えいきの修学旅行

田立の掃討して飛騨へ。宮地、楢尾山、萩原諏訪、桜洞、為坪、久々野、牛臥山、切手の偵察。

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 中地山城は、論田山城の常願寺川1.7km下流崖上に築かれ永禄年間に越中に進出した北飛騨の江馬氏が支配統治の拠点とした城で、当主時盛の長子輝盛が重臣河上富信らと進駐、在城した。
イメージ 1
 築城時期は永禄年間で諸説あり、永禄2年、8年、武田に従属する形勢での進出。また永録7年、第5回川中島合戦に連動する武田につく当主時盛と上杉方三木良頼と連携し上杉に寄せる長子輝盛の相克時「…輝盛御内談、至干越中境被取探儀、…」(河上中務丞宛河田長親書状上越市史440)の築城。が有力のよう。
 
 
以下、長くなりますが地理と歴史。
 
イメージ 3本拠高原諏訪城とは、うれ往来という山間の有峰(うれ・現有峰湖ありみねこ)を経る道で繋がっていた。(神通川沿いの現国道41号ルートは南飛騨の三木氏が抑えていた・伝承であるが、佐々に攻め込まれ滅亡に至るルートもこちら)また、常願寺川対岸には立山信仰の衆徒集団で僧兵を要する芦峅寺があり、立山往来を経て信濃と繋がっていた。
 武田勢力の先方として越中に進出し、支配拠点として築城、長子輝盛が在城。が、越後長尾氏に従属する椎名氏の松倉城に近く、上杉政虎(永禄四年改名)の脅威を間近で感じる位地であり、時盛とは別に上杉方と交渉、意を通じていたのであろう。後に輝盛は父時盛に刺客をおくり殺害(天正元年説、同6年説有)、江馬当主となる。輝盛は高原城に入り、河上富信が中地山城代となった。
 ←諏訪高原城とありますが正しくは高原諏訪城です
常願寺川の東には、永禄11年頃神保被官であったが神保氏を離れ上杉に反旗を翻した寺崎氏の池田城、当初上杉方であったが永禄11年上杉に背き(永禄9年頃には兆しがあったよう)元亀4年頃滅亡する椎名氏の松倉城あり、武田勢力化の安曇野から、諏訪高原城ー中地山城ー池田城ー松倉城ー越後と、武田上杉間で表裏する勢力が数珠繋がりで、永禄11年に松倉城椎名氏が武田についた背景にはこのルートがオセロの様に武田色に返り、繋がったのだろう。とすると武田の意は安曇野から金山を持つ松倉城椎名氏へ向かったように思える。
 
 また輝盛が江馬氏を継いだ後は、このルートで越後上杉ー美濃上方方面が繋がり、武田信玄死去の情報「…信玄の儀、甲州へ御納馬候、然間、御煩由候、又被成死居候共申成候、如何、不審存知候、…」  (河田長親宛河上中務丞富信書状上越市史1152)、が将軍義昭の信長への降伏の様子とともに上杉謙信に伝わったのは、このルートである。
 
イメージ 20←現地説明版実測図 
拙ブログ説明用に加筆してあります
 
下部、横に走る赤い線が「うれ往来」に繋がる街道で、飛騨と越中を結ぶ街道を取り込み、街道側にソーカワという内堀線を設け、街道を扼している。というより街道に面した「江馬氏中地山支所」といった感がする。役割はそうであろう。
 
中地山集落からの遊歩道は赤い線左から入ります。
   
 
 
イメージ 2中地山公民館に案内版があります。車はここにおいて歩いていかれたほうがいいです。
城は左に入り登りますが、道を進むと中地山神社があり、殿様乗馬石と伝わる石が移されて在ります。
 
 
  
 
 
 
イメージ 4
遊歩道入ったところ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12外堀(右)と内堀の間を道が通ります。
みぎが外堀とされていますが、城郭遺構か定かではありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19街道に立派な説明版が設置されています
左に中地山城
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 23
内堀がソーカワ(総曲輪)と伝わるので、内堀の中が城域でしょう
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 21内堀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 22内堀の内側 C郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 24
高地の裾に向かって進むと、切岸が城壁様に立ちはだかります。
8地点
右は岩場で、寄せ手はこの切岸下に集められるようです。
中央から右寄りに虎口のような切り口が二箇所見えます。佐伯氏は、切り口から入ったのではなく、切岸下を左に進み、竪掘り手前から上がったのでは、と推測しています。
 
イメージ 25右側の岩場
櫓台のようにも使えそう
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
イメージ 5岩場のした、内堀の内側が巻く
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6先ほどの切り口からあがります
 
奥の高地上が主郭A郭
右に虎口(あとで)
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7
あがって左
この奥に下に向かって竪掘、上の主郭に向かって竪土塁状の土橋がある。
 
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 8
竪掘と土橋
佐伯氏は切岸下をこの竪掘りまで進ませ、竪掘り手前でここにあげたのではいか、と推測している。
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 9線なし
 
だが、ここから上がると土橋が見えて、土橋から簡単に主郭に上がれてしまう気がする。土橋は主郭の端に着いていて、迎撃攻撃を集中できない。
このルートは城兵用の隠しルートではないだろうか。もしくは、
 土橋ではなく、左に侵入させないための障壁としての竪土塁であろうか。 
 
 
イメージ 10
竪掘
 
 
 
 
 
 
 
先ほどの切り口からあがったところへ戻ります 
 
 
イメージ 11右に主郭へ上がる虎口
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13
虎口うちから
岩場をつかって折れ迎えいれている
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14主郭A
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
イメージ 15北東隅に尖った山?がある
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
イメージ 16天辺は狭く、指揮所や櫓台にはならないのではないか?
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
イメージ 17またA郭南西には電力会社施設跡もある。
城郭以降が破壊されている箇所も多々あることを考慮しながら見なければならない。
 
 
  
 
 
 
 
 
 
天正6年3月に謙信が死後すると、織田の勢力を背景にした神保・徳山に攻められ、河上富信は有峰を経て飛騨高原に退去、河上伊豆守忠輔は討死、9月5日、中地山城は落城したようである。
  
参考文献 富山県大山町中世城館調査報告書 佐伯哲也著 越中中世城郭図面集Ⅰ
       大山町史 中世江馬氏の研究 
 
イメージ 18
中地山神社境内に移された殿様乗馬石

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