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映画

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劇場に足を運んで映画を見るようになったのは、2000年ごろからでしょうか。コチラは全て吹き替えで、イタリア語の勉強のために見に行くようにしていました。今ではすっかり映画に魅せられて、新しい作品が来るといても立ってもいられないほど。
だいたい週に2本のペースで観にいってます。

2008年秋から、劇場鑑賞の作品については感想を書くことにしました。
イタリアのわが町で公開された新作映画が中心です。アメリカの映画がどうしても多くなりますが。
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久しぶりに映画の感想を。

ここ2,3年賞レースにからんでくる映画が上映される11月から2月の間にイタリアに居ないことが多くて観る機会を逃していた。

映画館の情報をみたら調度アカデミー賞候補の作品が上映中。あわてて駆け込む。

今日観に行ったのは『The Post』。スピルバーク+トム・ハンクス+メリル・ストリープというタッグ。

何の話なのかも調べもせずに観に行ったもんだから、話の半ばまで何が何やら。
オープニングは1966年のヴェトナム戦争のジャングルから始まり、一転して政府専用機の中での会話、そしてワシントンDCの上流階級の社交の様子、新聞社の編集部。

このお話はアメリカの高級紙ワシントン・ポストのオーナーの視点で新聞が社会で大きな役割を果たした歴史的な瞬間を描いた事実に沿った物語。

・・・・なのですが、ウォーターゲート事件の前日譚的なもので、しかも新聞がかつての役割を終えようとしている今となっては、昔話だし、おとぎ話のような作り(というように私には見えた)。しかし、今の所有者がamazonのオーナーとは、、。


原題は「The Post」なのだけど、これは政治の中心地とはいえ一地方紙だった新聞が全国的な名声と信頼を勝ち取ることになったエピソードを扱った話で、「ポスト」といえば「ワシントン・ポスト」になったときのお話であり、また国家の機密文章を流布した罪と、その情報を知る権利、ジャーナリズムの使命について司法判断が下された歴史的なお話であり、衝撃の事実が明かされるような話ではありません(邦題は誤解を招くタイトルだと思いました)。

このとき新聞社のオーナーだったのがオーナー一家に生まれ、父から夫、そして夫の死後新聞社を経営することになったグラハム夫人(メリル・ストリープ)です。はじめは父の時代の番頭の言いなりです。
そして、当時編集長を務めていたのがベン(トム・ハンクス)。この二人を通して友情と正義の間の葛藤、あるいは商売と社会的使命の間で揺れ動く様子が丁寧に描かれています。新聞というメディアと時代との関係がよくわかる内容でした。そして彼女の勇気ある決断が当時の新しいジャーナリズムのムーブメントを作ったのでしょう。

ラストのワンカットはにくい演出です。
南アの映画監督、『第9地区』を撮ったブロムカンプが20分のショートフィルムを無料配信している。
なんでも、『エイリアン5』の企画が没になったあと、シガニー・ウィーバーを口説いて次世代エイリアンのイメージで構築したものらしい。

トカゲ型エイリアンに占領された地球。荒廃した世界。かつての人類のモニュメントには人間の死体が貼り付けられている。まるでかつてのカンボジア大虐殺のよう。グロい表現もあるので、ご注意。
とりあえず、英語版ですが、ブロムカンプらしい世界観は見て取れると思います。


Oats Studios - Volume 1 - Rakka

『ゾンビ』(1978)

原題:Dawn of the Dead 邦題:ゾンビ 英題:Zombie
監督:George A. Romero
バージョン:ディレクターズ・カット版


ありえないだろって感じですが、今更ながら、『ゾンビ』を初めて観ました。
ホラーが苦手なので自分から積極的にこのジャンルのものを見ることはないのですが、
ふと見る気になったのです。

見終わってみると、想像していたものと違って、単なるエンターテインメントではなく、
現代文明に対する鋭い批判的精神を含んだ、結構哲学的な内容で、とても面白かったです。

その興奮が醒めないうちに感じたことを書き留めておこうと思います。

舞台設定は公開された当時のアメリカなのかな。この映画が公開された1978年頃というのはどういう時代なんだろう。
ベルリンの壁の建設が75年に完成し、東西の冷戦と核戦争の脅威があったにしても、大きな戦争もなく、おそらく市民の日常生活は、平和な時代の豊かさを享受していたんじゃないかな。
そんな飽和した豊かさの倦怠感が、この映画の背景にはあるような気がしました。

ゾンビがどういうものかというのは今更説明する必要もないと思いますが、この時代のゾンビはのろのろと歩く飢えた死者で、生きた肉を求めて知恵もなく移動している。

このゾンビについて「地獄が一杯になると死人が地上を歩く」という言い伝えが語られます。これはなかなか示唆に富んだ言葉です。

歩く屍、walking dead というゾンビのことを描写する表現は、ある時には生きている側の人間についていっている言葉にも感じられ、それが見ていてとても面白いところでした。

