤博文は１８４１（天保１２）年に９月２日に、周防の国（山口県東南部）熊毛郡束荷村に、父林十蔵、母琴子の子として生まれました。幼名を利助といい、青白く小柄ながらも、腕白でとても賢かった。寺子屋ではとても熱心に勉強をしました。習字が特にうまかったといわれています。また貧乏の為に父が萩に働きに出ていてもいじけたりせず、陽気に振舞っていたそうです。１８５４（安政１）年、父十蔵が伊藤直右衛門の養子となったため、伊藤利助と名乗りだします。また、ペリーの来航のため相模の国（神奈川県）宮田の陣屋に行く時に、他の萩の武士はなかなか気がなかなか進まなかったのですが、当時足軽だった利助は出世できるチャンスだと思い、自ら進んで行きました。暇さえあれば、黒船や昔の日本の戦い方について詳しく調べたりするその熱心な姿を気に入られ、その時の隊長だった来原良蔵の従者となりました。そしてイギリスなどに留学したり努力をしたりしながら日本で初の憲法「大日本帝国憲法」と「皇室典範」を作り上げ制定しました。また総理大臣、韓国統監府の初代総監なども勤めました。見かけによらず何事にも熱心な伊藤博文はすごいなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/27222990.html</link>
			<pubDate>Fri, 30 Nov 2007 19:17:36 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>武田信玄</title>
			<description>今日は「武田信玄」の伝記を読みました。武田信玄は１５２１（大永１）年１１月３日、武田信虎の長男として甲斐の国の石水寺に生まれる。幼名を太朗（または勝千代）といいます。最初は信虎からとてもかわいがられていたが、次男信繁が生まれると、信繁をかわいがるようになり、信玄を嫌うようになりました。１５３６（天文５）年には３月に元服して武田太朗晴信と名のる。従五位下に叙せられ、大膳大夫兼信濃守の称号を受けました。信濃の国の海野口城を攻めて初陣を飾ります。退く時に自らしんがりを引き受けて、わざと海野口城に３００余りの兵と共に残り、早朝に攻撃を仕掛け見事海野口城を攻め落としました。このころ父信虎は攻め落とすのに夢中で、農民の事などお構いなしに戦に出し度々戦わせました。これでは米が育たず甲斐の国が滅んでしまうため、１５４１（天文１０）年６月に板垣信方と綿密に計画を立てた後、父信虎を駿河の国に追放しました。そして第一に農民のことを考え、足軽大将の意見でも取り入れたり川の治水工事をしたりして領民の人気を集めました。また討ちとった敵でも情けをかけました。そして味方になりました。信玄は戦上手で有名な軍師山本勘介と共に、有名な「風林火山」やきつつき戦法で様々な敵を討ちとっていきました。そして上杉謙信とは５回にもわたる川中島の戦いがありました。３ヶ月も続いたり、７０００人も死んだりしたそうです。敵に情けをかけたり、農民のことを第一に考えたりする武田信玄は器の大きい人なんだと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/26731742.html</link>
			<pubDate>Fri, 23 Nov 2007 23:47:48 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>上杉謙信</title>
			<description>今日は、上杉謙信の伝記を読みました。上杉謙信は１５３０（享禄３）年に越後の国（新潟県）に守護大名の長尾為影の子として生まれました。幼名を虎千代といいました。７歳の時に兄の晴影が家督を次ぐために林泉寺の僧、天室光育にあずけられます。同じ年の十二月に父為陰が病気で死にました。幼い頃から父を亡くしてかわいそうだなと僕は思いました。１５４３（天文１２）年に名を景虎とかえ、栃尾城の主となりました。それからいろいろな人と戦うようになり、謙信に二度そむいた黒田秀忠、兄晴影、長尾政影、そして５度にわたった川中島の合戦で有名な風林火山の武田信玄などと戦いました。特に武田信玄には塩が不足しているために塩を送ろうとしたそうです。敵のはずなのに助けるというのはちょっと意外だなと思いました。武田信玄に塩を送ったり、人に頼まれると断れない上杉謙信の優しさはすごいものだなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/26170782.html</link>
			<pubDate>Fri, 16 Nov 2007 16:07:49 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>聖徳太子</title>
