えいきの修学旅行

今年3回ほど遭難しかけたのでガーミン購入。

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            笹川集落からみる宮崎城
イメージ 21源平、南北朝と活躍した宮崎党の要害であったようだが、越後から越中に支配を拡大させた謙信の越後と越中を繋ぐ城で、境の要害と呼ばれていた。
 
境には関所と謙信の料所があり、越後から代官や番衆が派遣されていた。運上や年貢を集める蔵があり、その賄いとされていた。
 
こちら側の山麓に根小屋と思われる一の坂武家屋敷群がある。
 
イメージ 22林道脇に一の坂武家屋敷群
場所はここhttp://yahoo.jp/RnT-9o
 
知らないと見落とします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 23これは
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 27率直に驚き
 
天正10年(1582)「當年土貢之納所、何方ニ而茂可然所見繕、御蔵可被相達之事」と、 直江兼続が土貢を納める蔵を蔵を建てさせている。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 24虎口というか、城戸かも。
 
 
  
  
越後から派遣された代官や番衆が住み、賄う蔵が置かれたのはこのあたりであろうか。海岸から内陸にあるので海賊から襲撃されにくかったかもしれない。
 
 
 
 
イメージ 25 林道を宮崎城に向かって100mほど登ると城山一の坂の看板がある。
 
武家屋敷群は看板よりも下方です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 26看板の右に踏み込むと、古道であろうか、なにやら遺構らしい雰囲気
 
 横尾城その1でも触れています。ご覧ください。 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/14584178.html
 
  
 
林道を山上へ
 
 
 
イメージ 1林道を登っていくと大きな駐車場に辿り着きます。
宮崎城は、電波状況と見通しが絶好のため、電波塔と旧日本陸軍に破壊・活用されます。
ので、山城の雰囲気は壊されていますが、越後ー越中を結ぶ絶好の要地であることとがその眺望から感じることができます。
夏と冬の写真が混ざります。御許容ください。
 
 
イメージ 2
右手、電波塔の下を通りながら宮崎城へ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3この右手も「朝日町の山城」では、城域としている
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
車止めの向こうがG郭
この付近が鷺野曲輪虎口とされ、食い違い土橋が推定される
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5トイレの裏に堀切
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
車止めの奥 G曲輪
英字は佐伯哲也著 越中中世城郭図面集に準拠
日本陸軍により削平され、公園となっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7G曲輪、西斜面には11条の畝状空堀群
 
この急斜面に普請した兵達、調査した佐伯氏に畏敬の念
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8
G郭とB郭は土橋状に繋がるが、旧陸軍により堀が埋められ車道とされたようである
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9
主郭下、B郭
 
B郭は富山県史蹟名勝天然記念物調査報告書では外郭としている
日本陸軍も通信施設、対空機関銃砲座を設置していた
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10八幡社 
朝日町の城では「そのあたりにそれまであったかのように、遺構も出土品もないのに、観光用の八幡宮の社殿が建っている」と警告をはっしている
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12A郭 主郭上
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11越中方面の眺望
 
絶景
 
写真映りは不明瞭ですが、能登まで手が届くように見える
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13越後方面の眺望
 
この越中、越後間の海沿いの回廊のような平地部、宮崎ー境ー玉ノ木ー市振は、海賊する椎名牢人に荒らされた。
 
ここを海賊するということは、越後から越中に首を出す越軍の首を脅かすような地利になる。
 
  
イメージ 20越後国境
 
まさか見えるとは思っていませんでしたが、この日は驚くことに、米山、旗持城が目視できました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 元亀四年五月十四日 河隅三郎左衛門尉・庄田隼人佑宛謙信書状(上越市史1158)から、長いので分けながら紹介します。
 ○椎名牢人が海賊になり村々に放火し荒らしまわるのに対し、境、市振、玉ノ木、市振の者共に槍と小旗を用意させ、船が海岸に着いたところを集まって攻めるとても効果がある。と、散り散りに逃げていたのを集まってこう攻めよ指示している。
「…かいぞく(海賊)ハしいならう人(椎名牢人)いたすよし申□、さやうニも□□かいぞくのもの共ぶしゆ(無衆)のよし申候、きやうこう(向後)ハ、ふね見立候ハヽ、さかい(境)・いちぶり(市振)・たもの木(玉ノ木)・□やざき(宮崎)きんへんのもの共ニ、やりよふい(槍用意)候て、こはた(小旗)をもさうたうニ申しつけ、そのきんへんのむら一ツに□(あ)つまり、ふねつけ候ところへおりかゝ!り候ハヽ、とてもすまじく候、てき一人も見ゑ候へハ、ちり〱ににげ候間、よき事と心へ、むら〱へはたらき、やきまわり(焼廻)候、かたかたきやうこうハ、ぢげ人(地下)も身だめニ候間、やり・こはたよふい(用意)申べきよし、申つけべく候、…」
 