物語は、ゾンビがどんどん増えて、機能不全に陥った大都市からヘリコプターで脱出した主人公ら4人の逃避行が描かれます。
そしてあるショッピングモールに逃げ込むと、出入り口をふさいで籠城戦となります。中には生活に必要なものがすべて揃っているし、ゾンビにはそこを突破する力はないので、中にいる限りは安全なのです。

モールを占拠すると、すぐそこに世界の終わりが近づいているかもしれないのに、貴金属や売上のお金を手に入れたりする様子が描かれる。ゾンビたちはそんなものには目もくれずただ生きた血を求めるだけ。この両者の対比が面白い。

やがて安全が確保され落ち着くと、こんどは退屈との戦いが始まります。外部との接触もなく、情報も途切れ、自由もない。高級品で身を飾り、高級食材で優雅な食事を取りますが、生きていても死んでいるような暮らしなのです。

そんなところにならず者の集団が訪れ、略奪のために進入し、事態は大きく変わっていきます。

物語の結末は見る人にゆだねられる形になりますが、人間であるというのはどういうことなんだろうということを考えさせられます。希望とは何か、尊厳とは何か。


ところで、ゾンビを倒していくのって、シューティングゲームと言うか、インベーダーゲームというか、敵が一杯やってくるとどうにもなんなくなるところとかそっくりだなって思いました。

さて、次はゾンビのパロディー映画を見るぞ。ふふ。
原題:Still Alice  伊題:Still Alice
監督:リチャード・グラツァー、ウォッシュ・ウエストモアランド


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久しぶりに映画を観にいきました。やはり劇場で観ると他の観客の反応も色々あって面白いですね。

映画としてはシンプルなつくりですが、いろんな意味で話題性のある作品だと思います。

今年のアカデミー賞で主演女優のジュリアン・ムーアがこの映画でオスカーを取ったこと。

監督リチャード・グラツァーが筋委縮性側索硬化症という難病にかかり、病気発症後に作品に取り掛かかり、撮影現場ではしゃべれなかったためiPadと指を使ってコミュニケーションをとっていたこと。そして先月闘病の末に亡くなったこと。アカデミー賞授賞式当日は病室のテレビで様子を観ていたそうです。

神経科学の専門家リサ・ジェノヴァによる(原題が)同名の小説『静かなアリス』が原作だそうで、若年性アルツハイマーを50歳で発症した女性と家族の物語を専門家としての経験から書いています。

リチャード・グラツァーの病気発症は2011年ということなのですが、パートナーでこの作品の共同執筆者でもあるウォッシュ・ウエストモアランドが最後に何をしたいかと聞いたそうですね。世界旅行でもしたいか?と。そうしたら映画を撮りたいと。それで共同で脚本を書いて撮影に臨んだようです。
私生活では2013年に結婚しているそうですね。その頃には病状もかなり進んでいたようです。

☆・・・・・・・☆・・・・・・・☆・・・・・・・☆・・・・・・・☆

50歳の誕生日を迎えたアリスの誕生パーティの場面からはじまるこの物語。
成功した女性を絵に描いたようなアリス。
知的で、美しく、家族にも愛情にも恵まれ、社会的にも成功し、まだまだ先のある人生に思われた。
その「成功」が自身と家族の誇りでもあり、アイデンティティでもある。

彼女はコロンビア大学で言語学の教鞭をとっており、その知性をよりどころに、3人の子育てもしてきた。
夫(=アレック・ボールドウィン)も社会的に成功したビジネスマンで、子供たちも立派に育っている。
唯一の悩みといえば、末の娘(=クリステン・スチュワート)の将来で、舞台女優を志しているが、全く芽が出る様子もない。

そんなある日、大事な講演で言葉をど忘れするという出来事があり、
さらに、ジョギングの最中に方向感覚を失うという経験をし脳神経科医を訪ねる。

いくつかのテストを経て原因は若年性のアルツハイマーと診断され、遺伝的なものだと知らされる。

☆・・・・・・・☆・・・・・・・☆・・・・・・・☆・・・・・・・☆

物語は進行する病状と、本人、家族、社会との関係と葛藤を描いていきます。
これは難病を題材にしている話ですが、「自己」とは何かということを観るものに突きつける作品だと思いました。

劇中、病気を受け入れられない本人が「癌の方がよかった」と言う場面があります。
それなら体面が保て、堂々と闘病ができるからだと。
この言葉がこの病気で苦しむ人たちの気持ちをうまく代弁していると思いました。

記憶を失うことの恐怖。それは自分とその築いてきた人生を失うことに思えるからなのでしょう。
癌も細胞レベルで自己をのっとられ侵食される病気ですから、アイデンティティを奪われるということでは似ているように思えるのですが、記憶を失うことは死への恐怖とは別の恐怖があるようです。