			<description>今日は、昔一万円札にもなっていた聖徳太子の伝記を読みました。聖徳太子は５７４年に昔、飛鳥といわれた所で、生まれました。聖徳太子は正直者で賢く、仏教に非常に関心があったそうです。２歳には仏壇の前で手を合わせて拝むようになり、５歳には渡来人が持ってきた仏教の経典を読みたがったそうです。そして１４歳の時に蘇我氏と共に、物部氏と戦い初めての戦をしました。そして後に推古天皇の摂政になり、僧、仏などの三宝と呼ばれるものを厚く敬うこと、また役人の心構えを示した、「十七条の憲法」をつくりました。また、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智の十二階を定め、地位に関係なく実力があればどんどん出世できる制度「冠位十二階」もつくりました。仏教を厚く敬い、慈悲深く、そして賢いところが聖徳太子のいいところだなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/25636352.html</link>
			<pubDate>Fri, 09 Nov 2007 19:36:15 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>織田信長</title>
			<description>今日は徳川家康、豊臣秀吉と読んできたので織田信長の伝記を読みました。織田信長は１５３４（天文３）年に生まれました。信長は小さい頃、吉法師と呼ばれ乳母が乳を飲ませると乳首に噛み付いて怪我をさせたそうです。信長は１３歳で元服し初陣も済ませた後、槍や鉄砲や泳ぎの練習をしましたが、町を変な格好でうろつくようになりました。これは周りの大名に対して油断させるためにこれをしていたそうです。今川義元と戦う時には、部下に農民のふりをして酒などを献上しどこかで休ませるように仕組み、田楽間で今川義元らが休んでいる所にいっせいに攻め込み、今川義元を打ち落としました。また美濃に攻め込む時にはまわりの将軍に娘をやったりして味方に付けたり、敵の家来なども説得し味方に付けたり近くに城を築いたりし、美濃の大名を追い込み遂に打ち落としたりしました。他にも将軍の名を借りて政治を行っていたが為に１３代将軍義昭に恨まれまわりの将軍に信長を攻め落とすように仕向けましたが、苦戦もしましたが信長が勝ちました。このように敵の家来を味方に付けたり、敵の町を焼いたりしてあの手この手で勝とうとする信長はすごいなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/24995380.html</link>
			<pubDate>Thu, 01 Nov 2007 18:53:51 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>豊臣秀吉</title>
			<description>今日は、豊臣秀吉の伝記を読みました。１５３７（天文６）年２月６日に尾張国愛智郡中村で生まれました。父は織田信秀に仕えていた足軽だったが、いくさで足を怪我し、百姓の仕事もまともにできずに、母のなかと、姉に仕事をまかせっきりになってしまいました。父は秀吉が７歳の時に死んでしまいました。後から来た新しい父とは仲が悪く、１５歳の時に父が残したお金と刀を持って旅にでる事にしました。そしてどの大名に奉公しようかと迷ってるうちに日が暮れたので近くの川の船の上で寝ていたところに来た土豪の頭目蜂須賀小六とであい、ついていくことにしましたが、１５歳なので戦には出れず米や野菜を買ってきたりする雑用ばかりしか仕事が無かったので、小六の元を離れた後、松下加兵衛之のところで、よく知恵を働かせ仕事をやってのけたので、小納戸役に昇進し現金の出納を任せられるようになりました。しかし周りのものにねたまれたので、加兵衛之の元を離れました。そして織田信長の下で働くようになりました。最初はぞうり係だったのですが、知恵を働かせめざましい成績を残したので気に入られ、たった２０年で一国の主にまで登りつめました。そして織田信長が本能寺の変で死んだ後、明智光秀を討ち天下を取ることを目指しました。そして天下統一し関白という職に就き、朝鮮に何度も攻め込みましたが討ち取れませんでした。ある農家からそのさえた知恵とすばやい機敏さで天下統一した秀吉はすごいなと思いました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/megane_desu830/24488511.html</link>
			<pubDate>Fri, 26 Oct 2007 19:16:05 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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