 ○境要害の城将、河隅三郎左衛門尉・庄田隼人に、鉄砲15丁を用意し、市振、玉ノ木、境、宮崎の者を組織してあたるよう指示している。また、実城、二の郭、三の郭に塀を普請させている。村・要害が手浅に見えないように竹木を切らないよう指示している。越中に居る河田対馬守に手紙を届けるよう(越後ー越中の中継)指示している。
「…しやう田(庄田)、てつはう(鉄砲)いかん共よふい申へく候、ごぶん(吾分)身だめ、又ハ身のかたへのほうこうニ候間、いかん共てつはう十五ちやうよふい申へく候、ここもとより、そのほかをばこすべく候、きやうこうハ、かならすかならすいちぶり・たもの木・さかい・ミやざきのもの一ツニなり、はしりめぐらせへく候て、けんごにみぢやうハ申におよばず、二のくるは・三のくるままて、へいに申つけへく候、又ぢんしゆニさかい・ミやざきの竹木きらせまじく候、きり候へハ、むらようがい(村要害)なを〱てあさ(手浅)に見なすものニ候、孫二郎・やまとにも、このだん申せいこうさせへく候、又ぶたう(無道)なきやうニ申つけさせへく候、謹言、追而、河田対馬守かたへ文をこし、ぢき(直)に□(と)どけへく候、以上、」
 
イメージ 14
A郭 実城か
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 15北西下にC郭 二の郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16その下にD郭 ひろしき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17その奥にE郭 三の郭
 
ここには当時のものと思われる石垣が現存している
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18石垣
 
 
最奥に「北陸宮陵墓と宮崎太郎長康供養塔があるが、朝日町の山城では「観光には良いが、歴史遺跡としては考えものである」としている。
 
その北陸宮陵墓裏の切岸したから尾根伝いに元屋敷城(作成中)に繋がっている(いた)。
 
イメージ 19とても降りれない
 
元屋敷城へは、藪をかきわけ、崖をまわり込み行ってきました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮崎城から越中と越後を見比べると、かたや沃野が広がる越中、かたや越後へは天険親不知が阻む。覇気は越中へ向かうであろう。
 
参考文献 越中中世城郭図面集Ⅱ 高岡徹 戦国期越中の「海賊」史料をめぐって
       竹内俊一 越国境朝日町の山城 上越市史
   
  以下1月19日追補します。
イメージ 28補1 Googlemapに加筆
 
境は境川の西岸すぐで、宮崎はこの平野部の西端地区
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 29補2 境川西岸 
 
境関所、背後の山上に境端城があった。
 
朝日町の山城によると、天正12年10月には「境川左岸には山際より海まで三十餘間(約70m)の石垣を築き出し、門を立て櫓を上げて海辺まで差塞いていた」(越後治乱記)
境端城は、竪堀二本と曲輪が認められる砦程度の規模。
 
 
イメージ 30補3
宮崎城の南麓、笹川地区
朝日町の山城P32より転載 美の輪、手取田に桃線
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝日町の山城より 軍記物lをもとに書かれたようですが。
 
天正12年10月、景勝が佐々に奪われた宮崎城奪還を目指す合戦において、佐々勢は宮崎城将益木中務丞を本丸に残し、丹羽(美の輪)権平は800人の手勢を率いて河田勢に打って出た。が、河田長親(天正9年に亡くなっているはずだが)に馬より突き落とされ、字「手取田」で生け捕られたという。

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2013/1/18(金) 午後 11:33 [ tel3oo720z35z39 ] 返信する

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2013/1/19(土) 午前 0:26 [ kcm3oo72bz3bz50 ] 返信する

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宮崎城ですね。史料を読むと、「境」と「宮崎」は厳密には別なのですかねぇ。「境の城」は宮崎城のことでいいのですよね。
別名「荒山城」ともいうそうなので、この城が例の「荒城」でいいのかなと考えていますが、いかがでしょうか。いろんな呼び方があるようで混乱します。ちなみに目下執筆中です・・・
あと、別の未紹介史料に「境の城」の「権平曲輪」という曲輪が出てきます。三輪権平という人がこの城にいたという情報もあるのですが、何かご存知ですか?

2013/1/19(土) 午前 9:22 竹 返信する

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竹さん、執筆中ですか!楽しみでエキサイトしていまします。
ブログ記事下部に3つ追補しました。境はこの平野部の境川西岸付近、宮崎は西端付近です。境要害は、境集落の背後の山に境端城がありますが砦程度の規模で、実城・二の郭・三の郭を備え越後からの旗本が在番するほどの規模の要害は、宮崎城でよいと思います。「荒城」の特定は竹さんの論文での発表を楽しみにしますが、気になる伝承があります。天正時代、佐々と上杉のせめぎ合いから、越中ー越後国境は風雲急を告げてた。それを伝え聞いた諸国の浪人たちがいつの間にかこの地に集まり、元屋敷集落を構えたと「金森古文書」の記事が伝説的に信じられる。とあります。その浪人たちが景勝正規軍撤収後も越後の意を受けて(雇われて)、元屋敷集落と背後の元屋敷城に屯し、物騒な荒城面々となっていたのでは、とも愚考してもいます。
字余りで、別コメントします。

2013/1/19(土) 午後 8:41 [ えいき ] 返信する

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「権平曲輪」は私の資料には見当たりませんでしたが、宮崎城南麓に「三の輪」という小字と、佐々の武将としての丹羽(美の輪)権平に関する伝承がありました。補3以外にも、元屋敷城西麓の引火矢谷でも、宮崎城に攻め上らんとする景勝勢と三輪等と弓鉄砲にて大に激戦する地なりという伝承があります。(泊町商工案内)

2013/1/19(土) 午後 8:41 [ えいき ] 返信する

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早速ありがとうございました。
なるほど、境と宮崎は違う地名で隣同士なのですね。それにしても興味深い伝承、戦国期の「境目」の実態の一面を表しているような感じですね。
城の南麓に「三の輪」ですか、そのあたりか、山上の曲輪のどこかか、どちらにせよ宮崎城に関わる実在の人物のようで、面白いですね。

2013/1/20(日) 午後 2:17 竹 返信する

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