ここには人間が何をもって「生」を認識しているのか、ということが表れていると思いました。
「意識」が人間の生を規定するのか、それとも「身体」が自己なのか。

あくまで人間はその精神によって成り立っているのだと思えば、肉体が滅びても精神は生き続けると信じ、意識が失われた時点で死んだと考えることができます。現代の医学はこちらでしょうか。
脳死や、体が拒絶反応を起こす他者の臓器を移植しようとするのも、意識の方を自己のアイデンティティの上位にあると考えるからなのでしょう。
立派な墓を建てたり、自爆テロを起こしたりするのも根っこは同じかもしれない。

私は、死んでしまえば、自分も何もないと思うし、自分の人生の主導権を最後まで自分で握っているというのも結構怖いことだなと思うのですが、アリスの気持ちはよくわかります。

アリスの場合、自身の知性と理性にアイデンティティを置いて生きてきたわけですからなおさら葛藤は大きいものでしょう。

他方で、自分の身体にアイデンティティをもっている人の場合どのように感じるのだろうか。監督がかかった病気、筋萎縮症というのは意識は自己のまま、身体が言うことを聞かなくなるものです。スポーツ選手がかかることが多いですが、よけいにつらいだろうと想像します。

どちらも自己の主導権を奪われ、「あるべき自分」というものを取り戻せなくなるので苦しいのですね。
この「あるべき自分」「ありたい自分」ということがすべてなのか?というところで、末の娘と他の家族との対応の違いがとても興味深いです。プライバシーに関するやり取りなども考えるに値するエピソードだと思いました。

今では生活に欠かせなくなってしまったインターネットは「意識」だけで成り立っている世界。
デカルト以降、精神や意識を上位に置いて生活している現代の私たちなのですが、これからもそういう傾向は加速していくんだろうなと思います。

一方で「我思う」がなくても存在する絶対的な生というものもあります。
赤ん坊や、動物や、社会性はないけれど本来持っている生命力で生きている人々。
彼らの持っている強烈な存在感がこの映画にあるメッセージのようにも思いました。
自分が信じる以外の自己というのも存在するのではないのか。


(ここからネタバレなので反転して置きます。)

劇中アリスはまだ理性があるうちに自身の自殺を仕込んでおくのですが、この自殺の成り行きに劇場の反応は二つに分かれました。運が良かったという意見と、悲劇だという意見です。これ、自分だったらどうするのかな、ということを考えたけれど、まぁ、いまのところ他人事なので答えは出ないです。

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原題:Boyhood  伊題:Boyhood
監督:リチャード・リンクレイター


21世紀初頭の現代の「家族の肖像」ともいえる作品です。
一人の少年の目を通して、その少年が育った家族の日常を描いています。

両親の離婚によって、メイソンJr.は母オリビア(=パトリシア・アークエッド)と、そして年の近い姉のサマンサ(=ローレライ・リンクレーター、監督の娘)とテキサス州に暮らしています。週末を一緒に過ごす父は永遠に自分探しをしているようなメイソン・シニア(=イーサン・ホーク)。子供たちの生活は母がする人生の選択によって転居と変化を余儀なくされるのですが・・・・

*   *   *

160分の映画の中で、何か特別なことが起るわけではありません。
人生の中で誰にでも起りうるようなある意味で平凡ともいえる経験を淡々と追っているとも言えるし、誰もが少年少女時代から青年期にかけて経験する初めてのこと、迷いや、沈黙や、怒りや、悲しみや喜びに満ちているとも言えます。
実際にはこの160分の中に12年間分の時間と経験が詰まっています。

主人公の少年メイソン(=エラ・コルトレーン)が成人する18歳まで(高校卒業とカレッジへの入学まで)の12年間を追いますが、特筆すべきは同じ子役、俳優を使って、撮影に実際12年間をかけたということです。

同じストーリ、脚本だったとしても、普通の映画でやるように、少年期、思春期、青年期、と俳優を変えて決まった時間で撮るということをしていたら、ここまで話題にはならなかったでしょうし、なにより、ディテールに、そして共感に欠けたかもしれません。

この12年間に、私たちが実際に経験した出来事(戦争、政治、文化、流行、ファッション)が、社会的な影響力の大小に関わらず記録されていて、観客もまた、記憶の中にある時間を再体験することになります。

撮影は毎年夏休みに行われたそうで、元の設定は監督の少年時代が反映されているそうですが、毎年その年のお話を子役少年の成長に合わせて作っていったそうです。ですから「作り物」でありながら、俳優たちの実生活も反映されていて、少年の視線はリアルで雄弁です。

監督のリチャード・リンクレーターは『ビフォア・サンライズ』とそれに続く3部作で、作品の中にストーリーだけでなく、実際の時間を組み込み、時間がもたらす変化を、人間関係や時代を通して、物理的にも感情的にも記録するのをひとつの手法としています。

こちらの作品では対象が子供の成長ですから、かなりのリスクがあったことと思いますが、成長した少年が、父役を演じたイーセン・ホークにどこかしら似たような雰囲気をたたえているのは不思議です。

つづきはあるのでしょうか。
気になります。

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